特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

悲しい伝説のバス停「一本松」

2021年04月28日 23時58分02秒 | 旅行

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
源氏に追われ命運尽きて壇ノ浦の流れに身を投げた安徳天皇の母・建礼門院徳子に仕えた女房衆にたいへんな美貌に恵まれた朝日御前という女がいた。御前には将来を誓う平家の若侍がいたが彼もまた源氏の刃の贄となり主君とともに海の底にもあるという極楽浄土の都へ行ってしまった。
 悲報に接した御前はひどく悲しみ、ついては平家一門や若侍をねんごろに弔おうと諸国仏閣を巡り祈るべしと思い立った。舟に乗り、惜しげもなく黒髪を切り落とすといまだ海に覆われていた東国の、後に宝珠花と呼ばれるようになる名もなき土地を訪ねた。
 しかし足を踏み入れてすぐに急の病に患り、当地の秀道という僧が介抱するもそのかいなく「世の人の有とし問はば幾千歳 松に心のありと答へん」という辞世の句を残し息を引き取ってしまった。
 むくろはその地に葬られ辞世に従い一株の松が墓標として植えられた。やがて土地の者はその松をごぜ(御前)の松あるいは大松と呼んで村のよりどころとし、後世長く松の立派なことを讃えた。(参『庄和町夜話』埼玉県立庄和高等学校地理歴史研究部 『春日部の昔ばなし』文芸社)

 
 古い地名はバス停に残ると言われております。泉麻人さんが言ってましたでしょうか。
それでグーグルマップをぎゅーっと拡大しても全然見当たらない地名の付いたバス停がわたくしたちの身の回りにはいくつも存在するわけです。山だの川だのへっころ谷だの地形や天然物の名称が付けられたバス停の場合は地名探しは要りません。例えば一本松というバス停があったらそこには松の木が一本生えていることでしょう。
 
 
 一本松というバス停があったのは埼玉県春日部市にある西宝珠花(にしほうしゅばな)という土地で春日部駅からバスに乗って30分もかかる随分離れたところにあります。それだけ離れているのでもともとは北葛飾郡庄和町という異なる行政下にあってさらに遡れば埼玉県ではなく驚くことに千葉県に属していて、さらに明治初期まで武蔵国ではなく下総国の領域だったという、早い話がわたくしと同族同祖な人々の住まう土地なのです。
 従って埼玉県民なのに病にかかっても「そこらへんの草」を食べないのですが「埼玉特殊アクセント」という大変珍しい方言の分布域に含まれており国語学の巨人、金田一春彦氏が調査に来たことがあります。何が珍しいのかというと犬とか橋とか2シラブルの単語を朝日御前が喋っていたのと同じように雅やかな京都のアクセントで発するのです。そこらへんの草のぶぶ漬けを勧められたらさっさと帰りましょう。病に倒れた朝日御前もそこらへんの草を口にしていれば寿命に恵まれたかもしれません。


そこらへんの草はここらへんにしまして、昨日NHKでやってたブラタモリ埼玉スペシャルはご覧になりましたか?武甲山の秩父セメントのホキすごかったですね。埼玉は日本地質学発祥地だと紹介されてましたのでまずこの宝珠花についてもその地形を見なければいけない。
 地形をみるに「宝珠花台地」という江戸川を越えて野田を越えてそのまたずっと向こうまで続く下総洪積台地の末端に位しており、朝日御前が過ごした平安海進期にも大きな島として残っていた所です。片や宝珠花以外の埼玉の東あたり一面は、台風時の二子玉川・武蔵小杉もかくやあらんというばかりにひどく水に浸かっていて、一説に朝日御前が降り立った宝珠花も海に突き出た「鼻」のような地形なので宝珠花というようになったのだといいます。
 

 

 

ゆえにここは平安以前から人が定着した歴史の長い集落なので、江戸時代にはローム層を活かし水はけに優れた集散地となり、近代に至れば隣の南桜井村に鉄道ができるまで近隣最大の繁華を誇っていて自由民権運動家・小野梓が遊説に来たり、旧制春日部中学出身の作家三上於菟吉の「百萬両秘聞」なる小説の舞台になり、昭和32年には改修中の江戸川土手から百萬両とまではいかないけれど500余両の埋蔵金が発見されたことがあるという、ずいぶん派手に銭金の舞う土地であったようです。銭の花の色は清らかに白い。昭和の大合併時には「庄内領八ヶ村合併協議会」の初会合が宝珠花で執り行われております。この豊かな宝珠花と春日部駅とを結ぶバスが走るようになったのもむべなるかなと思われます。
 

 昭和50年代のある日のこと、小学5、6年生だったわたくしがバスの車内にあった複雑な路線図をぼんやり眺めていますと千葉から埼玉に入ってすぐに「一本松」という古風な響きの、当時見た時の感覚のまま言えば「ダサい」名前のバス停があることに気づきました。あの頃タモリが「ダサいたま」と言ってましたね。
 


 当時の東武バス境営業所のバスにあった路線図は子供のちっこい目にはたいへん辛いほど停留所を示す丸印や直交線、斜線がたくさん描画されており線種のバリエーションも数えきれないほどあって頭の悪いわたくしには到底覚えきれるものではありませんで全体像を描くのも非常に難しいのですが、地元を走る野田市の周辺部位はなんとか覚えており一本松を含めたその部位を描くとこんな感じです。本当は〇と〇の間の線は複数あります。傾斜線で2股になったりこれが下の方の立野のバス停でまた一本線になるのですがそこがまた傾斜線になっててまるで左右から押しつぶされた六角形みたいな形になってた、そういう描き方は一本松以外にも下館とか岩井辺りにも同じような構図がありそれは慣れ親しんだ野田営業所の路線図では全く見られないものだったのでわたくしにはとっつきにくい路線図のように感じられました。
それで事情がない限り境のバスに乗るときは路線図ではなく運賃表示器や車外の風景や行路表を見るようにしていました。
 なお西宝珠花~春日部駅線はわたくしが乗りバスにかまけていた時期に春日部出張所から境車庫へ移管されています。西宝珠花線だけではなく江戸川を越えた東宝珠花線や関宿工業団地入口線も含めてです。東宝珠花で春日部出張所のバスが停まって幕をぐるりぐるり回すさまを境車庫線のバスから眺めたことがあり、大型化された方向幕に「西宝珠花」と漢字4文字であったのを明瞭に記憶しております。境に移管後は「西宝珠花車庫」と6文字になりました。車庫といっても実態は単なる休憩所で洗車機もないし常駐している人もいません。いかにも東武バスの田舎臭さをよく引き出せる素朴で非常に心の落ち着くおだやかな所でした。
 当時から春日部駅~関宿工業団地入口線もあって移管前は「関宿工業団地入口」の漢字8文字に系統表示も加わった文字数字がギュウ詰めのはなはだ見ごたえのある方向幕もあったはずでどうせ小児運賃半額なのだからバスを乗り継いででも見に行くべきであったのをしなかったということは後代の人々に申し訳ない気がいたします。
 ところでさっきから春日部駅、春日部駅と言っておりますが正確には「春日部駅東口」がすでに当時正式な名となっていました。
 一方、野田市駅からも関宿工業団地入口行きというのがあってそれに乗ったことも従前お話したと思いますが境に移管後のことなので工業団地入口へ行ってもやはり件の方向幕を見ることはかないませんでした。野田の「【野11】関宿工業団地入口」という方向幕そのものは野田市駅前と柏駅西口で見たことがあり無理やり文字を詰め込んだのでまるで朝の満員電車のサラリーマンみたいに書体がびよ~んと縦長になっていました。
 柏駅西口の3番のりばで見た時は恐らく数字が同じ11なので「柏11 三井団地」と間違えてずっと表示したままになっていて、隣の2番のりばでどこかのバスを待っていた化粧っ気がなくおじさんみたいな顔したおばさんが「あら、セキヤド?」と言うと後ろにいた坊主刈りで出来の悪いじゃがいもみたいな形をした頭の中学生らしい男の子がポカンと口を開けてバスを見上げていたのを覚えています。柏の中学生からすれば関宿は壇ノ浦の海の底にもあるという都ほどに遠く感じることでしょう。
 一本松が百本松になるくらい話があちこちへ飛んでまことにおそ松至極となりましたがこの一本松のバス停を訪ねるには春日部駅から今は亡き「芦橋廻り」というバスに乗らねばなりません。

 

 

 昭和18年6月、東武鉄道が春日部のバス営業権を獲得した時、宝珠花間の運行ルートは現在同じ区間で営業している朝日自動車のものとは異なっていました。今日のバス停でいうところの神間~宝珠花入口間はずいぶんすっきりした直線状の道路で結ばれています。この道は日露戦役の頃に田んぼのあぜ道に盛り土して踏み固めた里道が始原なのだそうで、大正になって自動車の重みにも耐え得る路盤整備が途中の「つむや」という現在もある商店のところまでなんとか出来た。そこから先は宝珠花台地とは全然違う朝日御前の時代には水に満ちていたという小籠包の皮みたいに地盤のふやけた「中川低地」で、道路工事もへちまもない状態だったらしい。道路も武蔵小杉のタワマンも水はけが大事なんですね。鉄道も必ずや台地をチョイスして駅や線路を敷設せねばならず、だから東武野田線は低地の流山や松戸との接続を避け一方において台地上の河辺と南桜井の2村に駅を設けたのです。そうでなければ世界屈指の大災害国家日本ではとてもやっていけない。
 話がそれましたがそれで当時は「つむや」を曲がったご覧のルートであった、と『庄和史談』(庄和町教育委員会)は元車掌の一婦人の言として記しています。

 


春日部駅の「寶珠花ゆき」と書いてあるバス停。昭和30年。東武バスと縦書きされた角材の土台はゴムとホイール側面がえぐれるように劣化崩壊してしまっている古タイヤ。時刻表板が大きいので本数がそれなりにあったものと思われますが発車まではまだ間があるようでバス待ちの奥さん連が背後の座りのよいところにしゃがんでいます。(『追憶の埼玉』アーカイブス出版)


 (『広報しょうわ』昭和37年)
 春日部駅~宝珠花間が恐らく現行のものに変わっていた昭和37年6月20日、「芦橋廻り」という新しい宝珠花ゆき(正しくは関宿の日枝神社ゆき)のバス路線ができました。ここにある立野・榎・倉常・芦橋・木崎の名は一帯が下総国千葉県だった頃の村名を引き継いでいます。芦橋は大阪芦原橋と字づらが似てますがアシバシではなく「ヨシハシ」と読みます。木崎は前述の作家・三上於菟吉の故地です。そのまた先に御前が眠る一本松があるのです。

 

 


 
 今のバス路線は立野の十字路を右へ曲がってずばり立野という停留所へ行きます。エネオスのGSはわたくしが高校生時代に乗ったときにもあって当時は日石でした。旧庄和町の学校給食センターがこの辺にあって、平成3、4年頃突如町に降ってわいた給食廃止騒動のさいには中継に来た日テレの『ルックルックこんにちは』の映像にバス停が映り込んだことがあります。さて件の芦橋廻りは右にも左にも曲がらず直進して、

 

 

 この路線のためだけの立野のバス停へ向かいます。直進してすぐにシャッター店舗と倒壊した家屋がありますがバス停は倒壊している方の前にあったそうです。倒れた板壁にホーロー看板がベタベタ貼ってありここにバス停があったことを強く匂わせています。この先で自転車こいでたお年寄りがいてお尋ねしたところ左隣に建つ廃屋は酒・たばこを商うコジマというお店だったそうです。なお、この立野の西側一帯は平成の大合併期以前から春日部だったところで郡名も北葛飾郡ではなく「南埼玉郡」でした。つまり下総国でもなく千葉県でもない、繊細で混じりっ気のない何も足さない何も引かない純粋無垢なガチ埼玉県民が住まう土地です。
 

 

 

 平成4年刊の『東武鉄道バス事業本部』誌によると平成3年夏のこととして、この芦橋廻りを起点立野、終点春日部駅東口、経由地「芦橋」「西宝珠花入口」(宝珠花入口の誤記)と記述しており立野で折り返すことになっています。そのやや前の平成元年、高校生だったわたくしが夜まっ暗な春日部駅東口でバス停の時刻表を見た時のおぼろげな記憶では時刻表盤に「●は立野止り」との但し書きがありました。平成13年頃東武バス関連のサイトを見ていたら方向幕が「立野」となっている工事中で埃っぽかった春日部駅前の東武バスの写真があってレアな路線だったはずなのによく撮る人がいたもんだと驚倒しました。そのサイトには平成4年ロビンソン百貨店の店内にあったバス時刻表のアナログ写真もあってその行先は西宝珠花車庫・工業団地入口・東宝珠花の3つしかなく「うむ、芦橋廻りは平成3~4年頃に無くなってしまったか」と嘆息したのを覚えています。
 

 

 さて、さらに7~800㍍行くと水稲耕作にうってつけの沖積平野がだだっ広いのどかな風景のなかに「あづまや」というお店屋さんが見えてきます。榎のバス停がこのお店の近くにありました。この辺りは大学入学前に工事警備員のアルバイトをしたときわずか半日だけですが行かされた現場なので覚えがあります。春日部行きバス停がお店のはす向かいの大きな民家のブロック塀の前にぽつりと突っ立っていて、「春日部駅東口ゆき」と達筆な文字が書いてあり、バスが来るのは1日に2度だけだったように思います。当時は免許維持には1日に最低2本要ということになっていたと思います。時刻表のどの時間帯に時刻が書いてあったか忘れましたがわたくしがいる間にバスが来ることはありませんでした。
 お昼はあづまやさんで肉まんを買って道路に沿って流れる「庄内領用水」という小川のほとりに仮敷きされた鉄板の上に座って食べてたら雨が降ってきて、午後の仕事が1時間で終わりました。立ち仕事だから足の裏が痛い痛い。ところで立野のお店の話を聞いたお年寄りとは実はここで会話したのですが「あの時は足の裏が疲れました」の「足」をわざと頭高型の京都式アクセントで言ってみたところストレートに通じました。
 埼玉県という所は面白くてなんとか領という土地の呼び方が近代まで正式に残っていてまた地名を言うとき大字なになに字なになにという古風な言い方もする。吉川なんか「二合半領村大字吉川」という炊飯器のお釜の目盛りみたいな強烈な名前だった。天下取っても二合半。埼玉には旗本領という謎の領地がたくさんあってそれが県の特徴的な個性を生んでるのだそうですが天下御免の向こう傷のある退屈な男は見かけませんでした。しかしキラキラ地名とかなんとか市中央とかいう画一的な地名よりははるかに行路人の心を引き寄せ旅情を誘うものです。

 


さらに1キロ半ほど往くとあるのが芦橋の交差点でバスはここを右折したとあります。

 

 ここは庄和町と杉戸町との境目になっていてこの先の集落と手前側の芦橋他の集落とは元来「桜井村」という一つの村として仲良くやっていました。桜井村の対照として南方に南桜井村ができて今日の南桜井という駅名が誕生したわけです。さて南が付かない方の桜井村は戦後になって杉戸町に全域合併されましたが、どうしたことか手前側の集落の人々は杉戸町からの離脱を訴えて合併3年後に庄和町に鞍替えとなり、旧桜井村は目の前の白い3tクラスのトラックに横切られるように南北に分断されてしまいました。道なりにまっすぐ行けば遥か西関宿まで続く旧下総国所属の各村を串刺しにする極めて興味深いバス路線が出来たものかと思われます。

 

 

 右折するとバッティングセンターの看板のある怪しい小屋が1つ。バス停は曲がった先にあったそうでこの小屋がそうかもしれません。バス停あるところに個人商店があるのが古来からの慣わしですがこの小屋の道挟んだ向かいには廃業した商店の家屋がありました。交差点向こうに目立つ謎のアニメ画は泉という運送屋のイメージイラストでそこはもはや春日部市域ではないので「クレヨンしんちゃん」や主人公の名が同じ泉の「らき☆すた」の画は使えません。この交差点を泉のイラストを右に見ながらガチ埼玉方面へまっすぐ行くと萬年橋という旧下総国領だった西関宿へ行くバスが走っていた橋に通じるのですがそれはまた然るべきときに。

 

 


 木崎のバス停があったところ。いま春バスという春日部市のコミュニティバスのバス停がありますがそれ以前から庄和町はここに南桜井駅前まで往く完全無料の白と青の日産シビリアンであったかと思いますが町内循環バスを走らせていました。今からちょうど20年前、西宝珠花の車庫跡を車で見に来た時わざと寄り道をしてこの道も通りそのバスとすれ違いました。「無料」と書いた手書きの貼り紙をフロントガラスだったかサイドの窓ガラスだったかに貼り付けていました。またこの青木自動車という自動車屋さんもここにありました。学校給食廃止の是非はわかりませんが、全ての住人に開放された完全無料バスというのは世の中そうそうあるものではなく大変に素晴らしいことだったと思います。


 

 

500mいくかいかないうちに集会所のバス停があったところに着きました。建屋がお墓のなかにあってぎょっとしましたがご先祖さまの目の前で集会することで村人に精神を引き締めさせるという実は高尚な精神があってそういう構造にしたのではないかという気もいたします。作家三上於菟吉はこの村人の気風を受けて育ったのです。

 

 

 

 吉妻というバス停が今朝日バスのルート上にありますがそれとは全く別物の「上吉妻」というバス停があったところ。やはり20年前わたくしは左の白い建物のお店でスペシャルサンドという菓子パンと他になにか小腹を満たすものを買いました。あの時はよい雰囲気の酒屋さんというか駄菓子屋というかそんな感じのお店でまことにローカルなバス停がよく似合う店構えでした。入ると芳村真理が髪を黒くしたような感じの奥さんが出てきて少しばかりバスのことを尋ねましたが白い店舗スペースのすぐ向こう隣、瓦屋根のある辺りに「ああ、春日部の駅にいくバスの乗り場が・・・・・ん?確かまだあったわよね、そこに」と言うので一緒に外に出てきょろきょろ見たが何もなかった、というやりとりがあったのを思い出しました。


 

 

 

西親野井入口というバス停がこのカーブにあったことになっています。道が二股になっていて左の暗い道が宝珠花小学校へ行く道で学童標識もあります。残念ながら小学校は近年廃校となったそうです。今一台の白いスズキだか日産だかの軽の行く先が1段も2段も高い土地になっているのがお判りでしょうか。これが宝珠花台地です。

 

 

勾配がきつくなってきた頃、左手に生い茂る樹木が見えました。このうす暗い曇天下でも朝日の御前は近い。

 


着きました。
ここに御前は眠りその魂は朝な夕なに宝珠花を守る一本の松となったのだ!
がしかし、これはどう見ても松ではありませんな。残された古株も樹皮からすると松ではなく桜だったようにも見えます。

 

 

 


 (『広報しょうわ』昭和48年7月発行号)

一本松はすでにありません。大正11年北葛飾郡の郡指定「保存木」にもなり郡役所から保存費が支払われたほどの名木はその後昭和9年、樹上に落雷があって幹が大破、昭和48年6月伐採。昭和48年ということはもう50年近くも前のことです。
 西宝珠花の土手で散策してた方がいてちょっと話を伺ったところ「松はほとんど倒れかけていて枯れる一方だった。知らないうちになくなっていた」とのこと。「しかしよくあの松のこと知ってるな!」と大変驚かれました。さらに一本松の近くの荒れ地で雑草の始末をしている人がいたので聞いてみたら「嫁に来た頃にはもう松だかなんだかよくわからなかった。いつのことだったか坂を通行止めにしてノコギリで細かく切ってた。バス停があったのは覚えてるが通りに出れば春日部に行くのがあるから乗ったことはないな」。


(『庄和史談』庄和町教育委員会)(私蔵絵葉書)(『さきたまの丘から』テレビ埼玉)

 

 

「けれどもこの大松のあった所には一本松という名のバス停があり、開店したばかりの居酒屋大松という名の店もあるので、大松という名は忘れられてはいない」(『宝珠花今昔』埼玉県立庄和高等学校地理歴史研究部)
御前の松、大松にはさらに「赤台の大松」という異名もあります。赤台というのは松がアカマツ種であったからかもしくは台地を構成する赤土、すなわち関東ローム層が見えることからの名かと思われます。この点は東京の「赤坂」と同じです。関東ローム層は富士の火山灰が主成分で水はけが良いのが災いし水稲耕作に適さない土壌ですが松というのは逆に水はけが良いところでしか育たないのだそうです。一本松はここにあるべくしてあったのです。

 

 

西宝珠花交差点はかつてロータリーになっており杉戸駅ゆきのバスが回転している。

(『宝珠花今昔』庄和高校地理歴史研究部)

(『わたしたちのしょうわ』)

 

今はなき一本松の枝下をくぐったバスは西宝珠花に立ち並ぶ商家を見ながら宝珠花橋を渡って江戸川の向こう岸にある今は野田市となった東宝珠花の日枝神社で終点となります。

 

「春日部」という地名は壇ノ浦の戦いに参加した源氏方の武士、春日部兵衛尉に由来するそうです。
御前の眠りを妨げる平家に仇なした狼藉者の名を語るバスがここに来ることはもうありません。
朝日御前は今もなお宝珠花の高台で安らかに目を覚ますことのない眠りについているのです。



2 コメント

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Unknown (surrender90)
2021-05-07 20:46:04
たこはちさま。
ご覧いただきありがとうございます。
4号から16号ですか。サイクリストが江戸川の土手道を
関宿目指して突っ走ってるをよく見ますね。
江戸川の下流のみなさまにも
はるか上流の流山とか野田とかそして宝珠花とか関宿とか
あの辺りの人士風土がたとえ川の流れに妨げられるとしても
一体であったことをぜひ想起いただいて下流で太さを増して
大河となった江戸川を眺望いただくならば
上流の民としてこの上ない喜びとなりましょう。
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Unknown (たこはち)
2021-05-07 10:07:07
ご無沙汰しております。
栃木の、たこはちです。
大変興味深く拝見しました。
古くからのいわれの有る地名が残るバス停、
大変良いお話を教えていただき、
ありがとうございます。
このような地名にまつわる故事を知ると、
歴史上の人物が身近に感じられ、
書物の中だけでなく、実際に存在したことを実感し
感慨深いです。
私が野田の江戸川河畔に行くとき
国道新4号から16号を使いますが、
春日部や宝珠花橋も通りますので、
未知の地名にまつわるお話は嬉しく思います。
相変わらずの流行り病、収まらぬ昨今
私一人車かバイクで江戸川のほとりに行っても
密になるどころか、人はめったに居るまい、
とは言うものの、やはり我慢だと考え、
地図やネット上での空想、回想の小旅行を
しております。
故郷の江戸川区より野田流山に行ってみたい。
そんなことを、ぼーっと思っております。
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