偽史倭人伝 ~ Carnea Historia

march madness の次が April Foolなんて小粋ぢゃないか。

●いまさら裁判員制度について愚痴る

2005年03月10日 03時46分05秒 | ◎ツッコミ思案1
トーク番組で高嶋政宏が妻シルヴィアとの夫婦げんかについて語っていた。
「向こうはヨーロッパ人ですからね。いちいち論理的にせめてくるから、こっちは困っちゃうんですよ」
↑この高嶋のセリフは有る意味日本人代表といってもいいと思う。
日本では
「理屈こきやがって」とか
「屁理屈こねてんぢゃねーよ」
とか「理屈」が忌み嫌われる
しかも実際には「屁理屈」と揶揄されてきたもののほとんどは、屁ではなくただの「理屈」だったりする。そんな日本人が重い議題について論理的な話し合いができるのだろうか?という不安。

少なくとも私は自信がない。
時間無制限だったらなんとかなるかもしれないけど。
そういうわけにもいかないでしょ?

 今回のニッポン放送買収騒動で、団塊の世代から下の世代あたりでライブドア擁護が多数をしめたという事実に一抹の不安。
 
「え?、何?『原理・原則』に照らし合わせた結果としてフジの対抗策を非難してるんだから、これってきわめてクールで論理的じゃないか?きっと若い世代は“きてる”んだよ!自分と反対意見だからってそういう切り捨て方はないんじゃない?」

ってツッコミをいれたくなるのはわかる。
 でも、その「原理・原則」に終始しているというところに危険を感じる。法律ってのは常に解釈がつきまとう。だからアタマのいい弁護士さんと裁判官と検事がいるわけでしょ?判例法というのがあるように時には実質的な意味で法律が変わってしまうこともある。
 「そもそもこの法律は誰の何を保護するためにあるのか?」という理念のところまで考えてはじめて法律は機能すべきもんだ。真の論理的思考とは時には、もう決まり切っていると思えることについても“一度は疑ってみる”ことが必要なのだと思う。
 つまり裁判に参加するということは、ともすれば法律を壊し、新たに作る立場に立たされるってことだ。
 んでもって今回の買収騒動でなにが気になったかっていうと反フジ派が多かったという数の問題じゃない。結局はどっちの側もだった…ってことになるんだろうけど、ほとんど動的な論争なしに既成の言葉の受け売りの応酬だったんじゃないかってこと。

 テレビのニュース番組に出ていたご意見番の先生方の何人かはちゃんと、あらゆる可能性、解釈について解説なさっていたが、番組的にはそういうところはあまり拾わずにさっと流していた。テレビ的には当事者のしゃべりを映像つきで何度も流したほうがインパクトがあるからだろう。私たちはそんなマスコミに育てられてきたのだ。

「理屈をこねてんぢゃねーよ」とおっちゃん達に説教されて育ち
「女は理屈こねてくるからよう言い返せんわ(笑)」とヘラヘラとやり過ごしてきた私たちに裁判員制度はまさに晴天の霹靂。

 せめて…例えば「死刑制度」とかについて話し合うことで“練習”くらいはさせてもらえないだろうか?…と思う。
 しゃべくるのは勿論のこと“聞く耳”を持って、ちゃんと理解する…ってのも実際には慣れてないとけっこう難しいと思う。
 しかも、限られた期間、時間でビビらず、焦らず…って。精神的に追いつめられてアタマが真っ白になってしまうかもしれない。
 …そう個人的には時間内で…っていうのが一番苦手。

 想像しただけでいやな汗が出る。

 とにかく最低でも“練習”を。これをするのとしないのでは大違いだと思う。実際に討論に参加しなくても、人がやっているのを見ても目から鱗なことは多いだろう。ぶっつけ本番はキツすぎる。公開ディベート練習番組なんて政府提供でやってくれないかな…と。

 今、例題として「死刑制度」といったけど、実はこれも大いにひっかかってるってことのひとつ(裁判員制度から逃げたい口実ではなく大学時代からどちらかというと廃止論者)。
 人を裁くってどういうことだろう?ってシャカリキに考えたことないし、参加するには“納得”と“覚悟”が必要だと思う。

 論理的思考の習慣に加えて、この“納得”というのが諸外国と日本の違いじゃないだろうか?

 例は悪いかもしれないが諸外国の人々が胸張って軍隊に志願できるのは、それが他の国から見ても正しいのかどうかは別として、彼ら自身には確固たる信念にもとづいた“納得”があるからだろう。例えば“自由のために闘う”であるとか。下地に宗教的なものがあるのも大きいかもしれない。
 とにかく裁くにしても、闘うにしても人を死に至らしめようというのには納得なくしてできやしないと思う。
 でも、納得していないことと単に関わりたくないだけ…ってのの違いってヒトには伝わりにくいんだろうな。

ここで、ふとアタマをよぎった。

あなたは今戦争が起こった場合、国のために戦えますか?っていう命題
『ノー』と言った場合の理由
 ●自分が死ぬのがイヤだ
 ●人を殺すのがいやだ
 ●上の両方がいやだ
 ●戦争という行為そのものに反対する
でもその場合
 ▼家族が危険にさらされたらどうか?
 ▼すでに敵の上陸がはじまっていて、まさに国の存亡がかかっている場合はどうか?

だめだ
思考停止したくなるなぁ。…っていうか停止。

こないだ田原総一郎が社民党のあの弁護士センセに
「あなたは国のために命を捧げられますか?」(←戦争ということではなく)
と聞いたら彼女は間髪いれずに
「そんなのできませんよ~」と吐き捨てた。
どうやら彼女の政治人生には石井紘基のような高い志はないらしい
野党とはいえかつての野党第一党の党首がこんなんだったら一国民の私ががこんなヘタレでも許されませんか?だめ?

でも
「死刑制度」だけはやはり裁判制度前に論議が必要だと思うし、盛り上がれば今の日本にはない終身刑の導入の可否とかそういうのも含め犯罪者処遇制度全体を改めて考えるいい機会ではないだろうか。

 結局、散らかしたまま終わってしまった。いやむしろ今回でけは散らかしたままにしておきたい…
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2 コメント

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確かに (sabu)
2005-03-10 19:55:08
日本人はディベートが苦手ですね。(私もそうです)

裁判員制度の事を知ったときに、もちろん人の人生に重大の責務を負うことへの恐れも感じたのですが、それ以上に冷静に判断し議論を尽くす力が私達にあるかを大いに疑い不安になりました。



裁判員制度の理念は理解できなくはないのですが。
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なにかしらの (管理人)
2005-03-11 01:03:26
sabuさんコメントありがとうございます。

「一般の人の常識を裁判に反映させ裁判への信頼を高めること」ってのは意義がありそうですが、ぢゃ法律家のセンセは一般常識ないのかよ…っていう…。

 確かに多様な人の意見によって司法の現場における問題が精査されたら有る意味理想的ですが、議論が苦手なまま放り込まれると逆に多数派とか、無難な一般論に流されてしまいそう。啓蒙なりなんなりなにかしらの準備期間と段階とかは踏んで欲しいですよね。
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