プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

チタ駅

1918-05-16 | 日本滞在記
1918年5月16日(旧暦3日)

 気分が落ち着かない。遠く長い旅に出て、神経がたかぶっているようだ。だがみな過ぎたこと。そんなことで考えこむのは馬鹿らしい、と自分自身に言い聞かせる。
 チタ第一駅、チタ第二駅。最初の駅でコーシツ〔ニーナ・パーヴロヴナ、オペラ歌手、のち米国に亡命。1894-1965〕からの電報が届いているか尋ねたが、来ていなかった。次の駅では思いにふけり、うかつにも聞きそびれた。だがそれもこれも、どうせ電報なんか来るわけない、と思っているからだ。私は旅立ち、ニーノチカ〔コーシツ〕は残った。そのほうがよかった。彼女といると押しつぶされそうだ。

 ペトログラードのB.N.〔ボリス・ヴェーリン、詩人で青年時代の友人〕へ

「親愛なるアメーバ君、僕はバイカルの感慨覚めやらぬままチタに向かっている。アンガラ川の岸辺沿いをゆき、穏やかで、陽光を浴びて空色に輝き、雪を頂く山々に囲まれたバイカル湖に突然接近した時は、強い感銘を受けた。九日間の旅にも疲れを感じていないし、あたりは平静です。イルクーツクで特急が終わってしまったけれど、申し分のない一等車に乗り換えた。満州はカザーク軍に占領されているため、スレチェンスクとハバロフスクを経由していくことになる。二日余計にかかります。抱擁をおくる。S.」
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