いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

神に祈るとき、この3つの点を理解することはとても重要です

2019-12-20 15:57:23 | 賛美の心

兄弟姉妹の皆さん:

 主にあって平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じています。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

 実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです
 主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなければならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかどうかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとさえします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。また、家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中で、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

第2に、私たちは理性を持って神様の前に祈っているかどうかです
 私たちが祈るときは往々にして神様にむやみにお願いしたり、大それたお願いをしたりします。例えば、仕事がないとき、仕事を下さいと祈ります。子供がいなければ、子供を与えて下さいとお願いします。病気であれば、癒やしを求めます。家族が困難に直面していれば、助けを求めます。事業をしていれば、祝福されて儲かるようにと祈ります。学生であれば、知性と知恵を頂いて祝福されるように祈ります。老人は病と災難から守られ、平安な余生を送れるように祈ります。人生では、私たちがどのような困難や試練に直面する時にも、神様の采配に決して従うことができないのです。いつでも神様が問題から救い出し、苦しむことのないようにと願います。幸せで平和であるようにといつも主に願い求めます。….これは神様に造られたものが捧げる祈りではありません。それどころか、それは神様にただ何かを求め、人間の思いに応じて神様が物事を為してくださるように願っているだけなのです。神様を信じる時、人々は、神様がすべての求めに応じて望みを叶えて下さることを望みます。これは基本的に神様と取り引きすることであって、良心や理性の欠片もそこにはありません。そのようなお祈りを捧げる人々には純粋な信仰も愛もなく、心から神様に従うことも敬うこともしません。自分の目的を果たすために神様を利用しているのです。正に神様が次のように言われる通りです。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイによる福音書 15:8)

第3に、私たちの教会には聖霊の働きがあるかどうかです
 恵みの時代の最初の段階で、神殿に聖霊の働きがあった頃を思い出してください。人々が罪を犯した時、彼らは聖霊による鍛錬を受けました。神様に仕える祭司が律法を守らなかったならば、天からまっすぐに火が降りてきて彼らを焼き殺しました。人々は非常に恐れ、神様を敬う心を持ったのです。けれども恵みの時代の後半になり、イエス様が現れて業を成されるようになると、ユダヤの人々は律法を守ることができず、神殿を両替や生活用品を売る場所として使ったのです。彼らは神殿を強盗の巣にしたのです。そこには聖霊の鍛錬はもはやありませんでした。聖霊はイエス様の働きを守るため、すでに神殿から離れていたので、神殿に残ってイエス様の救いを拒否した人々は神様の働きから排除され、闇に落ちました。たとえヤーウェの名で彼らが祈っても、神様は聞かれませんでした。彼らが聖霊の働きを得ることなど尚更ありませんでした。

 今日の教会に目を向けてみましょう。牧師や長老の説教は退屈です。新たな光などありません。兄弟姉妹はいのちを養われることはなく、彼らの霊は萎えて暗くなり、聖霊の存在を感じることができません。彼らは肉の欲と人生の楽しみとともに、地位と権力さえ欲し始めます。同僚の間には摩擦が起こります。彼らの罪は彼らに対して勝利を宣言し、彼らは主に負い目を感じることもなくなります。 神様の言葉に従うことはなく、神様の命令を守ることもしません。神様の旨を完全に損ない、神様を拒絶する者たちとなりました・・・このような教会と、律法の時代後期に存在した神殿との違いは何でしょうか? これは聖書の次の預言の完全なる成就です。「『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。 そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』とヤーウェは言われる。」事実、神様は恵みの時代の教会を去られました。多くの兄弟姉妹が、教会には既に聖霊の働きはなく、神様は御顔を隠されてしまったと感じているのです。それならばどうして私たちの霊が萎えずにいることができるでしょうか。それでどうして神様が私たちの祈りを聞くことができるでしょうか。

 これまで説明してきた3つの状況が、主が祈りを聞かれない主な理由です。私たちは主の前に出て主の意図を求め、これらの問題を振り返ってみるしかありません。また私たちは、主に聞いていただけるような祈りはどのようなものかを追求しなくてはなりません。これは私たちが学んで成長する必要のある真実です。それではここで、みなさんが神様の意図に沿って祈るにはどう祈ったら良いかを知るために三つの方法をご紹介します。私たちが毎日心から実行し、実践することができるのであれば、主は私たちの祈りを聞いて下さると私は信じています。

第1に、霊によって祈り、心から、真実の言葉をもって祈らなければならないということです
 私たちはみな神様が忠実なお方だと知っています。神様には不実も、偽善も嘘もありません。神様は私たちひとりひとりに誠実です。神様は私たちが誠実で正直な祈りをささげることを願っておられます。イエス様が次のように言われた通りです。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書 5:37) 従って、祈るときには、神様にありのままを話さなければなりません。私たちが弱ければ、弱いと素直に言うべきです。神様の意図に沿わないどんな考え、発想、痛み、困難、物事も、完全に心を開いて神様に話すべきです。他人に話すのは恥ずかしいような言葉や内容もありますが、それらを神様から隠すことはできません。私たちは神様に心を開いて正直に話すべきなのです。私たちが心を大きく開いて何も隠さず、心のままを率直に神様に話していることを神様が知るならば、神様は私たちが神様の意図と真理の全ての側面を理解するように導いて下さいます。そうすれば私たちは進むべき道を得るのです。

 加えて、祈るときには静まらなくてはなりません。私たちは心を集中させて祈らなければなりません。気持ち半分であったり、上の空で祈ったりしてはなりません。私たちは、親と話す時には、親を尊敬できます。親に対する態度は誠実です。親は私たちより年長で、育ててくれたからではないでしょうか。神様は私たちを造られ、いのちを与えられ、生活に必要な全てを与え、真理を与えて下さいました。そうであれば、神様を敬う気持ちで祈ることは尚更大切ではないでしょうか。何を祈るかに関わらず、私たちは熱心に神様の意図を求め、正直に思いと困難を伝え、神様の時を忍耐を持って待たなくてはなりません。そうして初めて、私たちは神様の啓きと導きを得、神様の意図を理解することができるのです。そうする時に、私たちの困難は、必要な時に解決されるのです。

第2に、私たちは被造物の立場に立ち、神様に要求をしないということです。これは、神様への服従心を持って祈るということです

 祈るときには、私たちは被造物であり、神様が創造主であることを明確に知っていなければなりません。神様は全てのことと全てのものを御手に握っておられます。私たちの全ては主の御手に支配されています。私たちが日々直面することは、事の大小を問わず、全て神様の采配によるのです。私たちが神様に祈る時には、被造物としての立場にしっかり立ち、熱心で従順な態度で神様の御心を求めなければなりません。神様に何ら要求をしてはなりません。例えば、困難に直面してどうして良いか分からない時、次のように祈ることができます。「神様。この事に関して、一体何が真実なのか分かりません。あなたの意図に沿うにはどうすべきなのか分かりません。けれども、わたしはあなたの言葉を求め、あなたの求めに応じて物事を行い、あなたの意図を満足させたいと願っています。どうか私を啓き導いてください。アーメン。」私たちの心に神様の場所があり、被造物としての立場に立って祈り、ひれ伏し、創造主に礼拝を捧げる時、そして神の働きに従ってその御言葉を実践する時に初めて、神様との正常な関係を築くことができ、聖霊の働きを得ることができるのです。ヨブが神を畏れて悪を避ける人であったことはみな良く知っています。ヨブが自分の家畜、息子、娘達をすべて失った時、そして体中が腫れ物に覆われて激しい痛みに耐えていた時、ヨブは神様が万物の支配者であり、神様の許しなしにはそのような事が自分に降りかかることはないと信じました。それだけではなく、自分の命も含めて、所有物のすべてが神様によって与えられたものだということを知っていました。神様がいつそれを取り上げても、自然で正しいことだと知っていました。ですから、ヨブは神様に不平を言うことも神様に何かを要求することもありませんでした。それ故ヨブは、膝をかがめ、服従の心を持って神様を礼拝し、次のように祈ったのです。 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。(ヨブ記 2:10)ヨブは堅く立って、神様に対する証しとなりました。ヨブの理性と神様への服従は神様からの称賛を得ました。私たちもヨブと同じような姿勢で神様に向かうことができたならば、心に神様の居場所があり、どのような困難に出会おうとも神様への服従心によって祈ることが出来、神様は私たちを導き、啓き、真理を理解できるようにして下さいます。私たちの霊は研ぎ澄まされ、思考がはっきりとしてきます。私たちが何らかの堕落を現わしたり、良くない状況になったりした時、それを自覚して適切に対処することが容易になります。そうなれば、神様は更に私たちに近づいてくださり、いのちの成長は更に速くなります。

第3に、私たちの教会に聖霊の働きがないのであれば、それを求める祈りを捧げなければならないということです
 律法の時代の後期、サタンにより人間は益々堕落したことを私たちは知っています。人は罪の中に生き、律法によって罪に定められて死に追いやられる危機に直面しました。しかしその後神様は、イエスの名によって律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始められ、人類を贖う働きをされました。以降、ユダヤ教は完全に神の栄光の存在を失いました。主イエス様の名と業を受け入れなかった者はみな、たとえどのような状況にあったとしても、どのような祈りを捧げ、ヤーウェである神様に訴えたとしても、神様はその祈りを聞かれることはなく、そのような者たちが聖霊の働きを得ることはありません。けれども、イエス様の新しい働きを受け入れてイエス様の名によって祈る者はみな、神様の泉からの生ける水による養いを楽しみます。彼らが主に呼ぶならば、神様の業を見ることができ、聖霊の業が彼らに伴うでしょう。

 今日、主イエス様の御名によって私たちがどう祈ろうとも、私たちが聖霊の働きを感じることはなく、神様の存在を感じることはできません。いのちを養っていただくことはできず、罪を犯しても鍛錬を受けることもありません。聖霊の働きがまたしても離れてしまった可能性が大いにあります。聖書は次のように言っています。 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48) 「さばきが神の家から始められる時がきた。」ペテロの第一の手紙 4:17)これらの聖句から、終わりの日に神様が再び戻られ、裁きの業の段階を実施されることが分かります。主は忠実なお方です。主が成就すると言われることは成就します。私たちは神様に求めて祈り、いのちの泉へと導いて下さるように願い、神様によって潤され養われ、そして主の足跡を辿るようにしなければなりません。私たちが心に飢え渇きを覚えて求めるならば、神様の導きを得ると私は信じます。神様は次のように約束されたからです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイによる福音書 7:7)

 主の導きに感謝します。本日皆さんと分かち合った、祈り方に関する内容が一人ひとりにとって益となることを願います。祈りは神様との正常な関係を築く上で重要なステップです。それはまた、聖霊の働きを得る上で要となる道でもあります。主からの応答を受け取るにはどう祈れば良いかを理解し、従うべき実践の道を得て頻繁に実践するときに初めて、主は私たちの祈りを聞いて下さいます。私たちの祈りが早く神様の意図と一致することを願います。

 すべての栄光が神様にありますように。


正直な人になることは簡単ではない

2019-12-19 15:31:55 | 賛美の心

湖北省 自新

 全能神による終わりの日の働きを受け入れた私は、神様の御言葉を読んだり説教に耳を傾けたりすることを通じ、信仰において正直な人になることを追い求める重要性と、人は正直な人になって初めて神様に救っていただけることを理解するようになりました。かくして自分も実生活で正直な人になろうと実践を始めました。しばらくすると、いくらかの入りを成し遂げるようになっていました。たとえば、祈っている時や人と会話している時に心から真実を語る、本分を尽くすことを真剣に捉える、自分が堕落を露呈した時、他の人にそれを打ち明ける、といったことができるようになったのです。そのため、正直な人でいることはかなり簡単に実践でき、「言行において正直であるよりは、地獄に落とされたほうがましだと思う人は多いだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)という神様の御言葉が示すほど困難なことではないと思いました。しかしその後、私はいくつかの経験を通じて、我々堕落した人間が正直な人になるのは簡単なことではないと認識するようになりました。まことに神様の御言葉は絶対に正しく、少しも誇張されてはいないのです。

 ある日、とある文書を編集していたところ、教会のある姉妹が文書の編集において私より優れていることがわかりました。そこで私は思いました。「彼女のほうが優秀だとリーダーたちが気づいて、彼女を昇格させたら、私の立場が危うくなる。そうならないよう、彼女が編集した記事を厳しくチェックしなくては」このような思いが浮かんだあと、私は良心の呵責を感じました。それをよく調べて分析してみると、名利を巡って争い、真の才能に嫉妬していることの表われだとわかったので、すぐさま神様に祈って自分を捨てました。元々は集会で自分の堕落を打ち明けるつもりだったのですが、次のような思いが浮かびました。「もし自分の悪意について交わったら、パートナーの姉妹やホストファミリーの姉妹からどんな目で見られるかしら。私の心はあまりに悪に満ちていて、本性はあまりに邪悪だと言わないかしら。やっぱり止めよう。何も言わない方がいいわ。あれはただ頭に浮かんだだけのことで、実際に何かしたわけじゃないんだもの」そうして私は、他の人が記事を上手に編集しているのを見て、自分が更迭されてしまわないかかなり不安だったと、さりげなく話すだけで済ませました。自分の本当の暗い一面を隠したのです。その後、心の中で罪悪感が大きくなりました。そのため、このようなことは今回限りのことで、次からは必ず正直な人になることを実践しますと、神様の御前で誓いました。

 数日後、パートナーとホストファミリーの姉妹を交えて話している時、以前彼女の家に滞在していた二人の姉妹(私も知っている人です)は本当に素晴らしい人だったと、ホストファミリーの姉妹が言いました。しかし私の良さについては一言も口にしませんでした。私はとても不満を感じました。そして彼女に自分のことをもっと高く評価してもらおうと、その二人の姉妹の欠点を一つ一つ並べ立て、私ほど素晴らしい人ではないことを示そうとしました。こんな発言をしてしまった後、私は自分の言ったことが不適切であり、私の意図と目的は、他の人を下に置いて自分持ち上げようとするものだと気づきました。けれどもそれを打ち明けるのは恥ずかしいと感じた私は、ホストファミリーの姉妹にこう言いました。「あなたがあの二人の姉妹を褒めるのを聞いて、心の中にいくつもの偶像があるように感じたの。だから、あなたがこれ以上その人たちを尊敬しないように、印象を傷つける必要があったのよ」その言葉が口から出るや否や、私とパートナーを組んでいた姉妹が言いました。「それは、あなたに隠れた動機があるかどうかによるわね。あるのなら本当に悪意に満ちているし、もしないのなら、堕落が現われたとしか言いようがないわね」これを聞いた私は、自分が悪い印象を与えるのではないかとひどく怖くなり、すかさずこう説明しようとしました。「私に隠れた動機などないわ。きちんと説明できなかっただけ……」このもっともらしい言い訳をした後、私は大きく動揺し、祈りながらひときわ強い自責の念を感じました。「あなたはあまりに悪賢い。回りくどい言い方をし、嘘をつき、事実を隠し、自分の悪意と傲慢な野心をいつも包み隠している。これは神様を欺くことではないか」それでもなお、私は依然頑なで、悔い改めることなく、神様に赦しを乞うだけでした。

 翌日、私は突然高熱を発し、体中の関節が痛み出しました。はじめは夜中に風邪をひいたと思い、薬を飲めば良くなると考えました。ところが、薬を飲んでも効果はなく、二日後にはベッドから出ることさえできなくなりました。そのうえ舌が腫れ上がって硬直し、喉も腫れてしまい、あまりの痛みに話すことすらできません。唾を飲み込むだけでも大変で、何かを食べるどころではありません。この急な病にかかった私は怖くなり、心の中で何度も神様に祈りました。その時、神様の御前に出てその間の言動をすべて振り返りました。そうしていると、自分がはぐらかすような話し方をして自分の卑劣な動機を隠したことが何度かあったことに気づきました。嘘ばかり話して姉妹たちを騙していたことは完全によく自覚していて、自責の念を感じたものの、それでも真実を語る勇気がなかったのです。自分の姑息なやり方がすでに第二の天性になっているとはほとんど気づいておらず、どうすることもできませんでした。私は自分の評判と地位、見栄と評判のために、厚かましくも神様と姉妹たちを何度も欺こうとしたのです。私は自分の堕落を進んで打ち明けようとせず、真理を求めて問題を解決しようともしませんでした。このようにし続けていたら、最後は喪失感に苦しむ人になっていたのではないでしょうか。神様は人の心の奥底を吟味なさるので、私がどれだけ自分を隠そうとしても、卑劣な醜さは隠しきれません。いったん自己認識をいくらか得たあと、私は神様の御前にひざまずいて祈りました。「ああ神様。いまようやく、自分がどれだけ堕落しているかがわかりました。私は自分の不正直な本性に操られ、正直な言葉をただ一言発するのも簡単ではありません。ああ神様。どうか私をお導きになり、自分の過ちをさらけ出して打ち明けられるように、あなたの御前で正直な人になれるようにしてください」神様のお導きのもと、私はついに勇気を振り絞り、真実を最初から最後まで余すところなく姉妹たちに話しました。そのとき初めて、心がわずかに安らぎ、落ち着きを感じました。

 この経験を通じて初めて、「言行において正直であるよりは、地獄に落とされたほうがましだと思う人は多いだろう。」という神様の御言葉がまさに真実だということを深く理解しました。サタンに堕落させられてからというもの、嘘をつき、騙し、策略を実行に移すことが人の本性となり、人間の心に深く根を下ろしました。そのうえ、人は評判や地位、ありとあらゆる益を心から大切にします。これらに縛られている人は正直に話すのがとても困難です。だから人々にとって、正直な人になることは空中を登るよりも大変なことなのです。私も以前は正直な人になるなど簡単なことだと思っていました。私が打ち明けたのは、自分が露呈した取るに足らない堕落であり、そのようなことは誰もが交わりでよく語っているからです。それは自分の魂の最も奥深くにあるものとは関係ないので、そのようなことを語ったからといって、誰も私を見下しなどしません。そのような実践は、それが表面的な行為であり、自分の個人的利益に影響しないことが前提になっています。もしそれが自分の重大な利益や地位、面目に影響を及ぼすなら、自分の本性が顔を出し、それ以上仮面を被り続けることはできません。私は真理に直面し、正直な人になるのは本当に容易なことではないと深く理解し始めました。特に、評判や地位をとても重要なものと考える私のような人は、面目を考えることを完全にやめず、神様の刑罰と裁きが伴わなければ、実践の中で正直な人になる真理の現実に絶対入ることができません。これからは誠実に真理を追い求め、神様の御言葉をすべて受け入れていきます。自分の体面と地位を脇にのけて真に正直な人になります。そして真の人間らしさを生きて神様の愛に報いていきます。


人間関係に疲れた時、クリスチャンが持つべき4つの原則

2019-12-18 15:13:15 | 賛美の心

 対人関係の問題は多くの人々にとって頭痛の種となります。そして対人関係は、クリスチャンが人生を通じてしばしば直面する問題でもあります。主イエスは、私たちが互いに調和し、自分と同じように他の人を愛することを求めておられます。そして多くのクリスチャンが、その主の教えを実践しようとします。けれども現実的には、私たちの人間関係には多くのぶつかり合いや誤解が生まれ、互いの関係がぎこちなくなり、崩れてしまいます。これは誰にとっても辛いことです。では、互いに調和できない原因は何でしょうか。主の意図に沿った人間関係を、私たちクリスチャンはどう築けば良いでしょうか。これは私自身もこれまで困難を覚えてきた問題です。私を神様が導いて下さったことに感謝します。その後、私はある本の中に解決を見出すことができました。その経験と私が理解したことをここでご紹介します。

1.誰に対しても公平・公正でなくてはならない。感情や好みで対応してはならない。
 イエスは言われました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48)この主の言葉から、クリスチャンは人生において、神様の言葉に沿った接し方をするよう求めておられます。自らの感情により、好んでそうしなければなりません。 私たちがどう周囲の人たちと接するかを考えてみると、自分たちに利益になったり助けになったりする場合は、相手に対して嬉しかったり感謝したりします。ところが、相手に傷つけられた場合、不愉快になってその後無視したりします。自分が好む相手であれば、その人に近づき、誘い込んだりします。好まない相手であれば、無視して近づきません。相手が高い地位にある人であれば、こびへつらい、ご機嫌を取ろうとします。地位も権力もない相手であれば、拒んで軽んじます。自分が好感を抱いている相手が自分の欠点を指摘した場合は受け入れることができます。けれども、そうでない相手が同様のことをしたならば、受け入れることができず、自分を義とし、言われたことに憤慨さえして相手に敵対し、攻撃したりします。これらはどれも、自分の感情や好みで接しており、公平に接していないことの例です。これはまた、未信者の接し方でもあります。クリスチャンがこのように接したならば、未信者と同じ道を歩んでいるのであり、主を信じる者と言われる価値はなく、そのような者は神様の意図に沿った行動ではありません。主を信じる者として、私たちは主の教えを実践しなくてはなりません。自分を愛するように、他の人たちも愛さなくてはなりません。優れた人間性を持ち合わせていれば、神様を純粋に信じ、真理を愛し、自分の好みに合うかどうか、気性、性格に合うかどうか、普通の兄弟姉妹か教会のリーダーであるかどうかに関係なく、心から、分け隔てなく接するべきです。相手に寛容と愛を示すべきです。欺いたり差別したりしてはなりません。このようなことを守って初めて、神様の意図と一致するのです。

2.相手の欠点を正しく指摘し、腐敗した部分を明らかにする。気まぐれに決めつけたり裁いたりしてはならない。
 イエスは次のように言われました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書 7:1-2)このイエスの教えにより、私たちはみなサタンに堕落させられた者だと理解することが出来ました。私たちの堕落した性質はみな同じなのです。周りの人々が傲慢さやうぬぼれ、利己主義や卑しむべきサタンの性質を現わしたならば、私たちも同様の性質を現わしかねないということです。私たちも周りの人たちと同じような欠点を持っているのです。周りの人たちより優れている訳ではないのです。もし欠点や腐敗によって相手を裁いたり決めつけたりするならば、私たちは真に傲慢で自分を知らなすぎるということなのです。ですから、周りの人たちがどのように堕落しているか、どのような罪を現わすかにかかわらず、私たちは正しい接し方をし、勝手に裁いたりその人をどのような人か決めつけたりしてはいけないのです。イエスが罪人に対してどのように接したか、聖書に書かれていることを思い出してみてください。「パリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。…イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(ヨハネによる福音書 8:3-11参照)この句から、サタンによって堕落させられ、罪に生きる人々の痛みと無力さを、イエスが理解していたことが分かります。イエスは人間の弱さに哀れみを感じられたのです。私たちの堕落が露わになったり、罪を犯したりした時に心から悔い改めるなら、神様は悔い改めて私たちが変わる時間を下さいます。我達もイエスに倣い、他の人の欠点や堕落した部分を正しく示さなければなりません。進歩という観点から、他の人たちを見なければなりません。これは、クリスチャンがその人生の中で、他の人たちに接する際の原則でもあります。もし私たちが他の人に厳しい姿勢を取り、あれこれと細かいことにこだわり、勝手に裁いたりするのであれば、そして、相手がどのような人間かを決めつけて、欠点を見てどうしようもない人間だと結論付けるのであれば、それは傲慢とうぬぼれによる腐敗した性質によって接していることになります。あなたがそのような事をするのであれば、神様の意図に沿ってはおらず、周りの人たちと正常な関係を持つことはまず出来ません。

 私の経験をいくつか紹介したいと思います。私たちの教会には、ご主人が未信者であるために集会に間に合うように来ることができない姉妹がいました。私はこの姉妹と何度も話しをしましたが、彼女は否定的な生き方をして信仰は弱いままでした。私はそのことに酷い怒りを感じ、彼女のことを、心から神様を信じることが出来ない人と決めつけました。もう彼女のことを助けることもサポートすることもしなくないと思いました。その後、聖書の中の次の言葉を読みました。「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙 14:3-4)私はとても恥ずかしくなりました。私は自分が打ちのめされ、否定的で霊的に弱っていた時のことを考えました。神様は兄弟姉妹の気持ちに触れて、彼らが何度も私のところへ来て神様の言葉を読むようにされました。彼らは私と交わり、自分たちの経験を分かち合い、そうすることで私を助け、支えようとしました。神様の言葉による導きがなければ、私は揺るぎなく立っていることはできなかったのです。私自身に自慢できるものなどなかったのです。そしてこの姉妹はその時、ご主人の妨害により、集会に来ることが出来ませんでした。その姉妹を、愛の心をもって私は助けなければならなかったにも関わらず、彼女の生活に配慮してあげることができませんでした。私は彼女を避け、純粋に神様を愛してはいないと決めつけたのです。自分自身を考えた時、私は自分が非常に傲慢だと感じました。この姉妹のことに、愛と寛容を持って対応していませんでした。私のしたことで神様の意図に沿ったものは何一つありませんでした。それに気づいた私は、神様の前に罪を悔い改めて言いました。「私は喜んでこの姉妹を助け、支えようと思います。その後私は、愛の心で神様の言葉をこの姉妹に伝え、自分の経験と理解したことを伝えました。何度か彼女と交わりを持つうちに、彼女はご主人からの束縛から解放され、徐々にその状態は改善されていきました。この経験から、兄弟姉妹がどのような欠点や弱さを持っていても、そしてどのような堕落を示しても、心から神様を信じ、過ちを犯した時に悔い改めるなら、神様は変わる機会を与えて下さることを学びました。ですから、私たちも愛をもって他の人々を助け、赦し、神様の要求に沿って一人ひとりに接しなければならないのです。決して気まぐれに人を決めつけたり裁いたりしてはいけないのです。これが、公平に、そして神様の意図に沿って人に接するということです。

3.他の人たちを過大評価しても、過小評価してもいけない。他の人たちの長所から学び、それによって自分の弱さを改善しなさい。
 聖書は次のように言っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3)神様は一人ひとりに違う力量、能力と長所を与えられました。それ故、他の兄弟姉妹に謙虚な心で接し、相手の長所も短所も、正しく見なければなりません。他の人を過大評価しても、過小評価してもいけません。他の人の長所を吸収し、自分の短所を補うべきです。もしも、自分の力や力量、能力が理由で他の人たちを見下し、どこまでも自分を過大評価し、その結果自己顕示したり、自慢したり、他人を裁いたり、軽んじて傷つけたりするならば、それは私たちの傲慢とうぬぼれで堕落した本性に支配されているということです。クリスチャンがそのように生きるべきではありません。例えば以前私は、一緒に働いている姉妹よりも自分の方が優れているといつも思っていました。そのために彼女を見下していました。私たちが一緒に働く時は、意識的であれ無意識であれ、私は自己顕示し、私の心はプライドに満ちていました。私の堕落した性質故に、神様が私を嫌うようになり、私から顔を隠すようになってしまったのです。私の魂は暗くなり、落ち込みました。私は働きの中で、自分では見つけることのできない明らかに問題といえることが多く発生するようになる一方で、その姉妹の働きは徐々に向上していきました。私はイエス様の次の言葉を思いました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)この時私は、自分がそれほど傲慢であるかを知りました。私は自分が分かっていませんでした。私の働きがある程度の結果を生み出していたことも、私が問題を見つけることが出来たことも、聖霊の働きだったというのが事実です。それでも私は、神様の栄誉を自分のものとし、非常に自己満足し、自分に感心していました。兄弟姉妹を見下していました。私にはまったく分別がなかったというのが実際のところです。同時に、私は心の中の執着を捨てる必要があることを分かっていました。姉妹の長所から得るものを吸収し、自分の短所を補うようにすべきでした。それができて初めて、神様は喜ばれ、私のいのちも成長を続けるのです。私はそれを実践し始めました。理解できない問題がある時は、その姉妹に助言を求めました。私が問題に直面したならば、彼女と話し合いました。そうする中で、私は彼女が、私にはない多くの長所があることに気づきました。私はとても恥じ入りました。そしてまた、私の短所を補うように、神様がこの姉妹と共に働くようにされたのだと分かりました。私たちに神様が託された働きを、協力して行うことを神様は望まれているのです。徐々に、私と姉妹の関係は改善され、私は再び聖霊の働きを受けることができました。

4.自分の考えに合致しない考えを他の人たちが持っていると気づいた時には、その人のことを見てばかりいてはならない。むしろ自分を意識して真理を実践しなければならない。
 イエスは言われました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書 7:3-5)私たちが他の人達と接する時、摩擦や偏見は避けられません。そのような時、相手が間違えているとむやみに考えて、いつも相手が間違えていると決めつけてはいけません。むしろ神様の前に出て、神様の言葉の中に真理を求め、自分の問題はどこにあるのかを見つけることができるようにすべきです。神様の意図が理解でき、自らの堕落した性質を理解できたならば、相手の立場に立って物事を見ることができるようになります。私たちは他の人たちを理解できるようになり、共感できるようになり、忍耐深くなります。そうするとき、自然に相手に対する偏見が激減するのです。

 この点に関して、私は意味深い経験をしました。一緒に働いたある姉妹が、教会の働きに対して、私が重荷を負っていないと何度も指摘したことを覚えています。けれども、私はそれを神様からのものと受け取ることができなかったばかりか、この姉妹が故意に私のあら探しをして私を生きづらくさせていると疑いました。私の中に彼女に対する偏見が膨らんでいき、もうこの姉妹と働きをしたくないと思うようになりました。私は神様の言葉を読み、神様の意図を探りました。そして、私は自分の傲慢でうぬぼれたサタンの性質に支配されており、この姉妹の助言を受け入れることができなくなっていたことを知りました。そして彼女に対して疑い深くさえなっていました。それが原因で、彼女との正常な関係が持てなくなっていたのです。同時に、日々私が出会う人々や出来事、物事はすべて神様によって指示され、定められていることを知りました。神様が、これらのことを事細かに用意され、それによって私を変え、救おうとされたのであって、その姉妹が意図的に私にたいして面倒を起こそうとしていたのではなかったのです。私は神様に従い、自分の心の中の執着を捨て、彼女の正しい助言を受け入れることを学ぶ必要がありました。その後、私は神様の前に出て、自分を省みました。姉妹の助言を通して、確かに自分が教会の働きの重荷を担っていないことに気づきました。私はリーダーが用意した働きをし、自分が更に良い働きをしようと考えたことはありませんでした。神様の意図が理解できてからは、神様の要求に従って物事を進めました。私は前向きに、そして束縛されずに自分の堕落をこの姉妹の前で明らかにし、神様に対してもっと多くの責任を与えて下さるよう願いさえしました。何かあれば、どうしたらもっと教会の益となることができるかを考えるようになりました。このように実践することで、この姉妹との間のかつての誤解は解けていきました。私たちは霊的に繋がり、かつての調和を取り戻すことができました。

 実践に関する4つの原則は、私が自分の経験から学んだことです。私は、神様の言葉がクリスチャン生活の導きの光であることを真に経験しました。神様の言葉は私たちにとって羅針盤です。神様の言葉による導きがなければ、私たちは進む道はありません。私たちがすべきことは神様の教えを実践し、全ての人に対して公平であることです。そうして初めて、私たちは真の人間らしさを生きることができ、他の人達と強調することができ、他の人に益をもたらすことができ、神様に満足していただき、褒めていただくことができるのです。神様の導きに感謝します。全ての栄光は神様にあります!


だれがわたしの仕事に対する態度を変えるのに決定的な役割を果たしたのか

2019-12-17 14:57:06 | 賛美の心

 おととい、わたしは一篇の文章を読みました。その文章の小見出しの一つは「わたしのボスは神である」です。この言葉は深くわたしの心を打ちました。その文章の中の主人公は記者です。主を信じる前に、彼の仕事に対する態度はよくなかったのです。出勤簿には、彼が取材に行ったと書いてありますが、実際には彼は自分の副業を行ったり、或いは家に帰って寝たりしました。主を信じて洗礼を受けた後、彼は「うそを言ってはならない」という神の言葉を見て、クリスチャンが誠実であるべきだと認識しました。そこで、彼は神に祈って、誠実な人になろうという志を立てました。神に祈っていた時、彼は自分が仕事の中でうそを言ったと認識しました。そして、勇気を出してチーフと以前の会社の社長に謝りました。それ以後、彼はずっと神の言葉にしたがって、誠実な人になるための実行をしています。神の言葉によって、彼の仕事に対する態度は完全に変わりました。そのため、彼は光栄にも初めての皆勤賞をもらいました。それ以来、彼は家で原稿を書くのに、上司の監督と催促を必要としなくなっていました。家では、タイムカードを押す制度がないけれど、彼はいつも朝早く起きて仕事をしました。彼は、彼が仕事をする上で神に対して責任を負い、神が彼のボスだと言いました。今でも、彼はこのような態度で自分の仕事を扱うのです。

 

 神の言葉は実に貴重なものです。神のこの一言は人の仕事に対する態度、人の人生観と価値観を変えることができ、人がもはやサタンから出たうそを言わず、公明正大にふるまい、義理堅くふるまうようにすることもできます。今、わたしはわたしも神に向かって仕事をし、神を自分のボスだと見なさなければならないと、ひそかに志を立てました。なぜなら、わたしもクリスチャンですから。

 ある日の午後、同僚Vikiさんはメールで彼女の作った文案をわたしに送って、その文案をチェックしてくれと頼みました。わたしはよくないところをすべて直した後、タイトルが適切ではないのを見ました。わたしはいいタイトルを考え出そうと、しばらく思案したが、インスピレーションがわきませんでした。そこで、わたしはVikiさんに、タイトルを替えるようにと勧めました。そして、自分の手元の仕事をやり始めました。しばらくしてから、Vikiさんは新しいタイトルをメールでわたしに送りました。わたしはそのタイトルも適切ではないのを見て、また考えてみなさいと返事をし、しかも彼女に、わたしたちが以前作った文案から考え方の方向を探すようにと勧めました。しばらくすると、彼女はメールでわたしに二つのタイトルを送りました。わたしはその二つのタイトルがやはりよくないと思って、また考えてみなさいと返事をしました。そのため、彼女は困ってしまい、わたしに彼女と一緒に考えるようにと頼みました。当時、わたしは口から出任せに承諾しました。でも、わたしはただ儀礼的に彼女に返事しただけであり、彼女がいいタイトルを探すのを助けるつもりがなかったのです。

 夜、Vikiさんは寝る時間になっても、いいタイトルを考え出せませんでした。そのため、その文案ができ上がらず、仕事の進度が影響されました。このような時、わたしは良心のとがめを受け、不安を感じました。わたしはVikiさんに、彼女を助けていいタイトルを探すと約束したが、そうしなったからです。そこで、わたしは神の前に出て、こう祈りました。「神よ、Vikiさんはわたしにいいタイトルを探してほしいと頼みました。わたしは承諾したが、そうしませんでした。神よ、わたしは不誠実で、うそをつきました。今、わたしは誠実な人になりたく、また、悔い改めて、Vikiさんを助けていいタイトルを探したいと思います」。祈った後、わたしは「うそを言ってはならない」という神の言葉を思い出し、また「わたしのボスは神だ」という言葉を思い出しました。そして、わたしは自分の言動を反省し始めました。Vikiさんが助けてくれと頼んだ時、わたしはしぶしぶ承諾し、「これはあなたの文案だから、わたしがいいタイトルを考え出したら、あなただけが業績を収める。やはりわたし自身の仕事をした方がいい」と考えました。当時、わたしの内に利己的で狡猾な性質があるから、うそをつき、わたしが利益に支配されているため、彼女を助けたくなかったのです。あの時、わたしはVikiさんがわたしの仲間だと考えませんでした。Vikiさんがわたしに彼女の文案をチェックしてくれと頼んだ以上、わたしはその文案に責任を持ち、それを神からの任務、委託として扱うべきでした。わたしは神の監視を受けながら、神に向かってその文案をチェックするべきであり、わたしの文案と彼女の文案をはっきり区分する必要がなかったのです。そこまで考えて、わたしはVikiさんを助けて、いいタイトルを探したくなりました。

 翌朝、目が覚めた後、わたしはまず「わたしのボスは神だ」という言葉を思い出しました。この言葉によって、わたしの心は喜びに満たされるようになりました。オフィスに入った後、わたしはまず神に祈りました。そして、Vikiさんのためにいいタイトルを探し始めました。わたしは資料を参考にしたり、身の回りの同僚に尋ねたりすることによって、いくつかのタイトルを考え出しました。そして、その中から最もいいタイトルを選んで、メールでVikiさんに送りました。Vikiさんはそのタイトルを一目で気に入りました。その後、わたしはそのタイトルに基づいて文案の結尾を少し直しました。こうして、この文案はとうとう出来上がりました。この労働の成果を見る時、わたしは内心浮き浮きしていました。栄光を神に帰します。

 その日、わたしはずっと「わたしのボスは神だ」という信念をもって仕事を扱っていました。その結果、わたしは各部門の同僚といいパートナーになりました。その日、わたしたちは仕事について話し合ったり、試案、考え方の方向を検討したりしました。わたしたちが交流することによって、仕事上の多くの困難、残されてきた多くの問題は解決されました。こうして、仕事の効率と質が向上しただけではなく、わたしと同僚の関係も親しくなりました。神の言葉のゆえに、わたしは仕事に対して正しい態度を持つようになり、また生きる価値と意義を見つけました。神に感謝します!

 主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハ14:6)と言われました。神の言葉は、わたしたちの生存の基本であり、わたしたちがことを行う上での指針です。わたしたちが神の言葉にしたがってことを行い、神に向かってすべてのことをし、すべての仕事に責任を持つなら、神はわたしたちと共にあり、わたしたちに実行の道を指し示し、わたしたちを楽しく生きさせ、わたしたちを義理堅い人にしてくさだいます!


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花農家の驚くべき経験

2019-12-16 14:46:41 | 賛美の心

 主人と私は温室植物を生産しています。かつてはきゅうりを栽培していましたが、それはとても面倒なものでした。私達はきゅうりを発芽させ、苗を栽培し、水をやり、畑に肥料をやり、害虫を防止・駆除するなどの作業をしなければなりません。そのため、2015年、きゅうりの代わりに、より栽培が簡単で、手間がかからず、主のために働く時間を持つことができる菊を栽培することにしました。

 そうして、2万本の菊の苗を注文しました。予想に反して、苗は配達された時点で、その多くの頭部が既に腐っていました。私はとても立腹し、販売業者に電話し、これらの苗を検査するように頼みました。その後、彼は私達に補償として、100本の苗を送ってきました。私達の温室にはまだたくさんのスペースがあったので、さらに2千本の苗を購入し、すべてを植えました。1週間後、頭部の腐っていた苗はすべて死にました。この状況に直面し、私の心は痛みました。今年は豊作とならないばかりか、損失も出すことになりそうだと考えました。損失を最小限に抑えるため、すべての苗を根から引っこ抜き、別の植物を育てたいと思いました。しかし、主人はこれに反対し、「1万本の苗しか残っていないが、1本1本が4倍、5倍の花を咲かせれば、私達は使ったお金を取り戻すことができる。別の植物を育てるには遅すぎる。しかも、もしそんなことをすれば、私達は集会に出ることができず、主への御奉仕に遅れが出てしまう。そして、私達の霊的いのちの成長に影響が出るだろう。そんな価値はない」と言いました。主人の言葉を聞き、「その通りだ。神様への信仰を遅らせることはできない。これらを根元から引っこ抜くのを諦めよう。何本の苗が生きるかをお決めになるのは神様だ。私達が利益を出すことができるか、どれほどの利益になるかは、神様が事前にお定めになっている。」と思いました。そう考えると、すべてを神様に委ねる自信が湧き、神様の御主権と御采配に従うことにしました。

 そして、苗の頭を摘み取り、苗がまた成長できるようにしました。1週間後、苗から枝が出始めました。一般的に、各苗は5~6本の枝に分かれることになっていますが、ほとんどの苗は2~3本にしか枝分かれしませんでした。これを見て、主人は落胆し、「終わった。今の感じでは、豊作はないだろう。これを育て続けても、使ったお金を取り戻せるか分からない。根元から引っこ抜き、諦めよう」と言いました。私は、「1週間前にそうしていたら、恐らく別の植物を植えることができただろう。しかし、今はもう寒すぎて、別の植物を育てるには遅すぎる」と思い、「こんな風だから、成功するか否かはどうでもいい。私達の花からどれほどの枝が出るかも気にしない」と言うと、主人は力なく、「ああ、仕方ない」と答えました。その後、教会で忙しく奉仕をし、花の世話をほとんどしませんでした。それから、私達に代わって温室の世話をしてくれるよう、1人のおばあさんを雇いました。

 数日が過ぎ、私達の花が高さ約10cmにまで成長すると、そこで成長を止め、どの枝も蕾を付け始めました。他の農家は私達を笑って、「花の栽培はどうかい?お前さんとこの花は背が低くて痩せっぽちだな。あんまりうまく行ってないね。お隣さんの花を見てご覧よ。苗はまだ花を付けてないが、しっかりして背も高い。お前さんとこの花は蕾を付けているが、背がとても低い。どうしたら菊のように見えるかな?出荷の時期には一体誰に売るつもりだい?」と言いました。この言葉を聞いて、とても動揺し、「私達の花は確かに近所の花とは比ぶべくもない」と思いましたが、その後、次のように思い返しました。「『人間は種を蒔くことができるが、収穫は神の思し召しだ』という言葉がある。花がどのような見た目になり、よく成長するか否かは、神様の御手の中にあり、私達が決められるものではない。あなたは言いたいことを言えばよい。私はこれをすべて神様に委ね、神様に決めていただこうと思う。私は神様の御規則と御采配に従うのみだ」と思いました。

 菊農家は、「花を大きく成長させ、高値で売りたければ、蕾が出てきた段階で、各枝の中央にある1つの蕾をのぞいて、すべての蕾を摘み取ってしまうといいよ」と言いました。そこで、主人がおばあさんにそれをお願いしました。しかし、おばあさんは摘み取るのが必要な蕾があまりにも多いのを見ると、すべてを摘み取ることはせず、多くを残してしまいました。その上、彼女は摘み取った植物の頭部を何の気なしに土に植えてしまいました。私が温室を見に行くと、彼女が植えた花を含め、すべての蕾が咲きかけていました。4週間目にはすべての花が満開となりました。予想外なことに、私達が花を収穫すると、花農家が集中する南部地方に巨大洪水が突然発生し、花はすべて洪水に飲み込まれてしまいました。さらに、それはちょうど冬で、花が不足している時期だったため、花の価格が高騰し、花需要が供給を上回っていました。私達の花は背が低く、小ぶりでした。通常であれば、誰も買う人はいなかったでしょう。しかし、この時期、私達が花を収穫した瞬間に、買いたいという人が現れ、おばあさんが植えた花でさえ高値で販売しました。

 その後、おばあさんは、「あなたのお隣さんをご覧なさい。いつも易をし、占いをし、2つの花栽培温室がたくさんのお金を運んでくれると見込んでいました。そのお金で家を建てることもできると想像さえしていました。しかし、彼が意図したようにはなりませんでした。彼の花は背が高く大輪でしたが、価格が高いときには開花しませんでした。花を収穫したときには価格は10分の1に下落しており、花を販売した後も、大金を使って、茎を引っ張らなければなりませんでした。一方、あなた達はほとんど仕事をせず、収穫も簡単でした。花は背が低く小ぶりでしたが、とてもよい値を付け、花の価格が最も高いときに売ることができました。あなた達はとても祝福されています。これは運命です。これは易や占いで達成することはできません」と言いました。これを聞いて、心の中で何度も神様に感謝を捧げました。この状況から、私はすべてが確かに神様の御手にあることが分かりました。今年素晴らしい収穫を迎えることができたのは、神様の愛でした。神様の御偉業はあまりに素晴らしいのです!

 神様、ありがとうございます。この経験から、神様の御権威と御統治に関する知識を深めました。動物であるか植物であるかにかかわらず、生死は神様の御規則と御采配の中にあり、神様が私達のためにお定めになるすべてが最善のものです。私は過ぎたことを思い返しました。すべての花を根元から引っこ抜きたいと考えたとき、神様は主人を使い私を阻止されました。どのように蕾が成長するか、いつ開花するか、どれだけの花ないし植物が生産されるかは、神様の御手にありました。おばあさんもそう考えていました。このおばあさんは菊の育て方など知りませんでしたが、摘み取った苗の頭部を土に植え、神様の御統治のもと、これらの植物が育ち、普通の植物と同じように開花しました。花を販売するときが来ると、花農家が集中する南部地方に洪水が起こり、私達の花は破格の高値で販売されました。私達は花の世話にたいした時間をかけず、神様にお仕えすることにのみフォーカスし、私達の温室の管理のためにおばあさんを雇っていました。それにもかかわらず、私達は使った費用の何倍ものお金を簡単に手にすることができました。近所の花農家は苦労して花の世話をしましたが、私達よりも安値で花を売りました。これは、「人間は種を蒔くことができるが、収穫は神の思し召し」であるためで、すべては神様の御統治にかかっているのです。この経験を通して、私は、これらすべては神様の驚異に満ちた御偉業であり、私達がどれほどのお金を稼げるかは神様により事前に定められており、私達が今日手にすることができるものは、すべて神様の祝福であることが分かりました。

 このことを経験して、これらの環境を神様がお定めになる目的は、私が稼げるようにして私を祝福されるためだけではなく、神様の全能性や御統治を私が経験し、目の当たりにし、これを知ることができるようにするためだったということに気が付きました。人の心や霊に至るすべてが神様の御手にあると痛感しました。私が主のために働くことのみを考え、温室にあまりフォーカスしないでいると、神様は私をひどくお扱いにならなかったばかりか、祝福を倍増し、神様の御心はとても善良であることを私に見せ、神様の愛がとても大きいことを私に経験させてくださいました。神様のお陰です!この経験により、すべてを神様に委ね、神様の御統治と御采配に従う自信が一層大きくなりました。すべての栄光は神のものです。アーメン!


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