野田市の南端にある『山崎』という土地でわたしは生まれ育ちました。山崎といっても山岳なんかどこにもないフラットな土地です。今回は地元とは逆方向、野田市の北端を貫いていた路線を乗りつぶした時の記憶を後世に伝えたいと思います。 この路線は、まず路線沿いに母の実家がある、祖母・母・そして小生と3代にわたりこの路線を知る者が身内にいる、という点でわたしにとって極めて思い出深いものです。そして距離・乗車時間ともに長大で、野田市南端の小学生にとっては大変アドベンチャーな路線でした。野田→柏と同じくらい長大な旅でしたが車窓の眺めはこちらの方が好みでした。 平成13年9月、朝日バスによる路線廃止で野田市の歴史から姿を消した路線の一つです。
私が「野田市内の路線バスを乗りつぶしてやるぞっ」と決意し蠢動を始めた昭和56年の春頃というと、現在の野田市北部はまだ「千葉県東葛飾郡関宿町」という名の別の自治体でした。
野田から川間・関宿方面へは「野11 野田市駅~関宿工業団地入口」と「野12 野田市駅~東宝珠花」と番号無しの「境車庫」行きというのがありました。今ある川間駅から関宿に行く朝日バスやまめバスなんて影も形もない時代です。
昭和56年の春すでに“野11”は系統番号が消え茨城ナンバーの境営業所担当となっていました。方向幕、音声テープの案内、現地のバス停ともに“関宿”が取れ、ただの「工業団地入口」でした。よってこれが野11と表記されている走行中の車両を見たことがありません。
今野田市駅のミニストップがあるあたりは当時店もなにも無いかわりに「野田営業所管内バス路線図 昭和55年△月□日現在」と書いた大きな案内板があり、ちゃんと系統番号と関宿工業団地入口までの停留所が記されていました。おそらく昭和55年中か昭和56年4月の営業所から柏の出張所への格下げ時に担当の付け替えがなされたのではないでしょうか。
境から来た車両にはほぼ間違いなく「徳正宗」という茨城の地酒の黄色い看板が取り付けられていました。飲酒運転が社会問題化するよりはるか昔の時代です。
野田の大型方向幕車が幕をくるくる回しているときにもう使わないはずの「野11 関宿工業団地入口」の幕を出していたことがあり、系統表示も加わってその文字の多さに仰天したことがあります。
野田市駅前の乗り場にあった時刻表は白紙にサインペンで書いたような極めて素朴なものがパネルに差し込まれていて、同じ境管轄の岩井車庫行きとは別紙でした。行先欄には「境車庫行き」とあり、工業団地入口で折り返すのではなく北上を続けてそのまま境に帰庫する便の方が多かったように思います。
区間便設定はその工業団地入口止まりのみ。運行本数はほぼ1時間に1本で朝7時台だけ2本出てたような。時代が下り昭和60年の時点では1日17本野田市駅から出ていた、と記録があります。んー、やはりほぼ1時間に1本の割合ですかな。
当時野田市駅発のバス路線で終点までの運賃が最も高かった路線でしたが、それでも500円でお釣りがきました、小児運賃ですけど。
野田市駅の乗り場には「(野11) 諏訪橋・関宿」と書いてありましたが、当時諏訪橋止まりなど一本もなくまた「関宿」という停留所もありませんでした。
野田出張所廃止半年ほど前に発行された『野田市史』にはツーマン時代の諏訪橋・関宿行きがどういう路線だったか当時の運転手や車掌さんがコマゴマと語る記事があります。
3番乗り場から出るこの路線は1番2番乗り場から出る便と違っていきなり貨物線踏切方向へ向かいます。当時はチッキ制度がありましたし東武野田線名物キッコーマンのタンク車が我が物顔で走ってた時代ですから発車したと思ったらすぐ踏切待ち、ということが多々ありました。
野田の営業車は皆「愛宕神社」とアナウンスしてましたが、境営業車と野12系統だけは「愛宕神社前」と言っていてバス停も別場所にありました。
また野田周辺はタバコの産地で「専売公社前」という停留所が愛宕神社前を過ぎてすぐにありましたが平成時代には「清水北」に改称されていました。
朝日バス時代の「清水公園入口バス停」。バス停もファミマもなくなりました。清水公園駅のほど近くの「清水公園入口」が最もよく乗ってくる停留所で、関宿で降りる親子連れがわらわらとよく乗ってきました。乗り待ちのため2分も3分も停車することがあり付近が大渋滞になったことがあります。人が乗ってくるのはここまでで後はもう降りる人ばかりでした。
廃止告知がくくり付けられた「七光台駅入口」バス停。この停留所は詐欺みたいな名前で、駅まで大人の足で10分か15分かかりそうな所にあり、乗降客がいた記憶がありません。梅郷駅にも梅郷駅入口という停留所がありましたが100mほど離れていました。当時野田市内の駅でバスの発着があったのは野田市・愛宕・清水公園の3駅だけです。
この先「蕃昌」で境・工業団地行きと東宝珠花行きとが生き別れとなります。ここまでの間、ポールには境の幅広の時刻表と野12の細い時刻表の2枚が取り付けられていました。
今なおまめバスとして生き残っている「船形入口」バス停は香料工場の脇にあります。当時この辺りの路線バスに空調なんぞありませんから春・夏は窓を開けて走ってます。すると香水だか石鹸だか得体の知れない臭いが車中に入ってきたものです。
次の「火の見下」を「谷津火の見下」と紹介してる資料がありますがこれは誤りで、車中案内も幕式運賃表示器もバス停そのものも「火の見下」だったはずです。なぜこんなに覚えているのかと言うとここで途中下車しておばあちゃんちに小遣いせびりに行ってたからです。本当は次の「川間局前」が一番近いんですが運賃区間の境界を越えて勿体無いのでここで降りて歩いていったんです。お小遣いは気前良く五千円札くれることもありました。しかしながらバスに乗るには小銭が絶対必要になる。当時はコンビニなんてものはない。でどうしたかというと両替もなにもせずにそのまま次のバスに乗り、自分以外の乗客がほぼいなくなり、なおかつ長時間停車してても渋滞の心配がない旧境車庫で3000円の回数券を運転手さんから買うんです。で、びりびり切り離してその場で払って降りる。
だからこの路線は趣味と実益を兼ねて愛用してたんですね。
2016年8月、小学生時代使用していた学習机の引き出しで発見した東武バス境営業所他の回数券。一番右の№18358は最も劣化が進んでいて昭和56、57年に車内購入したものか、と思ったが「東武鉄道自動車事業本部」ではなく「東武鉄道バス事業本部」なので後年のものかも知れない。
その先の「川間ゴルフ場前」というバス停は当時からありましたがゴルフバッグしょって乗り降りしてる人を見たことがありません。また川間の中里の宿場を過ぎてからこのあたりまでは熊野古道ばりに鬱蒼たる深い木々に覆われ昼だか夜だかわからない暗がりを貫くクネっと曲がった一本道で、山賊か追いはぎが出てきてもおかしくない。改めて今年川間駅から東宝珠花行きの朝日バスに乗って見に行ったところ相変わらずの真っ暗野道だったので「うむ、森の生態系が守られておるな」と逆に安心しました。
ところで昭和30年代地元の川間小学校では「あの道は危ないから子供だけで通らないように」と周知されていたそうです。 「力道山が川間ゴルフ場に来てる」とのデマが川間に流れたことがあり、母と叔母は近所の悪童と一緒に中里からゴルフ場までこの道を走って見に行ったところ担がれたとわかり、ゴルフ場から歩いて引き返そうとしました。ところがすでに日が暮れており、心配したゴルフ場のおばちゃんが「誘拐されないように」と、このバス停で一緒にバスを待ってくれたうえに運賃も肩代わりしてもらって帰ったことがあったそうです。このせいか知りませんが叔母は高卒後、東武の観光バスガイドやってました。
さて、ここから先がいよいよ千葉県屈指の秘境の名をほしいままにして名宰相鈴木貫太郎を世に送り出したという、泣く子も黙る関宿町ですが、野田市駅から川間駅に発駅を一本化した朝日バスの精力的な運行とバスターミナルの開設で比較的楽に行けるようになりました。それでは、楽に行けなかった昭和56、57年頃に小学生が一人で行ったらどうだったか、次回お話ししたいと思います。