悪を決定付けるものも、此の世には無い。
だが、或る程度の線引きはされてある様である。
「様である」と云うのも変な話だが、そうとしか云い様が無い。
「あの人は皆に優しく、そして明るい」
「彼奴には心が無いのか。何故あんな酷い事が出来るのか」
此の世の運行を見る限り、善人が幸せに暮らしていて、悪人と呼ばれる者が不遇に陥っている訳ではない。
其の逆も実際に在る。
「じゃあ、他人を傷つけようがどんな酷い事をして、自己保存の儘生きればいいのか」
と云う言葉が飛んで来そうだが、そんな事を云っているのではない。
人間の奥底には、利己心と利他心の二つが備わっている。
「善悪」と云う言葉は、何を以って善悪と称するのか、此の世には其れを示す基準が無いと思っている。
善き事に捉われて、心を窮屈にしていると病気になる。
善人と称される人に体調不良が多い。
常に善に捉われて四角四面な実生活に陥る結果である。
其の言動から、他人は気難しさに辟易し距離を置こうとなる。
人間関係もギクシャクする。
善人こそ神仏が手を差し伸べて病や実生活の不遇から護られると思いがちだが、本人の心の状態が投影されるのが此の世である。
「彼奴、根っからの札付きのワルだが、快活でなんか憎めない」
と云う者も居て、覇気が会って元気そのものと云う奴を知っている。
奴は本当に自己中心的な奴で、言動もトゲ?…否、剣が在り、トラブルも多い。
だからと云って、此奴が病や不遇に陥っているかと云えばそうではない。
妻子が在り、上手くやっている。
余り物事を極端に考え過ぎぬ事だ。
凡ての人から慕われる善人等は此の世にはいない。
イエス・キリストは神経質で気難しく、感情の起伏が激しかったし、釈尊は悟りの為として家族を切り離し、独り善がりの人間だった。
どんな聖人君主でも、誰かからは反発を食らうのである。
そう云う観点から、凡てに慕われる人間等は存在しないのである。
善人と称される人に多いのは、他人を裁く事である。
自分自身を基準にして物事を図ろうとする。
自分が正しいとの観点から出る言動は、悪人と呼ばれる者よりも厄介である。
「良い言葉を発すべき、良い行いをすべき」
と凝り固まると損である。
人間が勝手にこしらえた善悪を、恰も神仏が創造したものに摩り替えて、他人を裁く事はやめた方がいい。
其の方が人生を有意義に過ごせる。
他人を救う前に、己が実生活を確立する事である。
他に施しが出来る、出来ないは其々のキャパシティが在る。
テレビや新聞等で、有名人や著名人が寄付を幾らしたとか、義援金を幾らしたとか、金額や其の量を声高に流すが、金額や量を一々云う必要は無い。
別にした事を下々に報せる必要も無い。
出来る人がやればいいし、出来ない人が無理にやる事では無い。
募金も同じである。
やらない人が責められる事では無い。
吾は募金や寄付をする。
最近は見掛けぬが、コンビニのレジ前に置いてある募金箱にお釣りを入れていた。
少ないが、薄給の吾に出来る精一杯の事である。
宗教家や慈善団体に云うが、善の押し付けと押し売りだけはお止め下さい。