いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

清めへの道

2020-06-23 20:54:11 | 賛美の心

 私はクリストファーという名前で、フィリピンにある家庭教会の牧師です。私は1987年に洗礼を授かり、主イエスの元に戻りました。そして主の御恵みにより、1996年に地元の教会で牧師となりました。当時、フィリピン国内の多くの場所で働き説教する以外にも、香港やマレーシア等で福音を説いていました。聖霊の働きと御導きにより、私には主のために行う働きにおいて無尽蔵なエネルギーと説教のための天啓があるように感じていました。私は兄弟姉妹たちが否定的で心弱くなっている時は頻繁に彼らを支えました。彼らの家族で主を信仰していない人たちが私に対し非友好的であっても、私は寛容かつ忍耐強くあることができ、主への信仰を失わず、主が彼らを変えてくださると信じていました。そのため、主を信仰し始めて以来、自分が大きな変化を遂げることができたと感じていました。しかし、2011年から、以前ほど強い聖霊の働きを感じなくなってしまったのです。私は自分の説教のための新たな啓示を徐々に失い、罪深い生活から抜け出す強さもなくなってしまいました。妻と娘が私の気に入らないことをするのを見ると、思わず彼女たちに腹を立て、怒りながら叱ってしまいました。私は、こういったことは主の御旨に沿っていないと分かっていましたが、自分を抑えられないことが頻繁にありました。私はこれについてとても頭を悩めました。罪を犯してはその告白をする生活から抜け出すため、私は聖書を読むことにさらなる努力を注ぎ、絶食し、祈りを捧げ、これについて共に追求し検討してくださる霊的な牧師をあちこちで探しました。しかし、私の努力は全て無駄に終わり、私の罪深い生活と魂の闇は全く変化しませんでした。

 2016年の春のある夜、妻が聞いてきました。

 「クリストファー、最近とても悩んでいるみたいだけど、何なの?」

 私は妻に自分の悩みを告げました。

 「ここ数年のことなんだけど、自分は牧師で長年に渡って主を信仰しているにもかかわらず、なぜ罪深い生活から抜け出せられないんだろうか、と悩んでいるんだ。もう主を感じることができなくて、まるで主に見放されてしまったようなんだ。あちこちで説教しているのに、自由な時間ができるとたん、特に真夜中になるといつも心の中が空っぽで不安な気分になって、この気持がどんどん強くなっていく。自分が今まで長年主を信仰してきたこと、聖書を沢山読んできたこと、主の説教をたくさん聴いてきたことを考えて、自分の十字架を背負って自己を克服すると何度も決意してきたけれど、いつも罪に縛られている。自分の利益と面目を保つために嘘をつくこともできてしまい、『彼らの口には偽りがなく』(ヨハネの黙示録14:5)という生き方を実現できていない。苦難や精錬に直面すると、これらは主の承諾があって起こっていると分かってはいても、どうしても主に文句を言って主を誤解せずにはいられず、喜んで自己を捨てることが全くできない。このように罪の中に生きていれば、主が来られても天国に入れないんじゃないかと思うんだ」

 これ聞いた妻はこう言いました。

 「クリストファー、どうしてそんな考え方ができるの? 信仰を持たなきゃだめよ。あなたは牧師なんだから! 私たちは罪のある生活を送って、罪の拘束から抜け出せていないけれども、聖書にはこう書いてあるわ。『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙10:9)、『なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである』(ローマ人への手紙10:13)。根気強く聖書を読んで、集会に参加し、主に祈り、自分の十字架を背負い、再臨までひたすら主に従ってさえいれば、天国に入って主の祝福を受けることができるのよ」

 私は妻に言いました。

 「僕も前はそう考えていたけれど、ペテロの第一の手紙1章16節には『聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。』僕は30年も主を信仰してきたけど、未だに主の道に従うことができないし、依然として罪の中に生きているし、頻繁に主に抵抗することもできてしまう。主のお求めになることを満たすなど到底できていない。ああ! 何度も主の教えに従うと決意してきたのに、主の御言葉を実践することができていない。こんなので、どうして天国に入るにふさわしくなれるというんだ? 主イエスは、『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書7:21)と仰った。主の御言葉によると、天国に入るのは僕たちが思っているほど単純ではないんだ。主は聖なるお方だ。では、主の御言葉を実践できず、主に頻繁に抵抗している者がどうして天国に引き上げていただけるというんだ? 変化を遂げ、神の御旨を行う人のみが天国に行けるんだよ!」

 妻は少し考えてからこう言いました。

 「あなたの言っていることは筋が通っているわ。主は聖なるお方で、私たちは依然として罪深いまま。私たちは神の御国に入るのにふさわしくない。だた……急に思いだしたんだけど、牧師のリュウ先生は教会に韓国人牧師のキム先生を招待していなかった? この問題について尋ねてみてはどうかしら?」

 私は言いました。

 「うん、それはいいな。主イエス様は『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう』(マタイによる福音書7:7)と仰った。僕たちが求め続けてさえいれば、主は僕たちを導いてくださるはずだ。牧師として、僕は兄弟姉妹のいのちを考慮しなきゃならない。僕が信仰においていいかげんなら、兄弟姉妹にとっても自分自身にとっても良くない。キム先生が到着するのを待って、この問題に関する意見を求めてみよう」

 私はキム牧師に相談するつもりだったので、彼の経歴を知りたくなりました。私はインターネットで彼の韓国人教会を検索してみました。検索結果の出たページに、https://jp.kingdomsalvation.orgというウェブサイトがありました。このウェブサイトを開いてみると、そこに書かれていた言葉に引き込まれました。

 「人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

 これはとてもよく表現されていて、私は読み続けずにはいられませんでした。

 「だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

 私はこれを読んでとても興奮しました。完全に理解することはできず、中には戸惑わせるようなことさえありましたが、それでも私は希望を持つことができました。私はこの中に自分を清め、自分を変える方法を見つけられる気がしました。私は祈りを聞いて下さったことを神に心から感謝しました。読み続けるにつれて、私はこれは本当に素晴らしい言葉で、自分の乾いた魂に水を注ぎながら導いてくれると感じました。そのウェブサイトに、「あなたの国または地域の福音ホットラインが見つからない場合はメッセージをお残しください。出来るだけ早くにご連絡を差し上げます」と書いてあるのを見て、さっと探しましたが、フィリピン福音ホットラインはなかったので直ぐにメッセージを残し、ためらうことなく自分の電話番号と電子メールアドレスを記入しました。

 その夜、帰宅した後、私がこのことを妻に話すと、それを聞いた妻も同様に求めたいと思いました。翌日、私のメッセージに返信があり、その日の午後にネットで会話できることになり、このことを心から主に感謝しました。その日の午後、私たちはリュウ姉妹とスー姉妹と話をしました。この会話から、私は二人の姉妹は分かり易く、巧みに、識見をもって話していたように感じました。妻は私よりも意欲的で、こう言いました。

 「質問をしてもよろしいでしょうか?」

 姉妹は熱心な口調で「もちろんです」と返事してくれました。妻はこう言いました。

 「あなたたちの教会のウェブサイトには『終わりの日に神は裁きと刑罰の働きの段階をなされた』と書かれていますが、私と夫は聖くなければ誰も主を見ることはできず、それは主が聖なるお方であられるからだと分かっているのですが、『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙10:9)、『なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである』(ローマ人への手紙10:13)。主イエスを信仰していれば、既に救われており、天国に行くことができるのならば、どうして終わりの日の神は裁きと刑罰の働きをなされているのでしょうか? 私はこれが理解できないので、お話しいただけると嬉しいのですが」

 リュウ姉妹が応えました。

 「神に感謝! それでは一緒に話し合って、神に私たちをお導きいただきましょう。まず最初に、ここで『救われる』とはどういう意味なのかに注目してみましょう。律法の時代の後期において、人々は誰もが神から遠ざかり、神を畏れる心を失ってしまいました。彼らは増々罪深くなり、失明したり、足が不自由だったり、病気に罹ったりした家畜や鳥を生贄として捧げるようにまでなってしまいました。あの時代の人々はもはや律法を守ってはおらず、誰もが律法を犯したために死刑に処せられる危険にありました。このような状況において、律法の下に生きる人々を確実な死から救うために、神は自ら受肉され、贖いの働きに着手され、最終的には人類全体の罪を贖うために十字架に釘付けにされたのです。人は主イエスを信仰することで罪を赦していただき、神の御前に行って神に祈りを捧げ、神の御恵みと祝福を授かるにふさわしい者となったのです。これが恵みの時代において『救われる』ということの本当の意味です。言い換えると、『救われる』とは単に人の罪が赦されるということでしかないのです。すなわち、神はもはや人々を罪に汚れているとは見なされませんが、これは人々がもともと罪深くないという意味ではありません。従って、救われるということは私たちが完全に清められて完全に救われたことを意味しているわけではありません。清められたければ、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れなければならないのです」

 姉妹たちの交流を聞いて初めて、妻と私は「ローマ人への手紙」に記されている「救われる」ということは、主イエスによる救いを受け入れ、もはや律法を違反したことによって死刑を宣告されずに済むということを指しているのだと理解しました。「救われる」というのは私たちが想像していたような完全に清められるということではなかったのです。姉妹たちの言っていたことは筋が通っていました。「救われる」ことについてのこの説明は、私たちが罪を犯してはその告白をするといった状態に生きていることに符合していました。つまり、主イエスがなされたことは贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではなかったのです。人がひとたび主を信仰すれば、救われはしますが、それは完全に清められたことを意味しているわけではないのです。姉妹たちの交流を聞いて、私はそこに探し求めるべき真理があると感じたので、話を聞き続ける意欲を示しました。私はこう言いました。

 「主に感謝! 素晴らしいお話しです。お二人とこのように話したおかげで、『救われる』ことの真義が理解できました。どうぞお話しを続けてください。主が私たちをお導きくださいますように」

 スー姉妹が続けてこう言いました。

 「分かりました。全能神の御言葉の節をいくつか読んでみましょう。そうしたら全てがさらに明らかになりますよ。全能神はこう仰りました。

 『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)

 『罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる』(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

 『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 私たちがもし恵みの時代における神の贖いの働きに固執し、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れないでいると、私たちの罪深さの根本的な問題は解決されないということが全能神の御言葉から分かります。終わりの日に全能神は来臨され、贖いの働きを土台の上に人を裁き、清める段階の働きをなさっています。全能神は人の堕落という真相を明らかにする真理を語り、人のサタンのような本性を裁いておられます。全能神は人々のサタンのような性質を変え、人々をサタンの支配から完全に解放するために来臨されました。そうして人が完全な救いを得られるようにです。全能神の終わりの日における裁きの働きが、人々を清め、救い、完全にする上で最も重要かつ根本的な働きであることは明らかです。従って、終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れて初めて、人はその堕落した本質と神の義なる性質についての真の認識を得て、サタンの影響から完全に抜け出し、神に救っていただき、神に従い、神を崇拝し、神の御旨と調和した人になることができるのです」

 この話を聴いた後、私は心が明るくなり、長年の混乱がついに解消したように感じました。神は恵みの時代において贖いの働きをされただけで、それは人々から堕落したサタンのような性質を取り除く働きではなかったのです。終わりの日に受肉された神を通して真理を明らかにする裁きの働きは、人類を完全に清め、救う働きなのです。となると、神はどのようにして人々を実際に清め、変化させ、完全に御救いになるのでしょうか。私はこの疑問の答えを知ることを熱望しましたので、こう質問せずにはいられませんでした。

 「今仰ったことは理解できますし、再臨された主による裁きの働きの段階を通してのみ清められるということも分かります。これは正に私が長い間待ちわびていたことです。今本当に知りたいのは全能神がどのようにして裁きの働きにより人々を清め、御救いになるのかということです。これについても分かち合いをお願いします」

 スー姉妹は続けました。

 「全能神がどのようにして裁きの働きをされ、人々を清められ、御救いになるかという質問は、変化と清めを成し遂げることを希望する人にとって特に重要です。全能神の御言葉は真理のこの側面についてお話しになられています。あなたにその御言葉を送ります。是非お読みください!」

 私は全能神の御言葉を興奮しながら読みました。

 「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

 私が御言葉を読み終えると、スー姉妹は続けてこう話してくれました。

 「全能神の御言葉は神がどのように人々を裁き、清められるかをとても明白にご説明されています。終わりの日の神は、人類を裁き、清め、救うために、人の堕落した性質と神に抵抗するサタンのような性質に関する真理をおもに語っておられます。全能神は真理の多くの側面についてお語りになりました。例えば、サタンがどのようにして人々を堕落させるか、神がどのようにして人々を御救いになられるか、人に従うとはどういうことか、神に従うとはどういうことか、神を信仰するにあたってどのような観点を抱くべきか、人の性質の変化とはどういうことか、神を畏れ悪を避けるとはどういうことか、神の性質を害するとはどういうことか、正直な人になる方法等です。これらの真理には全て権威と力があり、人々にいのちの糧を与えることができるのです。これは神が人類にお与えになった永遠のいのちへの道なのです。神の御言葉を受け入れ、実践する限り、人は清めと救いを受けることができるのです。全能神による裁きの働きを数年間体験し、私たちはこれらを身をもって体験しています。人を裁き、刑罰を与え、暴露する全能神の御言葉を読むと、御言葉は私たちの反抗心、堕落、抵抗、誤った意図、観念、想像、さらには心の奥に隠れているサタンの毒までを明らかにするもろ刃の剣であるように感じます。それは私たちが確かにサタンにあまりに深く堕落させられており、傲慢で、独善的で、不正直かつ狡猾で、利己的、意地悪で、自分の利益以外の全てに盲目であるといったサタン的な性質に溢れていて、神への畏れなどないことを気付かせてくださいます。私たちの行動、心、考えを満たしているものは汚れかつ堕落であり、何の人間らしさもないことが分かります。私たちは恥ずかしさのあまり見せる顔がないと感じますが、サタンの堕落した性質を指針にして生き続けたら、この先いつも神に嫌われる人となり、決して神から称賛を得られるようにはなれず、除外と懲罰を受ける運命になるのだと気づきます。全能神の御言葉による裁きと明示は、私たちに神の威厳ある、怒りに満ちた、義なる性質を認識させ、徐々に神を畏れる心を育て、真の悔い改めと変化を遂げさせてくださるのです。今、私たちは少し人間らしさをもって生きていると感じており、確かに神の偉大な御救いを受けたのだと理解しています。神の裁きを受けていなければ、私たちは人に侵されることを容認なさらない神の義なる性質も神の聖く善良な本質を知る機会がなかったことでしょう。自分自身の反抗心や堕落を嫌うこともなく、堕落を捨て去り清められることもできなかったでしょう。ですから、神の裁きと刑罰を経験すればするほど、神の裁きと刑罰は私たちにとって最高の御加護であり、最も偉大な祝福であり、最も真なる御救いであることがより明確に分かるのです!」

 リュー姉妹もこう話されました。

 「終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きは人々を完全に清め、救い、完全にするための働きです。終わり日のキリストの御座の前で裁きを受け入れなければ、いのちの性質の清めと変化を遂げることができません。その結果として確実に神から拒否かつ除外され、地獄に落ちて滅びることになります。救いを授かり天国に入る機会はありません。これは絶対です」

 私は嬉々として言いました。

 「神に感謝します! お話を聞いてから心がとても明るくなったような気がします。私は長年に渡って主を信仰してきましたが、罪深い生活を送り、それから抜け出す力がありませんでした。今私は、終わりの日の神の裁きと刑罰を受けなければ、罪の束縛と抑制から抜け出すことはできないのだと理解しました。私はやっと清めと救いへの道を発見したのです」

 数日間の交流後、私と妻は真理をある程度理解し、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。

 私に愛と救いをくださる全能神に感謝いたします! 牧師として、私には知り合いの他の全ての牧師と兄弟姉妹を神の前に導く責任と義務があります。兄弟姉妹としばらく協力した後、集会に頻繁に参加する教会の兄弟姉妹数十名全員が全能神を受け入れただけでなく、他の家庭教会の牧師を一人神の家族へと導き、その教会の兄弟姉妹の大多数も神のもとへ連れ戻しました。私はこの兄弟姉妹たちが終わりの日の神の御救いを受け入れて、神の御座の前で引き上げられたのを見て感動しました。この全てが全能神の働きの結実です。すべての栄光は全能神のもの!

クリストファー(フィリピン)


主の再臨をお迎えする大変な経験(II)

2020-06-22 20:36:08 | 賛美の心

 全能神はこうおっしゃっています。「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営(救い)を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名前にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から墮落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間 の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」

主の再臨, 主の再臨をお迎えする大変な経験(II)

 全能神の御言葉を読んだあと、兄弟は説教を続けました。「ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きが一つの全体として結びついたときはじめて、それは人類を救う神様の働き全体を構成します。実際、神様が新たな働きの段階を始められるたび、神様が表現なさる性質、神様が働きをなさる方法、御名、働きの場所は変わりますが、これら働きの三段階は密接に結びついています。主イエスはヤーウェ神の働きを土台として贖いの働きをなさいました。終わりの日、全能神は主イエスによる贖いの働きを土台として真理を表現なさり、神様の家から始まる裁きの働きをなさっているとともに、創世以来ずっと隠されてきたすべての奥義を私たちにあらわされています。例えば、人類全体が今日までどう発展してきたかや、三段階の働きの奥義や、人類の将来的な終着点などです。加えて、神様は真理を表現なさって私たちの罪深い本性を暴き、反抗と不正を裁き、罪を清める道を示されてきました。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れる人はより多くの真理を理解し、自分のサタン的な本性をより識別し、神様の犯すことができない義なる性質をより理解して、徐々に真理を実践に移し、サタン的な本性の束縛から解放され、神様を畏れ悪を避ける道を歩むようになります。堕落した性質が清められるとき、私たちは神様に従い神様を畏れる人になり、神様の祝福のもとで生きることができ、人類を救われる神様の働きも終わりを迎えます。それは黙示録の預言の通りです。『事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう』(ヨハネの黙示録21:6)」

 神様の御言葉と兄弟の説教を通じ、神様の働きの各段階が以前の段階の上に築かれること、直前の段階よりもさらに高いこと、神様の働きの三段階がすべて一緒になって人類を救われる神様の働き全体を構成することを理解しました。主イエスの贖いがなければ、人類は永遠に律法の下で暮らしていたでしょう。神様がおいでになって罪を取り除く働きをなさらなければ、私たちは罪を犯しては告白するという状態の中で生きるだけで、罪の束縛から決して自由になれないでしょう。神様による終わりの日の裁きの働きを受け入れて初めて、私たちは自分の堕落した本性を理解するとともに、自分の肉を捨てて真理を実践し、性質の変化を成し遂げます。そのときはじめて、天国へ入るのにふさわしくなるのです。すると兄弟は神様の働きの三段階が描かれたカラフルな画像を送信し、人類を救われる神様の三段階の働きをより明確に理解できるようにしてくれました。神様が働きを行なわれる方法、働きの場所、神様の御名は各時代で異なるものの、働きの三段階はすべて密接に結びついていて、各段階が欠かせないことを私は知りました。神様は人を一歩一歩サタンの支配下からお救いになりますが、神様の素晴らしさとお知恵に深く感動せずにはいられませんでした。神様以外にこの働きを行なえる者はいないのです。その瞬間、私は信じられないほどの解放感を覚え、もはやその兄弟を排除することなく、私たちの集会もよりくつろぎと活力に満ちたものになりました。

 神様の働きを知って子羊の足跡に従うようになる

 その後、兄弟が神様の御言葉の二節を送ってくれました。全能神はこうおっしゃっています。「三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでな ければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」

 兄弟はこう説教しました。「神様の御言葉から、神様の働きの三段階を知ることは神様を知る道だと理解できます。神様の働きの三段階を知って初めて、神様の全体的な性質、神様が人類を救われる数多くの方法、神様のお知恵を知ることができ、人類を救われる神様の意図を残らず理解して、それによって私たちが神様に抱くであろう観念や誤解を一掃できるのです。神様に関する認識が神様の働きの一段階にとどまったままで、神様はヤーウェと呼ばれ、律法を布告して人類の生活を導かれることしかできなかったとか、神様は主イエスと呼ばれ、人類に恵みをお授けになることしかできなかったとか考えるなら、私たちはごく簡単に自分の観念と想像を基に神様を規定してしまいます。現在、宗教界の牧師や長老の多くは主イエスの働きだけに固執し、十字架の上でなされた贖いの働き以外は神様の働きではなく、イエスの御名をもたない者はお戻りになった主ではないと考えています。彼らは全能神による終わりの日の働きを全力で拒んで断罪し、信者が真の道を考察するのを防ぐべく全能神に関する噂さえ広めています。彼らとファリサイ人の違いは何でしょう。最も偉大なビジョン、つまり神様の三段階の働きを知らず、謙虚に探し求める心をもっていなければ、私たちは簡単に当時のイスラエル人と同じようになり、宗教指導者に従って神様の到来を断罪してそれに抵抗し、神様を拒むことを行ない、最後は神様の性質に背いて神様の救いを失ってしまいます」

 兄弟の説教を聞いたあと、自分が神様の働きを何一つ知らず、盲目的に牧師の言葉に耳を傾けていたせいで、主の再臨をお迎えする機会を危うく逃すところだったことを思い出しました。そのときあまりにも愚かで無知だったことについて、私は心から自分を憎みました。同時に、私の心は主への感謝で満たされていました。私は言いました。「神様、感謝いたします。全能神と主イエスが一つの神様であることを、私はいま知っています。神様のあわれみと恵みがなければ、当時のイスラエル人と同じようになって宗教指導者に惑わされ、主をお待ちしながら主に抵抗して拒否し、最後は神様に捨てられ淘汰されていたでしょう」

 兄弟は言いました。「神様、感謝いたします。私たちは一つの神様によってなされる働きの三段階を理解していますので、全能神に従うのが主イエスを裏切ることではなく、お戻りになった主イエスをお迎えして子羊の足跡に従うことだと知ることができます。黙示録にこう記されている通りです。『小羊の行く所へは、どこへでもついて行く』(ヨハネの黙示録14:4)」

 姉妹と私はそれを聞いてとても感激しました。子羊の足跡に従えることはかくも大きな祝福だからです。私の愚かさと無知を忘れてくださり、私が兄弟の説教を通じて中国共産党による噂を見抜けるようにしてくださるとともに、観念と想像を捨てて主の再臨をお迎えできるようにしてくださったことについて、主に感謝いたします。その後、私は兄弟姉妹と集会に出席するようになりました。神様の御言葉を読んだり、全能神教会による福音動画を見たりすることを通じて、以前に理解していなかった数多くの真理を理解するようになりました。一ヶ月後には、全能神はお戻りになった主イエスだと心から確信するとともに、神様の終わりの日の働きを受け入れました。神様、感謝いたします。全能神にすべての栄光あれ」


主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

2020-06-21 11:49:13 | 賛美の心

 オンラインの集会に参加することで潤される

 私は数年前に家族と一緒に主イエスを信じ始めました。しかし2017年になって仕事のせいで頻繁に集会に参加できず、霊が沈んでいくのを徐々に感じました。自分の気に入らない物事に出会うたび、私はしばしば怒りっぽい性質を露わにしていました。心の中では自分を憎んでいたものの、それでも感情を抑えられなかったのです。そこで主に祈り、聖書の学習で私を導き、それによって主との関係修復を助けられる人を用意してくださるようお願いしました。

主の再臨をお迎えする大変な経験(I)

 ある日、Facebookグループである人のために祈っていたところ、ひとりの姉妹が私を友達に加えてくれました。その後、私たちは信仰に関することをオンラインでチャットするようになりました。その姉妹は聖書について多くのことを知っており、彼女の交わりはとても光に満ちていたので、私は自分の霊が再び潤されたことについて心から主に感謝しました。あるとき、彼女が説教を聞くよう招待してくれたので、私は喜んで従いました。説教の間、ある兄弟が聖書を使って、人類の堕落の起源と、どのような人が天国に入れるかを語りました。彼の説教は牧師のものよりも啓きに満ちていて、耳を傾けていた私の心は光で満たされ、その兄弟の説教を聞くのが楽しみになりました。

 オンラインの噂と牧師に影響され、神様による終わりの日の働きの考察を拒絶する

 次の集会が終わりに向かう中、その兄弟は「神様につき従う決心を揺るぎない」という賛美歌を歌いました。私はその賛美歌を聴いたことがなかったので、好奇心からオンラインでそれを探しました。あるリンクをクリックしたところ馴染みのある画像が現われ、それが全能神教会のウェブサイトであることと、その賛美歌が東方閃電によって作曲されたことを思い出しました。以前、牧師が全能神教会のウェブサイトをプロジェクターで映し、それについて悪く言っていたことがあるので、私はとても驚きました。しかし兄弟による説教はとても光に満ちていました。いったいどうなっているのでしょう。それから東方閃電に関する多くの否定的なコメントをオンラインで読んで、その兄弟を心の中で警戒するようになりました。その後、私はあの姉妹に、兄弟が歌った賛美歌は東方閃電のもので、彼の信仰は私たちのものと違うと言いました。すると姉妹は、次のオンライン集会でその問題の答えを一緒に見つけましょうと言ってくれました。

 集会のあいだ、私たちは心の中の疑惑を兄弟に伝えました。すると兄弟は、真の道を考察するときは神様のお声に耳を澄ますべきで、オンラインの噂を基に考察すべきではないと語りました。そして、今は終わりの日で、主イエスは肉となってお戻りになり、全能神の御名で神様の家から始まる裁きの働きをなさっていると言いました。また神様による終わりの日の裁きの働きや、神様が御名を変えられたことに関する聖書の聖句も数多く示してくれました。終わりの日の裁きの働きと全能神の御名に関する聖書の預言に反論することはできませんでしたが、全能神はお戻りになった主イエスであるという兄弟の言葉は私にとって信じがたいものでした。私はこう考えました。全能神は本当にお戻りになった主イエスなのか。牧師がそれについて語るのを以前に聞いたことはないし、主イエスも「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)とおっしゃった。主イエス以外に私たちを救える方はいらっしゃらない。全能神を信じるなら、主イエスを裏切っていることにはならないか。私はまだ天国に入れるだろうか。そうしたことを考えると、兄弟の言うことに耳を傾ける気がしなくなりました。

 その後、異端に気をつけるようにとのメッセージが教会のFacebookグループから送信されました。私はそれを見て、あの兄弟と接触するのがさらに嫌になりました。また姉妹が何度も招待してくれたにもかかわらず、オンライン集会に参加するのも断わりました。しかし後になって、兄弟の説教は主の御言葉と一致しており、ゆえに異端であるはずがないと感じました。そう考えていると心の中で葛藤が起こり、惨めな気分のまま、どうすべきかわからないでいました。その後、兄弟がグループチャットで数編の動画を送ってくれました。それらの動画を再生したところ、西洋の宗教学者による研究報告やコメントがいくつかありました。彼らは中国共産党による全能神教会への非難を調査し、インターネットで流れている全能神教会についての否定的な報道の大半は中国共産党が捏造したフェイクニュースであり、根拠となる事実がないことを証明していました。それらはまた、全能神教会を誹謗し断罪している中国共産党のフェイクニュースが、宗教的信仰の抑圧を目的としていることも暴いていました。これらの動画を見終えて初めて、インターネット上の噂がすべて嘘であることに気づきました。その後、兄弟がグループチャット経由で送ってくれた全能神教会による福音動画も見ました。その動画に登場する兄弟姉妹は中国共産党による逮捕を避けるため、しばしば集会の場所を変える必要がありました。集会の最中に中国共産党によって逮捕され、残酷な拷問を受けた人もいれば、自宅を捨てて逃げることを強いられた人もいました。私はそれらのシーンを見てとても悲しくなり、かつてある長老が中国に行って教えを宣べ、中国共産党はクリスチャンを迫害するのに力を惜しまず、中には投獄された長老さえいると言っていたことを思い出しました。また日曜礼拝の教師は、中国共産党は無神論者でマルクス主義を信じているから、神様を信じる人は誰もが弾圧されると言っていました。当時、私はそれらを誇張だと思っていました。盗みも強盗も働いていない主の信者を、どうして中国共産党が逮捕するでしょうか。しかしこれらの動画を見て初めて、中国共産党は犯罪と闘うよりも宗教的信仰を抑圧するほうに関心があり、彼らによる全能神教会の断罪を信用してはならないと理解しました。

 神様による終わりの日の働きを受け入れるのは主イエスを裏切ることなのか

 私は中国共産党による噂を見抜きましたが、主イエスと全能神の関係についてはまだはっきり理解しておらず、兄弟の説教を聞き続けるべきかどうかわからないままでした。全能神を信じ始めたら主イエスを裏切ることになるのではと不安だったのです。すると姉妹が、そんな簡単にあきらめず、最後の判断を下す前に詳しく調べてはどうかとアドバイスしてくれました。彼女の言うことは正しいと思いました。いったい何なのかを突き止めることなくあきらめたら、実際に主がお戻りになっていた場合、主をお迎えする機会を失うことにならないだろうか。そこで、次の集会で兄弟が説教することに耳を傾けることにしました。

 インターネットに接続すると、私の疑問について兄弟がこう説教してくれました。「主イエスを信じる私たちはみな、主が真の神様であることを知っています。また主から多くのお恵みと祝福を受け取り、大いに感謝して愛情を抱いています。ゆえに、主はすでにお戻りになっているが、もはやイエスではなく全能神と呼ばれていると聞くとき、私たちの多くは心の中でためらいを感じだし、自分は別の神様を信じて主を裏切っているのではないかと不安になります。そのせいで神様の働きをあえて考察しようとしないのです。しかしこのような考え方は正しいでしょうか。私たち全員が知っているとおり、主イエスがおいでになって働きをなさったとき、ファリサイ人は主の働きを異端だと断罪し、ローマ帝国と手を結んでイエスを十字架にかけました。主の御名がメシアではなく、安息日をお守りにならず、神殿の外に行って働きをなさり、教えを宣べ伝えられたからです。次のことを考えましょう。何世代もヤーウェ神に仕え、熱心にメシアを待ち望んでいたファリサイ人は、主イエスが預言されていたメシアであるとどうして気づかなかったのでしょう。それは、彼らが神様を知らず、とても傲慢でうぬぼれていて、自分の観念と想像を基に主イエスを断罪して拒んだからです。彼らは最終的に神様を信じながら神様に抵抗した人たちとして人生を終えました。ならば、主がお戻りになったという知らせを聞きながら、主の御名がイエスから全能神に変わったからといって考察するのを拒むなら、それは単に当時のファリサイ人の過ちを繰り返していることになりませんか」

 兄弟の説教は深く考えるべき多くのことを私にもたらしました。彼は正しいと私は思いました。神様にはお知恵があり、神様がどう働かれるかは私たちに想像できることではない。しかし自分の観念と想像を基に神様の働きを判断すれば、まさにファリサイ人と同じではないだろうか。そう考えると心がとても落ち着き、引き続き兄弟の説教に耳を傾けました。

 兄弟は続けました。「事実、ヤーウェ神と主イエスと全能神は一つの神様です。その働きと、働かれた場所は違っていますが、いずれも堕落した人類の必要に応じて神様がなさらなければならない働きなのです。律法の時代、神様はヤーウェ神の御名を使って働きをなさいました。ヤーウェ神は律法を布告なさって生まれたての人類を導かれ、地上でどう暮らすべきかをお教えになり、威厳と怒りと憐れみの性質を表現なさいました。律法に従う人たちは神様の祝福とお恵みを得ました。律法に背いた者は罪の捧げ物をしなければならず、さもないと石打ちの刑に処されるか、天の火によって焼かれました。律法の時代の後期、人類の罪はますます深刻になり、罪を贖われるためにする罪の捧げ物ももはやないほどでした。ゆえに、神様は人類が必要とするものを基に受肉され、イエスの御名で恵みの時代の働きをなさり、愛とあわれみの性質を表現なさるとともに、豊富なお恵みを人類に授けられ、悔い改めの道を宣べ伝えられ、自分を愛するように他人を愛するようお教えになり、人類のために罪の捧げ物として十字架にかけられました。恵みの時代の働きは二千年にわたって続き、主の贖いのおかげで私たちの罪は赦されてきたものの、傲慢さ、偽り、利己心、邪悪さといった私たちの堕落したサタン的性質はいまだ残っており、いまなお罪を犯しては告白するという循環の中で生き、罪の束縛からまったく逃れられないでいます。これは真実ではないですか」

 私は言いました。「ええ、真実です。主は私たちに、寛大で忍耐強くなり、自分を愛するように他人を愛するようお教えになりました。私たちは自分の怒りを抑えられるときもありますが、自分の意にそぐわない物事に遭遇すると怒りっぽい性質をどうしても露わにすることがあります。私たちは主の御前で罪を告白して悔い改めますが、それでも再び同じ罪を犯してしまいます」

 兄弟は再び説教を始めました。「そうです。主イエスによる贖いの働きのおかげで私たちの罪は赦されてきましたが、私たちに罪を犯させるサタン的な本性はいまなお深く根ざしており、いつでもどこでも罪を犯して神様に反抗することができます。聖書にはこう記されています「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)また主イエスはこうおっしゃいました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる」(ヨハネによる福音書8:34-35)罪を犯しては告白するというこの状態の中で生き続けるなら、たとえ主イエスの罪の捧げ物が永遠に有効だとしても、私たちはなお主によって天国へ引き上げられることができません。ゆえに終わりの日、神様は私たちが必要とするものを基に、主イエスによる贖いの働きを土台としてより高い働きをなさり、私たちの罪を裁いて不正を清めるべく真理を表現なさって、私たちが真の救いを得て天国に入れるようにしてくださいます。そのことから、ヤーウェ神の働きと主イエスの働きと全能神の働きはそれぞれ不可分に結びついており、働きの各段階は直前の段階に比べてより高く、それらが一つの神様の働きであることがわかります。ここで神様の御言葉の二節を読みましょう。そうすればもっとはっきり理解できます。


神の言葉が私を覚醒させた

2020-06-21 01:35:56 | 賛美の心

渺小 山東省济南市

 私は以前、神様が「偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である」とおっしゃったのは、終わりの日の神様の働きを受け入れるものの、その後あとずさりする人を指しているのだとばかり思っていました。それ故、どんな理由であれ兄弟姉妹たちがこの道から退くのを見るといつでも、私の心は彼らへの軽蔑で一杯になりました。「偉大な白い玉座から逃れ、神様の懲罰を受けるべき操り人形であり裏切り者がまた一人」と思ったのです。それと同時に、私自身は神様の裁きを受け入れるうえで正しく行動しており、神様の救いを受けるのはそう遠くないと感じていました。

証し

 

 ある日、私が霊的な勤めを果たしていたとき、「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」という記事に神様の以下のような言葉を見つけました。「それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。」(『言葉は肉において現れる』より)この言葉を熟考した後、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者は、この道から後ずさりする人々だけを指しているのではないということを私はついに理解しました。さらに重要なことに、それが指しているのは、神様に従いながらこれらの真理を尊重しない人々、これらの真理から外れた新しい道を探し、常にこれらの真理を忌避している人々、神様の懲罰と裁きに従う覚悟がないのに、神様によって清められることを求める人々だということです。私は神様の啓示と導きの下で、自らの行動を反省し始めました。神様は今、人を裁く言葉を表し、苦しみと精練によって神様と相容れないものを人から除いておられます。しかし、神様の懲罰と裁き、苦しみと精練に直面して、神様がこのような状況をすぐに取り除かれることを願いつつ、私はいつも逃げようとしています。これは真理を避け、真理から外れた道を探していることではないでしょうか。神様がもたらされた人々や物が私の個人的な観念に合わなかったり、あるいは私が後ろ向きな状況に陥ったりすると、たとえ兄弟姉妹たちとの交流を通じて私の問題が解決されるとしても、私はなおも抵抗し、聞くことを拒否します。神様がおっしゃるように、これは真理を求めていない、私を神様にさらに近づける道を愛していないということではないでしょうか。仕事のやり方がおざなりであるために取り扱われ、刈り込まれるとき、私はいつも自らを説明する言い訳を探しています。これは真理を受け入れることを拒む本質ではないでしょうか。私は実生活で自分に都合のよいようにすることがよくあります。それが真理であることを知っているときでさえ、私は肉を裏切り真理を実践することを拒否します。これは裁きを受け入れていないだけではなく、浄化されることを求めていないのではないでしょうか。・・・そのことについて考えるようになったので、さらにはっきりと私は理解しています。偉大な白い玉座から逃れていると神様がおっしゃる人々は、教会を離れる人だけを指しているのではありません。もっと重要なことに、それは真理を受け入れず、神の裁きに従わおうとしない私たちの心を指しているのです。今になって初めて私は恐怖や慄きを感じ始めました。私は教会を去っていませんが、問題に遭遇するたび、真理を受け入れるのを常に拒否し、神様の裁きを避けていました。私は正に神の裁きの席から逃れる操り人形であり裏切り者ではないでしょうか。しかし私は、自分は神様の救いを受けるのにとても近いところにいるが、教会を離れる人々だけが神の玉座から逃れる操り人形であり裏切り者であると信じていました。神の言葉についての私の理解があまりにも一面的で浅く、神の働きについての私の知識もあまりにも不足していたことがわかります。今や、神の懲罰と裁きを誠実に受け入れ、性質の変化を成しえた人々だけが神の救い本当に受けます。それなのに私は自分の想像に生き、真理を渇望せず、自らのいのちに責任を持たず、危機感や切迫感が全くありませんでした。もしこのように続けていれば、私は正に神の懲罰の対象になったのではないでしょうか。

 神様の言葉の啓示のおかげで、私は自らの観念や想像から目を覚まし、自分が神様の懲罰や裁きを受け入れる覚悟のある者ではないことに気づきました。それはまた、私が危機に瀕していたことを私に知らしめてくれました。これからは、やがて神様により清め、完全にしていただけるように、私は心をすべて神様に捧げ、神様の懲罰と裁きに従い、最大限の努力を行って真理と性質の変化を求めます。


私たちクリスチャンはどのように結婚相手を選ぶべきでしょう

2020-06-19 09:09:56 | 賛美の心

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ

 私は結婚相手を見つける年頃になりました。私の結婚については両親から心配され、親戚と友人たちからもよく聞かれるので、私は重いプレッシャーを感じています。結婚相手を探す話しになると、私の未信者の友人たちは誰もが、「背が高くて、金持ちで、ハンサム」や「色白で、金持ちで、美しい」人を選びたがっていますが、私たちクリスチャンはどのような人を選ぶべきなのか、私は全く分かりません。お返事お待ちしております。

敬具

シャンヂィ

2018年11月20日

クリスチャンの結婚,結婚相手を選ぶべきでしょう,ローズ

 シャンヂィ姉妹へ

 結婚は私たちの生活においてとても重大な出来事ですので、じっくりと考えるのは良いことです。私たちはクリスチャンとして、本事柄における神の御心を理解するために真理を求め、関連する原則に従って行動するべきです。そうすると、私たちは適切な結婚相手を見つけて、神の祝福を受けることができます。次に、私の個人的な体験を話したいと思います。

 以前、私もハンサムで家計の豊かな人を結婚相手に見つけたいと思っていました。そこで、私はこういった条件に合った男性と出会った時、彼と交際を始めました。しかし、その後予期せぬ事が起こりました。未信者であった彼は抑えがきかないほど勝手気ままな人だったのです。特に、彼は女付き合いにけじめの無い人でした。これ故に、彼と交際をしていた間はとても不安な思いをしました。また、彼はキャリアの面で私の助けを必要としていたので、いつも横から私をおだててくるのですが、私たちの勤める会社で安定したした足掛かりを手にしたとたん、私の相手はしてくれなくなりました。特に、私は悲しくて、失望し、慰めて欲しかった時、彼は私のことを気に掛けてくれなかっただけでなく、私は手間がかかり過ぎると言って文句を言ったのです。なので、彼と交際していた間に一番多く感じたのは彼の心遣いや配慮ではなく、むしろ無関心さでした。後に、私は、彼が私との交際を始める以前から他の女性と交際していたということを彼のQzoneで知り、その後私は彼から冷たくフラれてしまいました。その衝撃にはとても辛い思いをさせられました。

 教会の集会で、私は姉妹に自分のこの体験を話しました。すると、彼女はこのように交流してくれました、「私たちはクリスチャンとして、結婚を含めて何をするにしろ、自分の好みに頼るのではなく、神の御心を求めるべきです。なので、私たちは自分たちの結婚相手を選ぶ時も、それを神の御手に委ねるべきなのです。さらに、私たちは好みの人が自分たちに合っている人であるかどうかも神に尋ねるべきです、なぜなら神のみが人々の深奥を覗き、人々の心を見抜くことができるので、神が私たちに用意してくださるお相手は間違いなく最も適した人なのです。もう1つ考慮すべき点はその結婚相手が私たちと同じ心を持っているかどうかということです。お互いに理解し合えないような人々が一緒に幸せになれるでしょうか?これについて聖書にはこう記されています、『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。』(コリント人への第二の手紙 6:14)。そして、ある人がした交流の中にこういう節があります、’大人になったら結婚するのは至って普通のことですが、人は適切な相手を選ぶべきです。それは、最低限、その人の信仰といのちにとって有益な人であるべきで、それはとても重要なことです。人々のする選択により歩んで行く道と終着点が決まるのです。大事なことは、神の御要件に従ってそれぞれが自分の歩む道を選択できるかどうかということです。’ この言葉は実践すべき道を私たちにはっきりと指し示しています。自分の結婚相手を探す際に、私たちは相手の容姿や家計のみを重要視するべきではありません。最も大切なことは同じ考え方を共有し、善良な人間性を持ち、私たちの信仰に有益な人を選ぶことです。こうすることで、お互いに理解し合い、我慢し合い、許し合えるのです。また、これは私たちの真理の追究といのち成長においても有利なことです。しかし、結婚相手を自分の好みまかせに選んでしまうと、相手は背が高くで、ハンサムで、その家族が裕福であったとしても、その人自体は人間性が悪く、貪欲で、かつ怠慢な遊び人で、家族を大切にしない人であるということがあります。そのような人とは全く分かり合えません。これ故に、その人と暮らしても害と悲しみ意外は何も得られません。さらに酷いことに、もしその人が、私たちが神を信じることを妨げるようなことがあれば、それは私たちの人生を台無しにさえしてしまい、私たちは救われる機会を失ってしまいます。」この交流を通じて、私はこう理解しました:「クリスチャンとして、結婚相手を探す時に最も大切なことは自分の相手が善良な人間性をもっているのかどうか、そして自分の信仰に有益な人であるかどうかを確かめるべきなのです。私はまた、お互いが同じ心を持っていて、同じものを追求しているのかどうかも考慮する必要があったのです。」

 その後すぐに、私の叔母が医者の男性を紹介してくれたのですが、その人の家庭は裕福で、彼の両親は共に教師であると言っていました。そして、彼女が彼の写真を見せてくれると、そこには彼のハンサムなルックスが写っていました。一目見て、彼が自分のタイプだと分かりました。その後すぐ、ヂャン姉妹が私に彼女の甥ヂャン・スンを紹介してくれて、私は彼と知り合いになりました。彼は見た目が普通な修理工、そして彼の両親は2人とも一般的な作業員でした。この条件は全てあの医者とは比べものになりませんでした。しかし、特に言及すべきこととして、ヂャン・スンは敬虔なクリスチャンだったのです。彼は心から神を信仰しており、私たちは同じ考え方をしていました。あの医者について考えてみましょう。彼は未信者でした。そして、もし彼と結婚することになれば、彼は私が神を信仰することを反対するかもしれません。考え方の共有ができないと、お互いの気持に直接悪影響を及ぼし、前のボーイフレンドと私のように離別に至ってしまうでしょう。しかしながら、自分の肉的な関心を考慮してしまった私は医者を選ぼうと思いました。このように、私はどう選択してよいのか分からなくなってしまったのです。

 その時、私は神に祈ることしかできませんでした。祈りを捧げた後、私はある交流の中でこの節を目にしました、「結婚相手を探す際に、真理ではなく、自分の肉的な好みに完全に頼り、自分の願望に沿った人だけを選んでしまう人々がいます。このような人々は神に従順であると言えるしょうか?神は私たちに、不信者とつり合わないくびきを共にしないということを要求されます。この要求に従って行動せよと言われたら、信者を結婚相手に選べますか?信者と交際する時に、’このルックスが悪くて地位も無い人は私の理想の相手ではないです。お付き合いしたくありません。ルックスが良くて、地位もあるけど信仰を持たない悪魔を選んだ方がましです’ 、と言う人がいます。このようなことをして、神に従順であると言えますか?」

 この交流を読んだ後、私は自分の心を静めて神の御旨を求めました。私はこう思いました:「私は2人の男性から選ぶことができたけども、単純に外見と家系で判断すれば、医者の方がいいと思ったわ。でも、それは、不信者の観点に従っていたということだし、自分の肉的な好みに基づいていたのよ。しかも、彼は神を信仰していなかったし、それは間違いなく私の信仰と真理の追究に対して不都合なことだったわ。一方のヂャン・スンはと言うと、彼の家計はあまり良くなかったけど、彼は神を信仰して、真理を追い求めて、さらには人間性が良くて、自分の家族と兄弟姉妹たちを大切にしていたわ。それに、彼は教会で積極的に本分を尽くしていた。彼を選んだら、私たちは将来同じ道を歩んで、一緒に主に仕えることができるわ。それがいい事だったのよ。自分の状況はと言うと、私は普通の家庭に生まれて、両親は共に一般的な作業員、それに私は高学歴でもないわ。この条件は全て医者に比べると遥かに劣っているわ。だから、彼と結婚したらつり合いが取れないのよ。それで、私は引け目を感じて困ってしまうだろうし、彼に避けられるかもしれないわ。」こう思った私は自分の考えを神に伝え、自分の肉の好みを捨てて神の御要件に従うと祈りを捧げました。祈りを捧げた後、私は心が穏やかになって落ち着きました。

 その後、私は思い切って医者と交際するのをやめて、ヂャン・スンと交際を始めました。私は彼と触れ合っていくうちに、彼の物事に対する考えは不信者のものとは完全に異なり、彼は人生の快楽を追い求めることに集中していなかったことを知りました。彼の自分の意見として、そのような物を追い求めるのは無意味であり、信者は真理を追い求め、神の御心を理解して神を喜ばせることに努力を注ぐべきだと言っていました。私たちが会う度に、彼は一緒に神を讃えようと私をリードしながら神の御言葉を読み、讃美歌を歌ってくれました。特に、彼は、「私たちの気持ちは神の御言葉を基礎づけて確立されているべきです。私たちは神の御言葉に従いながらお互いを愛し合うべきです。片方の言うことが正しくて、真理に適っているのなら、もう片方はそれに従い、それを受け入れるべきです。このようにして、真理を私たちの指導者とするのです」、と強調しました。さらに、私が傲慢さとうぬぼれを表すと、彼は私と話しをして、キリストの謙虚な姿勢と素晴らしさを見習うように言ってくれます。私が消極的で弱気になっていると、彼は神の御言葉を使って私を慰め、励ましてもくれます。彼としばらく仲良くしていると、私は彼が自分にとってとても大きな助けになっていたことに気が付きました。過去、私は神の御言葉を求めることには注意を払っていませんでした。しかし、今は、物事に直面すると、私は神の御心を求めることに集中し、神の御言葉を切望するので、真理を追い求めることにもっと自信が持てるようになっています。次第に、私たち2人は腹心の友となりました。物事が起こると、私たちはそれを解決するために真理を求めます。私は、神の御要件に従って相手を探してのみ、真の幸せを手にすることができると心の中で感じました。

 その後、私が実家を訪れると、叔母が私にこう言いました、「あの医者と結婚しなくて良かったわね。あの男は親に甘やかされているから。最近は一日中酒と、女と、ギャンブルにふけてるし、仕事も辞めてしまったから、両親がカンカンに怒ってるのよ。」これを聞いた私は心の中で神に感謝しました。結婚相手を探すことについて、神の御要件に従って行動せず、自分の虚栄心に屈していたら、私は今頃苦しみの中を生きていたことでしょう。この体験をした後、私は、「結婚相手を探すにあたって、私たちは相手の外見と家系は重要視すべきではありません。最も大切なことは、同じ考えを持ち、同じものを追い求める人を選ぶということです。こうしてのみ、私たちの結婚生活は幸せなものになり得るのです」、と心から理解しました。

 シャンヂィ姉妹、以上が私の持つ経験と認識です。これら全てがあなたの役に立つことを願っています。神の御要求通りに行動してさえいれば、私たちは神の御加護と祝福を授かることができます。神の御恵みがありますように!

敬具

信仰ステーション、ピンファンより