細木数子の番組といえば過剰に演出された高飛車な態度と
少しのコールドリーディングと
昔ながらの道徳観を語る、わりとまともなシメの言葉とで構成された
平均点で評価するなら、まぁ、こういうのがあってもいいんじゃない?
と、そんな感じで見ていたのだけど
昨年のフジテレビの『25時間テレビ』でホリエモンと顔合わせした時から、このオバちゃんに何かキナ臭さというか、危うい“負のオーラ”のようなものを感じ始めていた。
それは別に後に逮捕されるであろう平成の大ペテン師をもちあげてしまったことではない。
細木氏が「大もうけできる新事業」とホリエモンにアドバイスしたその内容が問題だと感じたのだ
彼女が提示したのは「鍵」だった。
これに対しては、ネットでも物議を醸していたが、その大半は
「細木数子はライブドアを“ドア”を作る会社だと勘違いしている」
とか
「防犯用の鍵ならすでにイスラエルにすごいのを作ってる会社があるのに」
とかいった
細木氏の無知ぶりを笑い飛ばすものがほとんどだった。
でも、おいらは笑ってすませられない恐ろしさを感じてたまった。
「鍵」という発想にだ。
たしかに最近、犯罪が増えたので防犯対策は急務ではある
でも防犯は「鍵」ばかりではないのだ
警備を強化するなどの対症療法的な対応には限界がある
今、必要とされているのは体質改善的な根本療法ではないかってこと
たとえばブロークンウィンドウ理論のように犯罪の発生しにくい町づくりをするということ
それは時には地域ぐるみであったりと個人を超えた単位での参加が不可欠
だから世の中のデザインを変えてしまえるくらいの大企業にこそ
防犯のインフラづくりをするべきなのだ
それを
「きょーび、自分の身は自分で守るしかないんだ」的な「鍵」の販売を提案するというのは、金持ちの個人主義的発想だ。
そう、貧乏人はそんな「鍵」発売されたって買えないのだから。
どっかの大手住宅会社もそんなコピーをほんわかした雰囲気の演出で目くらまししながら防犯住宅のCMしてたけど、そんなの言語同断。
大手建設関連企業は規制ギリギリの弱いモノいじめな脱法的乱開発を繰り広げるマッチョな体力があるなら犯罪のおきにくいまちづくりデザインとかの研究に金使ってくれ。
「所詮、自分の身は自分で守るしかないんだ」的な発想がはびこれば六本木ヒルズだけでなく、そこら中にゲートシティが生まれるだろう。
つまり金持ちの集落は要塞化し、貧乏人は閉め出される。
街のデザイン自体に格差社会が反映されたカタチになる。
もう、「ナイト・オブ・リビングデッド」の世界だ。
小学校の防犯においても今、世の中の意見は二分されているという。
つまり、警備を強化する(誰も入れないようにする)か、
むしろ逆に開放するか?という2つの方法論だ。
開放するというのは、特に身近に子供のいない人にとっては馴染みがない方法論かもしれないが、用は地域ぐるみで顔見知りになるという総下町化な発想だ。
開放化とて完璧とはいえないし、今の世の中、そういう地域活動への参加をめんどくさがる人もいるかもしれない。
でも警備強化の物量作戦はおのずと限界があるし、潜在的な犯罪者を減らすことにはならないのではないか。
現役教師が出演して芸能人と討論するという趣向の番組の中で榊原郁恵が言ってたけど、ギッチリ防犯システム化した小学校だと知らない人に挨拶してくれないけど、開放的(というか従来型でも)なところではちゃんと挨拶してくれる…なんて言ってた。
そういえば小学校んときに
「お客さんにはちゃんと挨拶しましょう(“スリッパはいた人”っていったっけ?)」
っていわれてた気がする。
そして、今年の正月にやっていた特番で細木氏は子供にたいして
「知らない人に挨拶なんかするんぢゃない」
といいはなった。
この時『25時間テレビ』の時から感じてた“危うさが”目の前で正体を現した気がした。
結局のところこの人は「閉じた社会」を作りたいのではないのか?
さっきも言ったように、物量作戦に限界がある。
それは言ってみればマンツーマン・ディフェンス。
極端なハナシ“攻め”の数が半数を超えてしまったら、守りきれない
守るほうはハイテクなどの智恵を駆使するから、必ずしも「1対1ぢゃないよ」ってツッコミがあるかもしれないが
だからこそ、よけい危険ななのだ
例えば警備会社に悪人がいたら?
セキュリティソフトのプログラマーが悪さをしたら?
今の世の中、純白だった世界もオセロのごとく一瞬で真っ黒にかわってしまうのだ。
核爆弾があらゆるところにしかけられているようなものだ
少数の勝ち組が暮らす閉じた社会の中に限定するならそうした物量作戦も可能なのかもしれない…と、ふと思った。
それが細木氏の望む世界なのだと思ったら背筋が寒くなった。
物量作戦もそうだけど、犯罪に対する量刑を重くしたりするのも対症療法にすぎないと思う。
つまり、みんなは当たり屋をやっているわけではないから賠償がどうとかではなく、そもそも事件と遭遇したくないのだ。
死んでしまったら元も子もないのだから
だって死刑っていう極刑が存在するのに犯罪に走っちゃうっていうのは、やっぱり犯罪者ってのはどこか歪んでしまっているってこと。
学校は防犯も大事だが、本来の役目は教育
歪んだ子供を世の中に送り出さないって使命もあるはずだ。
「他人を見たら変質者と思え」
なんて観念を植え付けられたら、よけい歪んでしまわないだろうか?
そうした他人に対する不信感を植え付けられたまま“負け組”になってしまったモノたちはもちろん犯罪予備軍になる可能性が増えるだろうし、
勝ち組になったらなったで、その不信感は弱者への差別意識と分化していくだろう。
その図式がまた、“負け組”による犯罪を促進しかねないのではないか。
教育機関があるべき方向へ向かえば、減るのは児童殺傷だけではないはず。
あのホリエモン事件だってなかったかもしれないのだ。
そう、オープンな社会だけでなく格差が開かない社会というのも重要になってくる。
って書くと「格差社会のどこが悪い」ってツッコミがあるんだろうけど、それへの反論については、このブログのどっかに書いたはず。
…とエンディングはグダグダになってしまった…
少しのコールドリーディングと
昔ながらの道徳観を語る、わりとまともなシメの言葉とで構成された
平均点で評価するなら、まぁ、こういうのがあってもいいんじゃない?
と、そんな感じで見ていたのだけど
昨年のフジテレビの『25時間テレビ』でホリエモンと顔合わせした時から、このオバちゃんに何かキナ臭さというか、危うい“負のオーラ”のようなものを感じ始めていた。
それは別に後に逮捕されるであろう平成の大ペテン師をもちあげてしまったことではない。
細木氏が「大もうけできる新事業」とホリエモンにアドバイスしたその内容が問題だと感じたのだ
彼女が提示したのは「鍵」だった。
これに対しては、ネットでも物議を醸していたが、その大半は
「細木数子はライブドアを“ドア”を作る会社だと勘違いしている」
とか
「防犯用の鍵ならすでにイスラエルにすごいのを作ってる会社があるのに」
とかいった
細木氏の無知ぶりを笑い飛ばすものがほとんどだった。
でも、おいらは笑ってすませられない恐ろしさを感じてたまった。
「鍵」という発想にだ。
たしかに最近、犯罪が増えたので防犯対策は急務ではある
でも防犯は「鍵」ばかりではないのだ
警備を強化するなどの対症療法的な対応には限界がある
今、必要とされているのは体質改善的な根本療法ではないかってこと
たとえばブロークンウィンドウ理論のように犯罪の発生しにくい町づくりをするということ
それは時には地域ぐるみであったりと個人を超えた単位での参加が不可欠
だから世の中のデザインを変えてしまえるくらいの大企業にこそ
防犯のインフラづくりをするべきなのだ
それを
「きょーび、自分の身は自分で守るしかないんだ」的な「鍵」の販売を提案するというのは、金持ちの個人主義的発想だ。
そう、貧乏人はそんな「鍵」発売されたって買えないのだから。
どっかの大手住宅会社もそんなコピーをほんわかした雰囲気の演出で目くらまししながら防犯住宅のCMしてたけど、そんなの言語同断。
大手建設関連企業は規制ギリギリの弱いモノいじめな脱法的乱開発を繰り広げるマッチョな体力があるなら犯罪のおきにくいまちづくりデザインとかの研究に金使ってくれ。
「所詮、自分の身は自分で守るしかないんだ」的な発想がはびこれば六本木ヒルズだけでなく、そこら中にゲートシティが生まれるだろう。
つまり金持ちの集落は要塞化し、貧乏人は閉め出される。
街のデザイン自体に格差社会が反映されたカタチになる。
もう、「ナイト・オブ・リビングデッド」の世界だ。
小学校の防犯においても今、世の中の意見は二分されているという。
つまり、警備を強化する(誰も入れないようにする)か、
むしろ逆に開放するか?という2つの方法論だ。
開放するというのは、特に身近に子供のいない人にとっては馴染みがない方法論かもしれないが、用は地域ぐるみで顔見知りになるという総下町化な発想だ。
開放化とて完璧とはいえないし、今の世の中、そういう地域活動への参加をめんどくさがる人もいるかもしれない。
でも警備強化の物量作戦はおのずと限界があるし、潜在的な犯罪者を減らすことにはならないのではないか。
現役教師が出演して芸能人と討論するという趣向の番組の中で榊原郁恵が言ってたけど、ギッチリ防犯システム化した小学校だと知らない人に挨拶してくれないけど、開放的(というか従来型でも)なところではちゃんと挨拶してくれる…なんて言ってた。
そういえば小学校んときに
「お客さんにはちゃんと挨拶しましょう(“スリッパはいた人”っていったっけ?)」
っていわれてた気がする。
そして、今年の正月にやっていた特番で細木氏は子供にたいして
「知らない人に挨拶なんかするんぢゃない」
といいはなった。
この時『25時間テレビ』の時から感じてた“危うさが”目の前で正体を現した気がした。
結局のところこの人は「閉じた社会」を作りたいのではないのか?
さっきも言ったように、物量作戦に限界がある。
それは言ってみればマンツーマン・ディフェンス。
極端なハナシ“攻め”の数が半数を超えてしまったら、守りきれない
守るほうはハイテクなどの智恵を駆使するから、必ずしも「1対1ぢゃないよ」ってツッコミがあるかもしれないが
だからこそ、よけい危険ななのだ
例えば警備会社に悪人がいたら?
セキュリティソフトのプログラマーが悪さをしたら?
今の世の中、純白だった世界もオセロのごとく一瞬で真っ黒にかわってしまうのだ。
核爆弾があらゆるところにしかけられているようなものだ
少数の勝ち組が暮らす閉じた社会の中に限定するならそうした物量作戦も可能なのかもしれない…と、ふと思った。
それが細木氏の望む世界なのだと思ったら背筋が寒くなった。
物量作戦もそうだけど、犯罪に対する量刑を重くしたりするのも対症療法にすぎないと思う。
つまり、みんなは当たり屋をやっているわけではないから賠償がどうとかではなく、そもそも事件と遭遇したくないのだ。
死んでしまったら元も子もないのだから
だって死刑っていう極刑が存在するのに犯罪に走っちゃうっていうのは、やっぱり犯罪者ってのはどこか歪んでしまっているってこと。
学校は防犯も大事だが、本来の役目は教育
歪んだ子供を世の中に送り出さないって使命もあるはずだ。
「他人を見たら変質者と思え」
なんて観念を植え付けられたら、よけい歪んでしまわないだろうか?
そうした他人に対する不信感を植え付けられたまま“負け組”になってしまったモノたちはもちろん犯罪予備軍になる可能性が増えるだろうし、
勝ち組になったらなったで、その不信感は弱者への差別意識と分化していくだろう。
その図式がまた、“負け組”による犯罪を促進しかねないのではないか。
教育機関があるべき方向へ向かえば、減るのは児童殺傷だけではないはず。
あのホリエモン事件だってなかったかもしれないのだ。
そう、オープンな社会だけでなく格差が開かない社会というのも重要になってくる。
って書くと「格差社会のどこが悪い」ってツッコミがあるんだろうけど、それへの反論については、このブログのどっかに書いたはず。
…とエンディングはグダグダになってしまった…
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