特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

バス停「流山広小路」と京成バスの思い出

2017年10月13日 00時01分30秒 | 旅行

今年も例年千葉・幕張で開催される京成バスフェスティバルが近づいてまいりました。

以前野07 流山駅前線のお話をいたしました。
バスに乗ることに夢中になっていた小学生当時住んでいた家が
野07のバス停のすぐ近くにあり野田に東武バスがいた時代に最も乗車回数の多い路線であったろうと思います。

この路線は終点流山駅前に到着する前に「流山広小路」という停留所を経由していました。
その停留所には際立った特徴がありました。



「文化会館入口」という大昔からある停留所を超えるとこのような交差点があります。
東武バスはこの交差点を右折していました。


沿道には歴史を感じさせる建物がズラズラと見えてきます。


やがてまた信号機のある三叉路があります。
「広小路」とは道幅を拡幅された部分を指す言葉だそうですが、この交差点はちょっと広くなっていますね。
ここが流山広小路で上野の広小路と同じように道幅が広くなっています。
ただし昭和の昔は信号機などありません。

流山市は広小路を含む流山旧市街を観光整備してますので
道路が幅広くても車道は決して広げず歩道を広くしているのです。これは素晴らしい。
これが知恵の足りない野D市もとい、N田市に同じことやらせると絶対車道広げて歩道を無くしちゃいますよ。


さて、この交差点左に木造の板塀が見えますね。
わたくしの記憶によるとここは「歯科 須賀」と書いた白い縦長の看板を入口においた病院さんで、
塀にもたれかかるように東武バスのバス停「流山広小路」がボソッとありました。
バス停の色はもちろんオレンジ一色でした。

その向かいから奥へずれた明るい木目壁に黒いシャッターが降りているお建物。

そのまたちょっとこちら側に当時暗い色の建物があり35年ほど前の昭和の昔、
京成バスの「流山広小路」停留所の真っ白いポールが直前に立っていました。
東武と違って行先の文字が縦に書かれていて白い円盤に黒文字で「松戸駅」と書かれていました。
ここは今もある松戸駅~江戸川台駅間の京成バスの区間折返点になっていた所で、
ネット検索すれば「流山広小路」の方向幕の昔の京成バスの画像が出てきますね。


奥の家紋のある商家はTVで流山が取り上げられると必ず出てくる市内随一の老舗「新川屋呉服店」です。

わたくしがこの画像を撮りに行ったときは帰宅ラッシュにさしかかっていて車が多く見えますが、
当時は一般車との行き違いなぞ無かったと思います。

通りを挟んで色の違うバス停が立っている光景は今思えば貴重なものではなかったろうか、と思う次第です。

(『流山めぐりあい案内』昭和56年 流山市役所 崙出版)
新川屋のもっと先、カーブに頭から突っ込んで停まってるセダンの右の
速度制限と駐車禁止標識のさらに右に黒い樹木と暗いブロック塀を背景に
白く地面からそそり立つものがあります。
これが京成バスの流山広小路バス停です。


昭和56~57年、野田市駅を出る東武バスに14:05発 野07系統 流山駅前行というのがありました。
1日数本あるうちのこの1本だけは終点まで乗ると流山広小路に停車中の京成バスを見ることができました。
他の便は時間が合わなかったかで見ることができた記憶はありません。

野07に乗るときに必ずこの便を選んでいたというわけではありませんでしたが、
学校が半ドンの土曜日など「お昼食べたら14時台の流山行きに乗って流山から駅の反対側から出ている柏07で柏へ行き
そごうか高島屋でガンプラ買ったら柏03で野田へ帰ろう」という行程パターンの日が少なからずありました。

 ここで見かけた京成バスは幅の狭い方向幕、白い天井にベンチレータがちょこちょこ付いているさま、
方向幕の隣に通風孔があることなどは野田市駅前にたむろする東武バスと同じでした。

しかしながらその方向幕に系統番号は無く、ミラーバーの曲がり具合、前照灯ヘゼル、「ワンマン」表示板が東武とは逆に白地に緑であったことなど
野田ではついぞ見たことのない風采をしておりました。

 東武バスの前面ガラスを通してオタク席の小学生の目に飛び込んでくる京成バスが放つオーラは、
船戸木戸で見かけた阪東バス、あるいは北越谷で見かけた茨急といった廉価版東武バスの微弱なオーラとは全く違います。

 野田から遠く離れた所を走る一大鉄道会社のバスであることは野田の小学生にも知識としてありましたから、
まあなんと申しましょうか、あたかも流山・松戸を治めるバスの支配者のような巨大な力が感ぜられ、
京成バスの営業エリアを守る関所の番人のようにも見えました。

 京成の運転士さんは東武よりも紺の色味の強い、もしかすると黒だったかも知れない濃い色の制服を着ていて、
ハンドルを握ってじっと時間を待っている態な人が多かったのですが、
中には車外で紫煙をくゆらせながら「こいつは驚いた、なんとこの東武バスは餓鬼を乗せてやがる」という感じで車内のわたくしをまじまじ見つめる人もいました。
また大げさな、と思われるかも知れませんが子供という生き物は大人達の感情に大変敏感な生き物です。

京成の停留所は2004年に廃止、東武のはそれより以前に無くなってしまいました。


主観的な記憶を色々書きましたが、
流山の京成バスについては記録を辿るばかりで記憶を語る方が見受けられませんでしたので、
年に一度の京成バスの大祭を控え、流山・松戸の皆様のバスの思い出の足しになればと思います。



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