1918年6月2日(旧暦5月20日)
四時にメローヴィチ、ピアストロ、ストロークとお茶を飲んだ。私は最初、二流どころの芸術家二人と、当地でのコンサートの舞台で一緒にされ、彼らの助言や要望を聞かなくてはならないかと思うと何やら不愉快だった。しかし彼らは感じがよく控えめで、とにかく楽しく人のいい連中だったので、すぐに楽しく打ち解けた雰囲気になった。ストロークはぺこぺこして、一週間後にメローヴィチとピアストロとの仕事を終えたら、東京と横浜で私のコンサートを開く算段だと告げた。残念なことに、上海でのシーズンは終わってしまった。そうでなければ連続コンサートを開けたのに。夜はメローヴィチと彼のファンとその女友達――ひどくいたずら好きなご婦人二人――と一緒にカフェー・ライオンに出かけ、個室でえらくふざけた。
ペトログラードのB.N.ヴェーリンへ。横浜にて。
「親愛なるボーレンカ。東京から電車で50分、横浜のグランドホテルのベランダに座っている。近くには澄んだ穏やかな太平洋が広がり、二、三万トン級の巨大な船が何艘か桟橋を飾っている。カフェーでは日本人が深々とお辞儀をし、私に敬意を表する。隣の席から『ダブル』と声がする。ロシア人亡命者達がブリッジをしているのだ。私の船は三日前にバルパライソに出発してしまったので、しばらくここにいる。コンサートを開く予定。抱擁を贈る。S.」
四時にメローヴィチ、ピアストロ、ストロークとお茶を飲んだ。私は最初、二流どころの芸術家二人と、当地でのコンサートの舞台で一緒にされ、彼らの助言や要望を聞かなくてはならないかと思うと何やら不愉快だった。しかし彼らは感じがよく控えめで、とにかく楽しく人のいい連中だったので、すぐに楽しく打ち解けた雰囲気になった。ストロークはぺこぺこして、一週間後にメローヴィチとピアストロとの仕事を終えたら、東京と横浜で私のコンサートを開く算段だと告げた。残念なことに、上海でのシーズンは終わってしまった。そうでなければ連続コンサートを開けたのに。夜はメローヴィチと彼のファンとその女友達――ひどくいたずら好きなご婦人二人――と一緒にカフェー・ライオンに出かけ、個室でえらくふざけた。
ペトログラードのB.N.ヴェーリンへ。横浜にて。
「親愛なるボーレンカ。東京から電車で50分、横浜のグランドホテルのベランダに座っている。近くには澄んだ穏やかな太平洋が広がり、二、三万トン級の巨大な船が何艘か桟橋を飾っている。カフェーでは日本人が深々とお辞儀をし、私に敬意を表する。隣の席から『ダブル』と声がする。ロシア人亡命者達がブリッジをしているのだ。私の船は三日前にバルパライソに出発してしまったので、しばらくここにいる。コンサートを開く予定。抱擁を贈る。S.」