今年も流山の人々が「おすわさま」と呼んで愛する諏訪神社のお祭りの日がやってまいりました。
わたくしの子供の頃からバス停の前にあった市村酒店もシャッター全開。
とっくのとうに専売制がなくなった「塩」と「たばこ」の琺瑯看板もウキウキしてるように見えます。
たばこカウンターの上に「公衆電話」と思しき文字があって、酒も扱ってますから
専売免許制があった昭和時代にはこの店が当地の人々の生活の中枢であったことが窺い知れます。
あの頃野田にもあるいは茨城境町にも専売公社前という名前のバス停があったものです。
昭和時代にはたとえコンビニといえど専売品を売ることはご法度でした。
逆にこういうお店こそ人をよくいざなうので、乗合自動車が世にあらわれそめて以来
専売品の整った酒屋の前にバスの停留所が設けられたのです。
店の前の屋台のタコ見ているとあの頃TVでよく見た「ムテキング」というアニメが脳裏に浮かんでまいります。
その神社の参詣道でもあった諏訪道を引き続き辿り巡って今は亡きバス路線の記憶を文字化したいと思います。
諏訪道は坂道を下って土地の低い体育館前を過ぎ、そしてまた上り坂へと差し掛かろうとする手前に
「後平井」(うしろひらい)というバス停がありました。
坂に挟まれてアップダウンが激しいのに坂井ではなく平井。
この路線にしては珍しく停留所間距離が詰まっていて体育館前から本当にすぐ500米も行かないくらいの所でした。
つくばエキスプレスの高架線などなく先の上り坂までよく見通せました。
右の宮田モータースは同じ名前で当時もありましたがSUZUKIマークはなかったように記憶しています。
またその位置も高架のせいで移転していると思います。
宮田モータースを越え、タナックスとかいう倉庫が今あるところには
当時「江刺」という溶接の火花の飛んでいる工場があってその真ん前に流山行きのバス停がありました。
現在はただの空き地と化している隣地もそのまた隣にも町工場のような建屋が2棟ほどあって
当時の日本製造業の競争力の高さがしのばれます。
柏行きのバス停は40キロ制限の標識あたりに立っていて、バス車内から上を見れば高架などあるはずもなくただ青い空、
下を見れば宮田モータースの向こういっぱいに田んぼと森林とで緑が広がり、
ところどころ人家が点在しているのが見える、美しい眺めでした。
小学生の頃は人が乗り降りした記憶などありませんが、
平成13年、子供の頃一日に4本あったのがたった1本に減っていて、十数年ぶりに大人運賃で乗ったとき、
ここから柏行きに乗ってくる主婦のような女性客が一人いました。
昔は登り坂の途中にまた別の自動車屋さんがあって山崎自動車といっておりました。
SUZUKIはこっちにあった覚えですがテレコになってるかもしれませんね。
リフトもあってなんだか白いセダンを上に持ち上げてた光景を覚えています。
ところで手前に横断歩道があるのがお判りでしょうか。これは昭和時代にもありました。
あるとき横断歩道を渡ろうと車が通り過ぎるのを待っている親子がいました。
流山駅東口行きのバスは手前で一時停止して親子が横断するまで待っていました。
同じ東武バスでも野田だったら宮崎文夫容疑者とガラケー女みたいに
終点までに人の2,3人平気で轢き殺すような走り方してましたが
「柏営業所のおじさんはずいぶん慎み深いんだな」と感心したものでした。
久方ぶりに先日現地を訪れたさい、横断歩道で左右見ながら立ってますと、
さすが都心から一番近い森のまちを標榜する人は民度が高い。両方向ともすぐ停まってくれました。
ありがとうございました。
次のバス停がまたうんと遠くなり坂のまた先にある「中学入口」というバス停でした。
当時の柏営業所の車内掲出用路線図には「中学入口」と書いてあり
バス停そのものにも「中学入口」と青い文字で書いてありましたが、
8トラテープは「次は・・・チュウガッコウイリグチ」と言ってました。
停留所の名前をテープと同じ「中学校入口」としなかったのはこの路線途上には
柏駅を出てすぐに同名のバス停があったからでどっちのバス停のことだかわからなくなるからです。
しかし流山市民には関係のないことですから崙書房の書物では
この停留所のことを「南部中学校入口」と記載しています。
野田にも「香取神社前」というのが越谷行き・柏行き・流山行きの3路線にありましたが経路がぜんぜん
違うので取り違えることはありません。
野田の愛宕神社の次に「小学校前」というバス停があって野田営業所のバスはみんなその名でアナウンスしていましたが
境あるいは岩井から野田へ来る境営業所のバスだけは「中央小学校前」と言っていました。
道路右側の赤い瓦とレンガ地の壁の建物のところには、さらに地味な色した同じように区画が3つの建物が
今よりもやや道路に迫って建っており、スナックとあと2つなにか事務所のようなものが
テナント入していました。その建物の真ん前にバス停が置かれていました。
向こう隣の薄ベージュ色の2階建の建物のところは流山市消防団ナントカカントカと書いた小屋づくりの
ポンプ車の置き場で、そのまた先の手押しの信号は当時はなくただの十字路でした。
そのまたまた先の「江戸前 とき寿司」という寿司屋、これは当時からありました。
とき寿司に限らず先の宮田モータースとか、いままでこのブログでは「小学生のときにもあった」と
紹介したお店とか工場が沢山あったと思います。
そういう商売人・職人の方々というのは腕とか信頼性が有象無象の新興勢力とは全然違うからこそ
今なお現役なわけで大切にしたいものだと思います。
そしてそれはバス会社についても同様であろう、とわたくしは信じてやまない者の一人なのです。
とき寿司を過ぎると道路の右側はずーっとただの森しか見えませんでした。
一方左側は家並みが続いていました。
このエネオスやバーミヤンの看板のあるマンションも全く完全にして鬱蒼たる森だったところで
右折する道もなかったこの交差点をバスは左折してあの恐るべき飛〇山の終点へと向かうのです。
あまりに当時と環境が違うのでわたくしは現地を歩いていて今どこにいるのかわからなくなり
googleマップで現在地を確認しながら歩きました。
バーミヤンの看板あたりには古めかしい自販機が深い木々の隙間に道路に面して置かれており
日没の早い秋冬には内蔵照明がささやかに灯って、信号機もなく漆黒の闇に包まれたT字路の凸面鏡に
かがり火のように映っていてよい目印となっておりました。
交差点左折して、今は別の所に移転してしまった流山郵便局前にあった「郵便局前」というバス停へ向かう途中で
〇血山の刑死者の霊を祀った「合葬之墓」がある日蓮宗本行寺が左の高台に見えます。
ここにまた「記憶を文字化」してきた崙書房が後世に残した古いもろもろの書物によれば、
わたくしが幼い頃幾度も乗った柏07 柏駅西口~豊四季~流山駅東口線の本然の姿は、
先の交差点など曲がらずそのまま流山市街、当時は市制前なので「東葛飾郡流山町」の町街を貫き、遥か埼玉県の草加まで行くものであった、というのです。
なので崙書房の古めの本では、わたくしがこんこんと今の今まで申してきた古い事物を紹介するとき
「柏駅から東武バス‘草加駅行き’で〇〇〇下車」と記しているのです。
交差点を直進すると今は亡き柏~草加線の「加村台」という停留所が置かれていた現流山市役所前に差し掛かります。
市役所のあるところは例の飛血〇の麓です。
道路反対側にはまだ千葉県が誕生していない古い明治の御世、「葛飾県」の県庁があって、
三権分立も三審制もない時代なので県庁でお裁きをうけた罪人はそのまま現市役所がある山中へずるずる引っ立てられ、首を刎ねられたのです。
いかにも山という感じのこの急坂を流山の人々は「加村大坂」と呼び、諏訪道中最大の難所であったといいます。
しかし野田・柏・松戸と周辺が次々に市制施行しているのに未だ「町」のままであった流山の人々にとって
古い一時代とはいえ県庁があったということはさぞ誇らしいことでしょう。
以前から幾度もこのブログで触れたところの流山広小路バス停跡。
草加線には松戸流山間を結ぶ京成バス同様「流山広小路止まり」があったそうです。
〇〇山の刑死体の首は前回触れた「浄蓮寺」もしくはこの流山広小路でさらし首となりました。
わたくしが子供の頃崙書房出版はバス停ほど近くに建っていてカーブを曲がるバスからよく見えました。
現在はただの駐車場になってしまい当時の面影のよすがもありません。
奥の古民家はまた別のお店です。
崙書房のそばには江戸川土手に登れる小道があって、
諏訪道を往く商人たちが馬から船に商品を載せ替えた「加村河岸」一名「矢河原の渡し」に達します。
娯楽の乏しい昔には諏訪神社の祭り目当てに対岸埼玉側の農民たちも渡船に乗ってこの河岸から
駒木の諏訪神社まで練り歩いていたといいます。
東武が草加までバス路線を作ったのは常磐線になびきがちな当地の人々を自社線に誘引するためでしょうが、
以前も申したように川向こうの埼玉県の江戸川沿いあたりはいにしえの時代には同じ下総国葛飾郡なのであって、
たとい千葉ロッテを毛嫌いする西武ファンであったとしてもお参りする神社だとか民俗とか習俗というべきものが我々と同じ人々なのです。
それは流山の三輪野山と吉川の三輪野江以上に近く、草加せんべいに使われたという野田の醤油以上に濃い。
その次には流山ご自慢の本みりんの名を冠した「万上前」もしくは「万上」という名のバス停がありました。
加村台に移転する前の市役所、流山町役場もそのバス停付近にありました。
地元のお年寄りと話をしたとき「『万上前』だと思うが車掌さんは『役場前』と言ってたかもしれない」とのことです。
ここから先のバス停がどうなっていたのか、それはもう流山の人々が再び崙書房のいう「記憶を文字化」するまでわかりません。
川面に橋脚台だけが残っている旧流山橋。
草加行きのバスはここを渡って今は三郷市となった「大広戸」という所を過ぎて草加駅に向かっていました。
「流山から松戸へ行く県道は、流山広小路からキッコーマン流山工場の西を通って、流山橋の手前から江戸川堤防の上を松戸まで利用していた。
この道路が流山への幹線で、松戸、野田、三郷、柏へ繋がっていた。もちろんボンネットの田舎のバスで車掌も乗っていた」
(『東葛流山研究第25号 今は思い出 流山むかし話』神田繁男 平成19年 崙書房出版)
「30年9月、草加-大広戸-豊四季-柏を結ぶ19.4キロの新路線が開業する。なお、三郷から流山橋を渡るバス路線としては、
このほかに32年10月から45年12月まで大広戸-初石-柏間が6往復、37年2月から51年1月まで大広戸-江戸川台間もあった」
(『三郷市史 通史編Ⅱ』平成9年 三郷市)
草加駅前の大広戸行き東武バス。アポロ製ウインカーのRB10かBTか。
(『草加市史研究第11号』草加市)
柏-草加線は昭和46年頃に柏-大広戸、大広戸-草加に分割され、うち柏-大広戸間は恐らく江戸川台線と同じ昭和51年に廃線になっています。
草加へのバスがなくなった今、流山では草加煎餅ではなく将門煎餅が売られています。
最後に崙書房の皆さま方、長きにわたる流山の記憶を綴る活動、まことにお疲れ様でございました。