いろいろと国会を騒がせ海外メディアにまで登場するほどの有名人となった某東京五輪担当大臣は千葉県柏市が選出選挙区なのだそうです。
わたくしの子供の頃は小選挙区制などありませんから柏も野田も同一の選挙区でした。
当選者は毎回のように野田市川間の染谷誠氏と同木野崎の新村勝男氏のコンビで決まっていて、
小学校への通学路途上のあちこちの電柱にはこの二人しかポスターが貼られていないので、他市の人は立候補していないのだと思っていました。
ところで東京五輪担当の某大臣の地盤、柏市田中という土地はその名の通り田んぼのど真ん中にありそうな
素朴で美しい所ですが柏市のバス路線網の開拓者、栄自動車株式会社のオーナー、吉田甚左衛門氏が本拠とした所でもあります。
吉田氏の旧宅は茅葺きの古民家でなんと黒船来航の同年に建てられたという
大きな歴史的価値を有する建築物であることから重要文化財になっています。
過日わたくしも柏駅からバスに揺られて見て参った次第です。
しかしながら建築学の知識など微塵も持ち合わせていないわたくしが当地を訪れた主目的は残念ながらそれではなく
柏市に合併する以前に存在した旧田中村の村社「花野井香取神社」を訪れることでした。
この神社は以前申し上げた水堰橋に通ずる千葉県道に面していて、柏03と柏14の東武バスのバス停があります。
ここは柏市ですがわたくしの小学生時代はどちらも野田営業所管内の路線でした。
柏03は柏とは名ばかりで柏営業所のバスに乗って路線図を見ても影も形もなく、
かたや野田出張所の路線図には太い線でしっかり書いてあるという路線でした。
野田車庫に漂う醤油の匂いを車体の鋼板の一枚一枚にまで丁寧に染み込ませた野田のバスが
柏餅の葉っぱで正体を隠して走っているような路線なので乗り込んで車内を見回せば
「梅郷カントリー」やら「霊波の光」「はんこの晴山堂」「キノエネ醤油」といった野田の事物の広告だらけで、
柏のものといえば国道6号沿いにあった柏平安閣とプリンスなんとかというキャバレーくらいしか記憶にありません。
野田の東武バスは野田橋を渡って埼玉県にも行っていましたから「パパの株が上がります」という
不思議なキャッチフレーズの埼玉の不動産屋とか越谷のどこかの霊園墓地もありました。
柏の人がどんな思いで遠い遠い埼玉の不動産情報を見ていたのか、野田のわたくしには推し量る術がございません。
しかしかような路線をわたくしは愛した。
それは野田など歯牙にもかけず日々を過ごしている他市の人々が
自分の生まれ育った故郷のバス路線をよりどころとしている光景を目の当たりにして、
もっともっといっぱいっぱい野田のバスに乗りたいという単純でしかし大きな思いが小学生の小さい胸の内に湧き上がってきたからに他なりません。
柏周辺にモータリゼーションの脅威が訪れようとしていた昭和42年の資料によると柏~野田線の路線の定時所要時間は70分ないし65分となっていて
柏~流山~草加線、柏~増尾~酒井根~柏線の60分をしのいでいます。
営業キロ22.6、21.3は柏~大広戸間の20.0をしのぎ柏市内の全路線中最長を誇っています。
22.6キロの方の「松崎」というのは柏市内線の「松崎循環」と野田の「木野崎」を混同した誤植ですが、
わたくしがバス沼にはまった頃には野06木野崎経由大利根温泉ゆきに転化していて柏03というと灰毛経由か柏市立高校止まりしかありません。
現今の柏13の原初形態である電建第一住宅経由はまだこの世に生まれていません。
なおこれら各線は昭和47年の駅東口再開発で東口から西口へ発着点を移動しています。
わたくしが路線バスに傾倒していた昭和50年代後半ともなればこの路線は名状しがたいほどの遅延を伴うのが常で、
夏休みに野田市駅から乗るときには水分補給のため駅前の「豊田商店」の自販機で買った缶ジュース1本、
ときには2本を背中に負ったナップザックに放り込んでから乗るのがわたくしの儀式になっていました。
当時自販機にも冷蔵機能が付いていましたがジュースの売価はバスの初乗りよりも高い一本80円で、
バスと異なり小児価格なんかあるわけありませんからそれは痛い出費でした。
柏に着いたらそごうか高島屋で1/100のガンプラ買おうなどと計画していた時もあって、
森友学園に国有地売っ払った財務省に比べればよっぽど正確に予算を組んで柏03に乗っていたものです。
ちなみに歳入はノート買うとか計算ドリル買うとか大ボラ吹いて川間のばあちゃんから詐取したお小遣いですが
親族間なので佐川ナントカさんみたいに刑事訴追の恐れはありません。
前述の所要時間の記憶には若干注釈が必要で、確かに野田から柏に行くには遅延がありましたが、
復路はほぼ定時に、あるいは今だから言えることでしょうが表定より早く着くこともありました。
前回復元してみた路線図でいうと、今も昔も同じ名前で存在するバス停「布施入口」。
できたてほやほやの新大利根大橋からなだれ込んでくる一般車のせいでここからがもうどうしようもなかった。
午前中だと東南からの太陽光がじりじり車内を炙る、冷房がなく窓全開にしても車が動かないので微風一つ入ってきやしない、
オンボロ東武バスの車内の客はさながら地獄焼きにされた鮑の如くで、オタク席でジュースを取り出すのもこの辺でした。
野田へ戻るほうは逆にここを過ぎればせいぜい柏北高の部活にいく高校生の兄ちゃん姉ちゃんの客降ろしに時間を要した小青田とか
妙にマイカーが多かった田中農協のあたりらへんでややグズつく程度でスムーズに走れます。
なお柏北高校へ直接向かう路線は当時まだ存在していません。その後せっかく路線ができたのに今では高校自体がなくなってしまいました。
私の母校と同じような制服の学校さんで高校時代によく乗り合わせたものです。
というようなのがわたくしの脳裏に残る昭和時代の柏03野田市駅~柏駅西口線の姿なのですが、
途中下車したくないのに途中下車せざるを得なかったバス停が一つあります。それが花野井神社なのです。
途中下車した理由は非常に単純明快で「バスの中でオシッコが我慢できなくなった」というだけなので
どこの停留所でもよかったのですが我慢の限界がたまたまここで訪れたわけです。
柏における最長距離最長時間の路線ですからとても野田に着くまで膀胱が耐えられそうもありません。
休養して膀胱全摘手術するにはまだ幼すぎます。
昭和時代もここで乗降する人がいましたが、このご婦人のように柏駅とは反対方向のバスを待つ人などまず見かけませんでした。
柏駅以外で柏03野田市駅ゆきのバス待ちがいるのは北柏駅入口は置いておくとして、通常は水堰橋を越えて野田市内に入ってからであって、
柏市内で見た記憶など皆無と申し上げて差し支えない。
現在は北方に柏たなか駅が存在するのでこういう利用者の方もいるようで「そういう時代になったんだ」と感慨深いものがありました。
柏ゆきには必ず方向幕に柏高島屋のロゴが入りますが逆方向の路線には決して入っていません。
冒頭の私お手製の小汚いイラストのように行先だけが書いてあるのです。
野田行きのバスから降りると目の前に吉田酒店という「沢の鶴」とか清酒の看板を掲げた黒い瓦屋根の酒屋が1軒ポツっとあって
たいそう背の低い建物なので太陽が県道の路面をギラギラ照らしてかげろうのようなものまで見えたのを覚えていますが、
現在は何らかの老人施設の入った背の高いマンションになってしまっています。
TXのない時代には森と畑しか見えなかったこんなところにマンションが建つなど想像することすらできませんでした。
バス停のポジションは現在地よりもちょっと北、すなわち吉田酒店の真ん前に立っていました。
すぐ隣の「直井ふとん店」はまったく同じ屋号で昭和時代にもやはりこの場所に建っていました。
酒屋の向かいにはバス停名の由来となった花野井香取神社の鳥居が聳えており、どうせ立ちしょんするなら神社でしようと行ったわけです。
小便避けに鳥居が描かれていることが多々ありますがわたくしには通用しなかったのです。
そんなに奥まで歩いて行けるほど我慢できないのでたしかこの狛犬の物陰で粗相したと思います。
尿素バスなどまだ夢のまた夢の時代です。
ところがこの神社の一画には駐在所が当時あって確か田中駐在所だかそんな名前であったろうと思います。
幸い狛犬は駐在所の裏にあるので気づかれずに済みました。
駐在所と先の吉田酒店との間には非常に面白い対比があって、酒店のほうには「辛口一献」とか飲酒を勧めるポスターがべたべたとあるのですが
道路を挟んだ反対側の駐在所には赤い字で「酒は飲んでも飲まれるな」という標語があったのです。
なんでもないことのようですが子供のわたくしにはコメディを見ているようなおかしみが強く感じられました。
現在はどこかに移転したか廃所されたかで何やら駐輪場のようなものに変わっています。
この神社に『算額』があることは柏市内の高校に通っているときに教師に言われて知りました。
3・4・5がピタゴラス数であることを知らない時代の人が3辺の長さの和が12になる直角三角形の斜辺の長さを
初等幾何を使ってやっさもっさと解いた、ということらしいです。
下の運算よりも上にある漢文の読解の方がよっぽど難しい問題です。
この神社の奥というか脇には神社がスペースを提供して出来た「こどものあそびば」があります。柏市役所のこの注意書きは当時なかったと思います。
わたくしがオシッコを済ませてバス停に戻ろうとすると何やら子供の遊ぶ声がするので「ナンダ?ナンダ?」と恐る恐る近寄っていったあの日、
全て手書きの平仮名で「こどものあそびば」と記された木製立て看板があったのを覚えています。
ゴム飛びのような遊びをする自分より年少と思われる女の子数人、地面に転がる石を拾っては「はいっ」と言って母親に見せるという
不思議な遊びをしている幼児がいました。
「この子らに立ちしょん覗き見されたんじゃなかろうか、駐在さんに通報されたらヤバイっ、さっさと帰ろう」と立ち去りましたが、
小学生時代の原風景の一コマとして野田出張所時代の柏03の記憶とともに今も脳裏に浮かんでくる特別な神社なのです。
遊び場のそばには柏03ではなく柏レイソルの黄色いバスがいました。
昭和時代の柏03の思い出は無尽蔵といっていいほどまだまだあります。次回またお話ししたいと思います。
わたくしの子供の頃は小選挙区制などありませんから柏も野田も同一の選挙区でした。
当選者は毎回のように野田市川間の染谷誠氏と同木野崎の新村勝男氏のコンビで決まっていて、
小学校への通学路途上のあちこちの電柱にはこの二人しかポスターが貼られていないので、他市の人は立候補していないのだと思っていました。
ところで東京五輪担当の某大臣の地盤、柏市田中という土地はその名の通り田んぼのど真ん中にありそうな
素朴で美しい所ですが柏市のバス路線網の開拓者、栄自動車株式会社のオーナー、吉田甚左衛門氏が本拠とした所でもあります。
吉田氏の旧宅は茅葺きの古民家でなんと黒船来航の同年に建てられたという
大きな歴史的価値を有する建築物であることから重要文化財になっています。
過日わたくしも柏駅からバスに揺られて見て参った次第です。
しかしながら建築学の知識など微塵も持ち合わせていないわたくしが当地を訪れた主目的は残念ながらそれではなく
柏市に合併する以前に存在した旧田中村の村社「花野井香取神社」を訪れることでした。
この神社は以前申し上げた水堰橋に通ずる千葉県道に面していて、柏03と柏14の東武バスのバス停があります。
ここは柏市ですがわたくしの小学生時代はどちらも野田営業所管内の路線でした。
柏03は柏とは名ばかりで柏営業所のバスに乗って路線図を見ても影も形もなく、
かたや野田出張所の路線図には太い線でしっかり書いてあるという路線でした。
野田車庫に漂う醤油の匂いを車体の鋼板の一枚一枚にまで丁寧に染み込ませた野田のバスが
柏餅の葉っぱで正体を隠して走っているような路線なので乗り込んで車内を見回せば
「梅郷カントリー」やら「霊波の光」「はんこの晴山堂」「キノエネ醤油」といった野田の事物の広告だらけで、
柏のものといえば国道6号沿いにあった柏平安閣とプリンスなんとかというキャバレーくらいしか記憶にありません。
野田の東武バスは野田橋を渡って埼玉県にも行っていましたから「パパの株が上がります」という
不思議なキャッチフレーズの埼玉の不動産屋とか越谷のどこかの霊園墓地もありました。
柏の人がどんな思いで遠い遠い埼玉の不動産情報を見ていたのか、野田のわたくしには推し量る術がございません。
しかしかような路線をわたくしは愛した。
それは野田など歯牙にもかけず日々を過ごしている他市の人々が
自分の生まれ育った故郷のバス路線をよりどころとしている光景を目の当たりにして、
もっともっといっぱいっぱい野田のバスに乗りたいという単純でしかし大きな思いが小学生の小さい胸の内に湧き上がってきたからに他なりません。
柏周辺にモータリゼーションの脅威が訪れようとしていた昭和42年の資料によると柏~野田線の路線の定時所要時間は70分ないし65分となっていて
柏~流山~草加線、柏~増尾~酒井根~柏線の60分をしのいでいます。
営業キロ22.6、21.3は柏~大広戸間の20.0をしのぎ柏市内の全路線中最長を誇っています。
22.6キロの方の「松崎」というのは柏市内線の「松崎循環」と野田の「木野崎」を混同した誤植ですが、
わたくしがバス沼にはまった頃には野06木野崎経由大利根温泉ゆきに転化していて柏03というと灰毛経由か柏市立高校止まりしかありません。
現今の柏13の原初形態である電建第一住宅経由はまだこの世に生まれていません。
なおこれら各線は昭和47年の駅東口再開発で東口から西口へ発着点を移動しています。
わたくしが路線バスに傾倒していた昭和50年代後半ともなればこの路線は名状しがたいほどの遅延を伴うのが常で、
夏休みに野田市駅から乗るときには水分補給のため駅前の「豊田商店」の自販機で買った缶ジュース1本、
ときには2本を背中に負ったナップザックに放り込んでから乗るのがわたくしの儀式になっていました。
当時自販機にも冷蔵機能が付いていましたがジュースの売価はバスの初乗りよりも高い一本80円で、
バスと異なり小児価格なんかあるわけありませんからそれは痛い出費でした。
柏に着いたらそごうか高島屋で1/100のガンプラ買おうなどと計画していた時もあって、
森友学園に国有地売っ払った財務省に比べればよっぽど正確に予算を組んで柏03に乗っていたものです。
ちなみに歳入はノート買うとか計算ドリル買うとか大ボラ吹いて川間のばあちゃんから詐取したお小遣いですが
親族間なので佐川ナントカさんみたいに刑事訴追の恐れはありません。
前述の所要時間の記憶には若干注釈が必要で、確かに野田から柏に行くには遅延がありましたが、
復路はほぼ定時に、あるいは今だから言えることでしょうが表定より早く着くこともありました。
前回復元してみた路線図でいうと、今も昔も同じ名前で存在するバス停「布施入口」。
できたてほやほやの新大利根大橋からなだれ込んでくる一般車のせいでここからがもうどうしようもなかった。
午前中だと東南からの太陽光がじりじり車内を炙る、冷房がなく窓全開にしても車が動かないので微風一つ入ってきやしない、
オンボロ東武バスの車内の客はさながら地獄焼きにされた鮑の如くで、オタク席でジュースを取り出すのもこの辺でした。
野田へ戻るほうは逆にここを過ぎればせいぜい柏北高の部活にいく高校生の兄ちゃん姉ちゃんの客降ろしに時間を要した小青田とか
妙にマイカーが多かった田中農協のあたりらへんでややグズつく程度でスムーズに走れます。
なお柏北高校へ直接向かう路線は当時まだ存在していません。その後せっかく路線ができたのに今では高校自体がなくなってしまいました。
私の母校と同じような制服の学校さんで高校時代によく乗り合わせたものです。
というようなのがわたくしの脳裏に残る昭和時代の柏03野田市駅~柏駅西口線の姿なのですが、
途中下車したくないのに途中下車せざるを得なかったバス停が一つあります。それが花野井神社なのです。
途中下車した理由は非常に単純明快で「バスの中でオシッコが我慢できなくなった」というだけなので
どこの停留所でもよかったのですが我慢の限界がたまたまここで訪れたわけです。
柏における最長距離最長時間の路線ですからとても野田に着くまで膀胱が耐えられそうもありません。
休養して膀胱全摘手術するにはまだ幼すぎます。
昭和時代もここで乗降する人がいましたが、このご婦人のように柏駅とは反対方向のバスを待つ人などまず見かけませんでした。
柏駅以外で柏03野田市駅ゆきのバス待ちがいるのは北柏駅入口は置いておくとして、通常は水堰橋を越えて野田市内に入ってからであって、
柏市内で見た記憶など皆無と申し上げて差し支えない。
現在は北方に柏たなか駅が存在するのでこういう利用者の方もいるようで「そういう時代になったんだ」と感慨深いものがありました。
柏ゆきには必ず方向幕に柏高島屋のロゴが入りますが逆方向の路線には決して入っていません。
冒頭の私お手製の小汚いイラストのように行先だけが書いてあるのです。
野田行きのバスから降りると目の前に吉田酒店という「沢の鶴」とか清酒の看板を掲げた黒い瓦屋根の酒屋が1軒ポツっとあって
たいそう背の低い建物なので太陽が県道の路面をギラギラ照らしてかげろうのようなものまで見えたのを覚えていますが、
現在は何らかの老人施設の入った背の高いマンションになってしまっています。
TXのない時代には森と畑しか見えなかったこんなところにマンションが建つなど想像することすらできませんでした。
バス停のポジションは現在地よりもちょっと北、すなわち吉田酒店の真ん前に立っていました。
すぐ隣の「直井ふとん店」はまったく同じ屋号で昭和時代にもやはりこの場所に建っていました。
酒屋の向かいにはバス停名の由来となった花野井香取神社の鳥居が聳えており、どうせ立ちしょんするなら神社でしようと行ったわけです。
小便避けに鳥居が描かれていることが多々ありますがわたくしには通用しなかったのです。
そんなに奥まで歩いて行けるほど我慢できないのでたしかこの狛犬の物陰で粗相したと思います。
尿素バスなどまだ夢のまた夢の時代です。
ところがこの神社の一画には駐在所が当時あって確か田中駐在所だかそんな名前であったろうと思います。
幸い狛犬は駐在所の裏にあるので気づかれずに済みました。
駐在所と先の吉田酒店との間には非常に面白い対比があって、酒店のほうには「辛口一献」とか飲酒を勧めるポスターがべたべたとあるのですが
道路を挟んだ反対側の駐在所には赤い字で「酒は飲んでも飲まれるな」という標語があったのです。
なんでもないことのようですが子供のわたくしにはコメディを見ているようなおかしみが強く感じられました。
現在はどこかに移転したか廃所されたかで何やら駐輪場のようなものに変わっています。
この神社に『算額』があることは柏市内の高校に通っているときに教師に言われて知りました。
3・4・5がピタゴラス数であることを知らない時代の人が3辺の長さの和が12になる直角三角形の斜辺の長さを
初等幾何を使ってやっさもっさと解いた、ということらしいです。
下の運算よりも上にある漢文の読解の方がよっぽど難しい問題です。
この神社の奥というか脇には神社がスペースを提供して出来た「こどものあそびば」があります。柏市役所のこの注意書きは当時なかったと思います。
わたくしがオシッコを済ませてバス停に戻ろうとすると何やら子供の遊ぶ声がするので「ナンダ?ナンダ?」と恐る恐る近寄っていったあの日、
全て手書きの平仮名で「こどものあそびば」と記された木製立て看板があったのを覚えています。
ゴム飛びのような遊びをする自分より年少と思われる女の子数人、地面に転がる石を拾っては「はいっ」と言って母親に見せるという
不思議な遊びをしている幼児がいました。
「この子らに立ちしょん覗き見されたんじゃなかろうか、駐在さんに通報されたらヤバイっ、さっさと帰ろう」と立ち去りましたが、
小学生時代の原風景の一コマとして野田出張所時代の柏03の記憶とともに今も脳裏に浮かんでくる特別な神社なのです。
遊び場のそばには柏03ではなく柏レイソルの黄色いバスがいました。
昭和時代の柏03の思い出は無尽蔵といっていいほどまだまだあります。次回またお話ししたいと思います。