本日10月7日から始まった野田市の郷土博物館特別企画展『鉄道と野田』を見てまいりました。
わたくしは幼い頃昼12時台の野田市駅発の東武バスに乗れば必ず貨物線踏切でかいま見ることができた
キッコーマン社私有タンク貨車を楽しみに博物館を訪れたのですが、
残念ながらありませんで、ごくわずかに地元の画家の人が野田市貨物線を描いた油絵にタンク車の像があるきりでした。
また、この企画展は名の通り鉄道、東武野田線の前身「総武鉄道」に焦点を当てていて学芸員解説も当然、鉄道に特化したものでしたが、
わずかながら野田市の古い路線バスに関する資料もありました。
昭和10年代作成の総武鉄道沿線案内に紹介されているハイキングコース。
赤の太線がハイキングコースで同色細線がバス路線です。
水堰橋から野田町・柏への路線、野田町から流山へ向かう、
あるいは陸続きの関宿へ、江戸川を越えて越谷へ、
はたまた小山の渡しで利根川を横断し岩井へ向かう路線が描画されてますね。
西板戸井とか大木の渡しとか関鉄バスエリアの人には覚えのある地名があります。
昭和11年の野田町駅乗合自動車時刻表。
「町内線」は野田町駅~野田橋間とありますが、町内のどこを走って野田橋へ達していたのか分かりません。
右隣に「境線」とあります。
わたくしは野田から境町への路線ができたのは戦後であろうと思っていましたが、しっかり『境町』の発着時刻が記されています。
停留所「境町」は東武に買収される前の旧茨城急行の本社地でもあったのですが、この路線は総武鉄道社により営業されていたそうです。
町内線以外の路線を図示するとこんな感じです。
境町に行くには『境橋』という舟橋、すなわち横並びの舟の上に板を渡してあり、
橋の手前で客が降ろされとぼとぼ橋を渡る乗客の後ろをバスがモタクサ徐行して付いていく、
という平成生まれの人が見たら恐怖の対象以外でもなんでもない橋があったわけですが
そんなスタイルのバス路線が戦前から運行されていたとは知りませんでした。
この路線には「寶珠花」折り返しがあります。当時の宝珠花河岸、現在の「宝珠花上町」バス停に相当します。
興味深いことに戦後は野田愛宕神社発だった流山線の起点が「清水公園」になっています。
清水公園は桜の名所なので花見時には野田市近傍のみならず野田市駅発長距離線の終点、南千住からも臨時バスがきていたようです。
岩井線に「目吹廻り」「小山廻り」の2線があります。
「目吹廻り」は野田町に隣接していた「旭村」村役場を経由するもので
後年の野08 紫ゴルフ場線にあった停留所「畔谷」と「鹿島原」を通るものでした。
岩井線の欄をよく見ると、小山廻りの午前早い時間帯の岩井発時刻に原所有者の手になる○が付いています。
持ち主は岩井か経由地の川間村の人だったのでしょう。
埼玉県幸手へ向かう幸手線とやらは今日はじめて知ったもので一体どんなルートだったのか全然見当がつきません。
右端の「越ケ谷線」が最も多頻度ですが、行先が越ケ谷ではなく「雷門」となっています。浅草まで行ってたんですね。
野田下町交差点にあった総武自動車・越ケ谷線のバスのりば。
ほどなく野田市駅前に収斂されて現在は砂利敷の駐車場のようなスペースになっています。
これは戦後、昭和26年のバス時刻表。
水堰橋線が無くなった代わりに柏まで貫通しています。
また境町へ行く路線が消えて「関宿行き」となり「二川止り」という区間折返が設けられています。
目吹経由で岩井へ行く路線も無くなり目吹止まりになっています。
戦前の流山線が京成との共同運行開始で松戸行きとなっています。
キノエネ醤油山下家の縁戚だったかの小津安二郎監督が野田愛宕神社から乗って撮影所通いに使った路線です。
右に書かれた種々の商店名は地元の人間なら「おぉっ」と思わずうなる懐かしい名前もあります。
バスに関しては以上のようなものですが、鉄道については詳解されていて戦前から野田車庫が駅前にあったことが分かったりして
面白いのでぜひ野田へお立ち寄りいただきたいと思います。
パンフ800円です。かつての東武バス、岩井車庫~北越谷駅間を全線乗り通した運賃よりは幾分お安くなっています。
わたくしは幼い頃昼12時台の野田市駅発の東武バスに乗れば必ず貨物線踏切でかいま見ることができた
キッコーマン社私有タンク貨車を楽しみに博物館を訪れたのですが、
残念ながらありませんで、ごくわずかに地元の画家の人が野田市貨物線を描いた油絵にタンク車の像があるきりでした。
また、この企画展は名の通り鉄道、東武野田線の前身「総武鉄道」に焦点を当てていて学芸員解説も当然、鉄道に特化したものでしたが、
わずかながら野田市の古い路線バスに関する資料もありました。
昭和10年代作成の総武鉄道沿線案内に紹介されているハイキングコース。
赤の太線がハイキングコースで同色細線がバス路線です。
水堰橋から野田町・柏への路線、野田町から流山へ向かう、
あるいは陸続きの関宿へ、江戸川を越えて越谷へ、
はたまた小山の渡しで利根川を横断し岩井へ向かう路線が描画されてますね。
西板戸井とか大木の渡しとか関鉄バスエリアの人には覚えのある地名があります。
昭和11年の野田町駅乗合自動車時刻表。
「町内線」は野田町駅~野田橋間とありますが、町内のどこを走って野田橋へ達していたのか分かりません。
右隣に「境線」とあります。
わたくしは野田から境町への路線ができたのは戦後であろうと思っていましたが、しっかり『境町』の発着時刻が記されています。
停留所「境町」は東武に買収される前の旧茨城急行の本社地でもあったのですが、この路線は総武鉄道社により営業されていたそうです。
町内線以外の路線を図示するとこんな感じです。
境町に行くには『境橋』という舟橋、すなわち横並びの舟の上に板を渡してあり、
橋の手前で客が降ろされとぼとぼ橋を渡る乗客の後ろをバスがモタクサ徐行して付いていく、
という平成生まれの人が見たら恐怖の対象以外でもなんでもない橋があったわけですが
そんなスタイルのバス路線が戦前から運行されていたとは知りませんでした。
この路線には「寶珠花」折り返しがあります。当時の宝珠花河岸、現在の「宝珠花上町」バス停に相当します。
興味深いことに戦後は野田愛宕神社発だった流山線の起点が「清水公園」になっています。
清水公園は桜の名所なので花見時には野田市近傍のみならず野田市駅発長距離線の終点、南千住からも臨時バスがきていたようです。
岩井線に「目吹廻り」「小山廻り」の2線があります。
「目吹廻り」は野田町に隣接していた「旭村」村役場を経由するもので
後年の野08 紫ゴルフ場線にあった停留所「畔谷」と「鹿島原」を通るものでした。
岩井線の欄をよく見ると、小山廻りの午前早い時間帯の岩井発時刻に原所有者の手になる○が付いています。
持ち主は岩井か経由地の川間村の人だったのでしょう。
埼玉県幸手へ向かう幸手線とやらは今日はじめて知ったもので一体どんなルートだったのか全然見当がつきません。
右端の「越ケ谷線」が最も多頻度ですが、行先が越ケ谷ではなく「雷門」となっています。浅草まで行ってたんですね。
野田下町交差点にあった総武自動車・越ケ谷線のバスのりば。
ほどなく野田市駅前に収斂されて現在は砂利敷の駐車場のようなスペースになっています。
これは戦後、昭和26年のバス時刻表。
水堰橋線が無くなった代わりに柏まで貫通しています。
また境町へ行く路線が消えて「関宿行き」となり「二川止り」という区間折返が設けられています。
目吹経由で岩井へ行く路線も無くなり目吹止まりになっています。
戦前の流山線が京成との共同運行開始で松戸行きとなっています。
キノエネ醤油山下家の縁戚だったかの小津安二郎監督が野田愛宕神社から乗って撮影所通いに使った路線です。
右に書かれた種々の商店名は地元の人間なら「おぉっ」と思わずうなる懐かしい名前もあります。
バスに関しては以上のようなものですが、鉄道については詳解されていて戦前から野田車庫が駅前にあったことが分かったりして
面白いのでぜひ野田へお立ち寄りいただきたいと思います。
パンフ800円です。かつての東武バス、岩井車庫~北越谷駅間を全線乗り通した運賃よりは幾分お安くなっています。