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韓国の青い空 한국의 푸른 하늘

順天倭城の石垣をひとり歩く

順天倭城
日本の石垣の技術は7世紀半に百済から伝えられたものである。

倭城は朝鮮半島の南岸だけでなく内陸にも建てられたと考えられるが実情は不明である。


最寄のバス停名は「倭城」

戦国時代に培われた戦国武将の経験によって大幅に向上した築城技術が用いられたので、それまで長らく戦がなかった李氏朝鮮の城に比べて防御力が高く実戦的であった。




日本の城郭史において、文禄・慶長期の築城技術を示す重要な遺構とされるが、朝鮮半島では天守・櫓・城門や塀が残っている城は一つもなく、石垣や遺構だけが現存している。


石垣も、撤退後または和平時に角部が破壊(破城)されている箇所もある。いくつかの倭城は公園となり、その他の多くは丘の上や林の中に石垣が残存し、いくつかは消滅した


倭城はその性格によって大きく2つに分類される。


一つ目は明に攻め入る際に豊臣秀吉の滞在地(御座所)と兵糧補給路を確保することを目的として建設された城で、"つたいの城"とも呼ばれる。


釜山からソウルまでのほぼ1日で軍隊が進軍できる距離ごとに建設され、後に義州まで建設された。主に朝鮮の邑城を修理するか、適当な邑城がなかった場所に新たに建設された。


位置が現在では明確でないが、咸鏡道の吉州と安辺の間に建設されたと言われており、当時、進軍ルートごとに日本軍がこの城を構築したものと推定される。



二つ目は南海岸(釜山、蔚山、慶尚南道、順天、南全羅に築造された統治のための城である。



文禄・慶長の役 (1592 ~ 1598)
1592年4月、文禄·慶長の役開戦直後、釜山に上陸した日本軍は補給拠点を設けるため、釜山倭城を築造した。


同年11月、平壌を占領した小西軍が平壌に倭城を築城し、浮田は漢城の南である南山に倭城を築城した。




しかし、翌年1月、朝明連合軍の反撃に追われ始めた日本軍は、1593年5月から現在の慶尚南道海岸一帯に約20ヶ所の倭城を築造した。





文禄·慶長の役講和交渉が決裂し、再侵攻してきた日本軍は、これまで築城していた倭城を再び占拠し、日本の水軍は熊川倭城を占拠して根拠地とした。




この当時、日本軍は占領地を確実に確保するとともに、日本本土との連結のため、従来の築城した海岸一帯の倭城を補修し、東は蔚山、西は順天まで戦線が拡大した。










石垣の上からの眺め


400年前の歴史が頭を巡る。


この辺り昔は海で、韓国の英雄「李舜臣」がにらみを効かせていた。


1598年のこの日(8月18日)、豊臣秀吉は伏見城で最後を迎える。

秀吉辞世の句
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」


本日も訪問ありがとうございました⭐


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