諏訪神社の大祭が近づいてまいりました。
さて、キョンキョンの歌を独唱して恥ずかしい思いをしたわたくしを乗せてお粗末な舗装の
諏訪道のガタガタ道を走るモノコックバスは、ようようにして柏市から流山市へと入りました。
市境を示す流山市の標識は昔は横書きでもっと低い位置にありました。
カーブにある看板が水色の三栄設備工業は小学生当時もありました。
看板はこれほど大きくなかったと思いますが、建物の輪郭があの頃バスから見たのと
変わっておらず、バス路線が無くなった今なお健在なのを見ると
久方ぶりに故郷に帰って来たようなノスタルジーで胸がじわじわ熱くなってまいります。
右側の鳥おやじとかいう店は全く存在せず、ただの雑木林だったと思います。
三栄設備工業は樹木に挟まれておりあたかも木こり小屋のように見えました。
焼鳥屋とは反対側の空き地もまたただの森のように見えましたが
崙書房によると実は大変な有力者のお屋敷があったそうで今更ながら驚いております。
「この鈴木家は旧家で、鈴木歳太郎氏は八木村の村長をしたが、昭和五十五年七月、八十七歳で世を去った。
豊四季駅まで他人の土地を踏まないで行けたという大地主であったが、農地解放でそのほとんどを失った」。
「『流山研究におどり第7号 特集諏訪道・一茶道・ふるさとの道』山本鉱太郎 崙書房出版」
柏07は諏訪神社前から流山までずっと諏訪道を通っていたのですが崙書房の諏訪道に関する種々の紀行文を読むと
どうしたことか柏市域の諏訪神社前~稲荷前間の記述が非常に少ない。
ところが稲荷前~流山間の流山市域になるとぐっと文章が増えてきますので
今回はこれまで以上に崙書房の紀行文を多数引用したいと思います。
暗いカーブを越えると道路の左側はなお樹木しか見えませんでしたが、この信号機付きの
交差点は当時からありました。
信号は手押し式か感応式ではなかったかと思いますが今ひとつ定かではありません。
ただ少なくもわたくしが乗った頃、バスがこの信号にひっかかったことはありません。
右側には「ヘアサロン ギンザ」という看板の美容院があり、客のものと思しき自転車が
1,2台道路にはみ出て停まっており柏行きのバスはニュッとセンターラインを越えて
避けていたのでわたくしの体に横Gがかかったのを覚えています。
この交差点を左折するとその鈴木歳太郎氏が村長をしていた東葛飾郡八木村役場があったところで
以前から申したように新市に合併されると旧村役場は「支所」と名前が変わりますから、
信号を越えたところに「支所入口」というバス停が置かれていました。
村役場に至るとはいえバスから横目でチラとみるとその道幅は普通車でもすれ違いが
困難ではないかと思われるほど狭隘で両側を鬱蒼たる森に取り囲まれた暗い道でした。
諏訪道、つまりバス通りの方は対面通行可能で中央線も引かれていましたが
現在のように右側に広い歩道などありません。しかしこの歩道、車線一個分はありますね。
歩道と見せかけて実は車線を増やすのかも知れません。
交差点の向こう左角には出荷所のようなものがあってスノコに積んだ段ボール箱の山を前に
手ぬぐい被った農婦のおばちゃんが立ち話してる姿など見れたものですが現在はただの民家に
なっています。
あおり運転してると勘違いされないよう後続一般車がパトカーとの車間距離を取ってくれたので良く見えますが
草ぼうぼうの空き地がありますね。
「支所入口」のバス停は、ここにトベなんとかという名前の何らかのお店があってその前辺りに立っていました。
柏行きのバス停は道挟んだ真向かいに「酒 まつやま」という看板の個人経営の酒屋さんが
あってその前にありました。
あの頃夕方の流山行き最終に乗ると柏から乗ってきてここで降りる沖田浩之みたいな顔して足が長くてお腹が
ぺったんこでさぞ女子にモテるであろう高校生らしきお兄ちゃんをよく見かけましたが
お元気でしょうか。
今では酒屋もなにもかもがなくなってしまいました。
さらに100㍍も行くと右に分岐する細道があります。
これが諏訪道の旧道というか本当の諏訪道で柏サカエ自動車がここにバス路線を開拓したとき、
改造フォードやら旧いすゞのMAといったバスがこの小道を走りぬけていたわけです。
現在車がゴロゴロ走っている新道は柏の乗合自動車が片っ端から野田醤油経営の総武鉄道に
買収された昭和10年代開通だそうで、昭和48年に全線舗装道路になりました。
(『東葛文学研究』他より 崙書房)
バスもへちまもなかったほど古い諏訪道については地元の方が精力的に詳解しているブログがあるので
ぜひご覧いただきたいと思います。
「せきや」という古い料理屋さんが見えるここが旧道の出口で再び新道と合流しております。
後方のガソリンスタンドは影も形もなくただの鬱蒼たる森でした。
せきやの前のフェンス囲いの所には野々下駐在所という質素な建物がありました。
当時流山に警察署は存在せず「柏警察署 野々下駐在所」と書いてありました。
わたくしの郷里の野田も古くは警察署はなく松戸警察署野田分駐所なるものが
置かれたきりでしたが、かの野田醤油労働争議の騒動で警察署に昇格しました。
警察署がないというのは決して引け目を感ずるべきことではなくそれだけ民心が落ち着き
治安がよいという証左なのでむしろ誇るべきことでありましょう。
で、目の前に「藤田建材」という生コンの会社さんがあり、駐在さんはいつ頃なくなったのかお尋ねしたところ
「5,6年前に泥棒に入られた。目の前に駐在があるのに泥棒に入られたと警察に苦情方々訴え出たら
『建物が残っているだけですでに駐在所は廃止した』と回答されて社長が頭にきていた」とのことで、
まあ警察署はいらないけど駐在さんは必要かも知れませんな。
駐在がなくなり旧道の道路標識も損壊して地面に転がってました。
県道をゆくバスは長い下り坂を往きました。
坂の途中で左側にお寺が見え、塀に沿って一際高くそびえる墓石は小学生だったあの頃にもあって、
何やら塀の向こうから人がバスを覗いているようで妙に薄気味悪く見えました。
流山の某山で斬首処刑された者の生首はこのお寺「浄蓮寺」前に運ばれ晒されたといいます。
霊感の強い子供に非業の死を遂げた者の怨念が見えたのかも知れません。
お寺の道挟んだ向かいに松が生えた小高い丘がかつてあって通称「ドタンバ山」といい、
この新道を切り開いた時、当時の晒し首と思しき頭蓋骨が幾つも出土したそうです。
坂の底の底、最下点に位置するこの流山市営の体育館は昭和50年頃に出来たそうで
わたくしが初めてバスに乗って来た時すでに「体育館前」というバス停が設けられていました。
現在は植樹がすすんで見えませんが当時は木立が少なくバスから体育館の建物が見えました。
柏行きバス停は駐車場目の前の古い諏訪道の入口あたり、今、赤い矢印板のある辺りにありました。
流山行きのバス停はさらにすすんだ赤いコーンの置いてあるあたりに立っていました。
あの頃は道路挟んだ向かい側の白壁のアパートなど建物は全くなく、何か土地改良事務所のような
小屋が一棟だけボソッとあって周囲は背の低いペンペン草に広々と覆われていました。
人の乗り降りはあったりなかったりでしたが、不思議なことに柏行きよりも流山行きの方に乗ってくる人が
多かったと思います。
体育館というワードからイメージしやすい小児の姿は記憶になく大人の男の人の乗降が多く記憶に残っています。
ネーミングライツとやらで体育館は「キッコーマンアリーナ」と名を変えていました。
野田醤油社由来のバス路線が消え失せてなお野田醤油は諏訪道とともにあります。
わたくしがあの日あの頃バスから見ていた光景を崙書房はこのように記述しております。
「地蔵坂を下りきると、旧道は秋谷刃物店のところですぐ左手に入り、やがて右手県道すじに流山の
体育館とグラウンドが見えてくる。あたりは広く開け、ほっと一息つく所。
左手には低いくぼ地を縫って緑の水田がはるか彼方までつづき、水音が聞こえてくる」
(『流山研究におどり第7号 特集諏訪道・一茶道・ふるさとの道』山本鉱太郎 崙書房出版)
先の柏行きバス停があった辺りから北へ入るとクネっとした古道を歩くことができます。
ところで令和の今、絶滅危惧種化して庶民の食卓から消えた食材の一つにウナギがあります。
江戸の昔、諏訪道の果ての利根川とか手賀沼では天然の日本ウナギがよく取れたそうですが、
これを江戸市民の胃袋へ届ける手段としてまたしても諏訪道が大いに活用されました。
鰻というのは死んでから捌くと大変味が落ちるそうで生体輸送を要します。
それで諏訪道を流山へと急ぐ馬の背中に水をたたえた生け簀を搭載して活魚輸送をしたのだそうですが、
途中で水を入れ替えないと酸素不足で死んでしまいます。
かくして「水かいの宿」という水取替のための馬丁たちの溜まり場ができ、それがこの体育館の所だというのです。
「当時の面影が少しでも残っていないものかと旧道を探したところ、何人か年配の女性が田植えをしていたので尋ねてみた。
そういえば体育館が出来たあたりにかつて小さな池があり、その水でよく種を浸したが、
水を抜くとすごく鰻や泥鰌がいた。もしかするとその池の水を使っていたかもしれないわね、という話。
今でもこのあたりは低いので、水が音をたてて排水管に流れ込んでいる。
高台の農家でもその池は江戸時代からのものだと言っていた。
近くの草むらには宝暦四年(一七五四)と刻まれた庚申塔が建っていた」
(『流山研究におどり創刊号 』 昭和57年 山本鉱太郎 崙書房出版)
バス停2個分しか文字化できてませんが大変な文章量になりましたので
ここで一区切りしてまた次回に続けたいと思います。