前回から関宿町シリーズが続いております。
千葉県東葛飾郡関宿町、否、合併から10年以上経ってますのでもう千葉県野田市と申し上げた方がいいと思いますが、
野田市と埼玉・春日部方面を結ぶ宝珠花橋は今も昔も路線バスの往来が盛んです。
この橋を渡るバスは必ず「関宿中央ターミナル」という、平成9年橋東詰の当時は関宿町次木と呼ばれた土地に完成した交通施設を経由、あるいは終点としています。
ではこのターミナルが無かった頃バスはどこをどうしていたのか。
今回は「関宿中央ターミナル」が出来る何年も前、昭和56~57年頃、宝珠花橋を渡る東武バスの思い出について2つ3つ覚えていることをお話ししたいと思います。
昭和54年発行関宿町勢要覧に載っている宝珠花橋空撮写真。
関宿中央ターミナルが出来る18年前の姿です。
橋西詰の土手下に以前にお話しした「西宝珠花車庫」の一角が映りこんでいて何やらバスらしき物陰があります。
一方、ターミナルが現在ある場所にはバスが通れそうな幅の道が全く見当たりません。
また江戸川右岸左岸とも橋を越えて直進する道路がありません。
橋東詰に注目いただきたいのですが、橋たもとに向かってモコッと盛り上がってる坂道と盛り上がることなく普通に低いところを走っている道が並走しています。
この辺りには東武バス名物のオレンジ色バス停柱が幾本も立っていてマニアにはたまらない光景を醸していたものですが現在は関宿中央ターミナルの一か所に集約されてしまいました。
拡大してわたくしの記憶する場所に昭和56、57年頃のバス停を書き加えてみました。
まず路線によって停留所名が異なります。
わたくしの小学生の頃、この橋を往還するバス路線は春日部駅東口~東宝珠花線と春日部駅東口~工業団地入口線の2つだけでした。
と言ってもどちらも乗車経験がありません。
では如何にしてこれを確認したかというと車内掲出の路線図をまじまじ見て覚えたのです。
さて、春日部駅東口~東宝珠花線は肝心の東宝珠花折返場が橋から遥か南に位置している関係でバス停は橋南側に置かれていて、停留所の名はずばり「宝珠花橋」と言っておりました。
関宿橋や芽吹橋のように西詰とか北詰などと名付けて橋の両端にバス停があるのではなく、柏03の水堰橋と同じように橋に対応するバス停がただ一個しかありません。
坂の途中ではなく登りきって平らになった所にあり、山の頂上のようなもので全くの風の吹きっさらしの場所です。
ある冬休みの寒い日、部活に行くような感じのどこかの中高生の兄ちゃん姉ちゃんがガタガタ震えながらバスを待っている群れを見たことがあります。
後年、高校時代に関宿から春日部経由で野田の自宅に帰るためここからさらに手前の「平井入口」という停留所から3、4回春日部行きに乗ったことがありますが
いずれも終バスだったのでこんな土手っぷちの殺風景なバス停から乗ってくる人はいませんでした。
恐らく運賃区界停留所であったと思われますが、その時には境営業所の車両も運賃表示器がデジタル式に更新されてしまっていて確認できませんでした。
余計な老婆心から申しますと、デジタル式と言っても今日の東武バスにあるような運賃数字と次停留所名文字が一緒に表示されるものではありません。
文字ではなく数字しか表示できないのです。かなり初期の電卓みたいなもんです。
幕式の頃は少なくとも運賃区界だけは停留所名が出てくるのですがデジタル式ではそれすらわかりません。
柏駅西口で初めてこのタイプの運賃表示器を見たとき「これでは初利用者にはわからなくてバス離れを加速させるだけだ」と思いました。
春日部駅東口~工業団地入口線の方は名前が異なり「次木入口」と言っておりました。
次木と書いてナミキと読みます。
工業団地入口は橋の北方にありますからバス停は橋北側にありました。
「宝珠花橋」と違ってこちらは坂の傾斜がかった部分にあり、特に春日部行きのバス停ポールそばには大人の背丈ほどの高さのススキが生え繁っていて
歩道も無く安全にバスを待てるような場所には到底見えませんでした。
小学生時代のわたくしは橋よりも下方にある平らな道を走る野田市駅~境・工業団地入口線のバスによく乗ったのですが、
通りかかった際に坂の途中のこのバス停に人がいるのを見たことは一度もありません。
逆方向の春日部から来てここで、大人一人だけだったと思いますが、客を降ろしているバスを一度だけ見たことがあります。
「バスを降りたら土手の急な坂道をかけ降りて帰るんだろう、大変だな」と思いました。
以前も触れましたが昭和時代、わたくしが、うーん、もう高校生になった頃でしょうか、
TBSのテレビ番組「そこが知りたい 路線バスの旅」にこの橋が登場したことがあるのです。
その番組の別回には野田市の「大利根温泉」も出てきた、ということも以前お話ししたと思います。
当該回の旅の目的地は東北か茨城のどこかだったと思いますが、都内からいろいろ乗り継いできて春日部から工業団地入口行きの
富士重工3Eで方向幕が従来型の狭幅のタイプで境営業所の青い東武バスに乗って埼玉から千葉に入るというシーンがありました。
本編中のみならずOPのタイトルバックでも関宿側から橋上を走る車両正面をドーンと捉えた場面がありました。
終点は「工業団地入口」のはずですが編集上の都合からかそのもっと先にある、
工業団地入口で降りた後野田市駅から来る境車庫行に乗り換えなければ辿り着けないはずの「境町」で降りたことになっていました。
ブラウン管を通して数年ぶりに見た境町のバス乗り場は小学生当時と変わらず観光貸切車1台しか収まらない朝日自動車の煤けた黒い壁の車庫と
頭に「バスのりば 下妻駅ゆき」と書かれた東武の島式バス停がなお残っていて、小児運賃で野田から乗って行って知らない大人に東武動物公園の入場券をもらったという
遠い記憶が俄かに蘇り胸が熱くなりました。
木製床がギィギィと音がする車内の乗客の一人に50~60歳位の目じりの皺が隠し切れないがそこそこ化粧のうまい奥目の顔立ちの女性がいて
キャストではなくスタッフの男性がマイクを向け「このバスはよく乗るんですか?」というような質問をしたところ「ええ。でも本数が少なくて困ります」と答えていました。
さて、野田市駅~境・工業団地入口線は以前よりこのブログで思い出を語ったところですが、橋に最も近いバス停は春日部・工業団地入口線と同じ「次木入口」でした。
ただしポジションというか位置の高度が違うのです。
この高度が低い方の「次木入口」を通過する瞬間がわたくしは大好きで、なぜならばバス停のすぐ下に一軒の牛舎があったからです。
牛は10頭以上は飼われていて、皆白と黒のまだら模様のホルスタイン種のように見えましたが、
天気の良い日はそのうち数頭が柵から頭だけをこちらに突き出しクッチャクッチャと反芻しながらくりくりした目で物珍しそうに
1時間に1回くらいしか来ないこのバスをじーっと見ているのです。
バス停で乗ってくる人がいるとそこで数秒から十数秒停車しますから発車までの間に、
指が伸びた孫の手みたいな形をした白い尻尾をフリフリしている様子やお尻からボタボタ牛糞が落っこちるさまを窺い見ることができました。
野田市関宿にある牛舎。
宝珠花橋ではなく関宿橋の北方で先日見かけたものですが宝珠花橋で見た牛舎も同じスタイルでした。
夏場ですとバスは窓を開けていますから牛糞の香りがふわふわと車内に入ってきます。
それをクサイなどとは微塵も思いませんでしたし、他の乗客でそんな野暮なことを言う人もいませんでした。
それよりもはっきり見える牛のナマの姿のほうが強烈な印象を乗客に与え、
他所から何らかの用事でバスに乗ってきた子連れ客がいると興奮した子供が「ねえねえ、あそこにウシがいるよ、ウシシ」と大橋巨泉よろしく騒いでいたものです。
ま、ウシシまで言ってたかは今となってはモー記憶が定かではありません。
そも、においの話するんだったら牛の飼育施設よりも総武鉄道沿線案内図に登場するほどの景勝地だった座生沼ぶっ潰して生態系を粉々に破壊した後に
生物多様性とかマッチポンプな綺麗ごと並べて千葉県北端に位置する某市が血道を上げてるコウノトリの飼育施設のほうがよっぽど金と利権のにおいがクサイ。
座生沼潰してくれたおかげでこっちは乗合バスの沼にはまってしまった。
くさい話が脱糞、もとい脱線して失礼しました。
ところで、わたくしがバス沼にはまる前、かなり幼少の頃、昭和50年頃でしょうか、
宝珠花橋ではなく芽吹大橋の下にも放牧された牛、それも乳牛と異なり黒くて長い体毛をもった牛が何十頭もいて群れをなし、
どたどた走り回って砂塵が舞っている光景を見たことがあります。
当時岩井行きのバスに乗った人はこの壮観な眺めを見ることができたはずです。
次木入口停留所跡地。
「ジョイフーズ」と戸建て家の間の道は当時、今と違い大変細い道で両脇を背の高い木々で囲われていました。
その道のとば口にバス停は立っていて牛舎は背の高い木々のすぐ隣、現在の駐車場入口辺りにありました。
今では牛もいなければバス停もありません。
野田のバスが東武鉄道ではなく総武鉄道であった時代から宝珠花を出るバスは人間のみならず、
「フランダースの犬」でパトラッシュが運んでいたような生乳の入ったブリキ缶をも客席に乗せて野田町まで走っていました。
中村メイコの『田舎のバス』のように道の真ん中に牛が寝ていてバスが通れないという光景もあったでしょう。
終戦時の宰相、鈴木貫太郎翁が「余の最後の仕事」と注力した関宿酪農業の隆盛をまざまざと見せつけられるバス停がここにあったという麗しい事実が、
不幸な天災による国内牛乳生産の危機が伝えられる折、郷土の交通史から決して除かれてはならないと改めて強く思うのです。
千葉県東葛飾郡関宿町、否、合併から10年以上経ってますのでもう千葉県野田市と申し上げた方がいいと思いますが、
野田市と埼玉・春日部方面を結ぶ宝珠花橋は今も昔も路線バスの往来が盛んです。
この橋を渡るバスは必ず「関宿中央ターミナル」という、平成9年橋東詰の当時は関宿町次木と呼ばれた土地に完成した交通施設を経由、あるいは終点としています。
ではこのターミナルが無かった頃バスはどこをどうしていたのか。
今回は「関宿中央ターミナル」が出来る何年も前、昭和56~57年頃、宝珠花橋を渡る東武バスの思い出について2つ3つ覚えていることをお話ししたいと思います。
昭和54年発行関宿町勢要覧に載っている宝珠花橋空撮写真。
関宿中央ターミナルが出来る18年前の姿です。
橋西詰の土手下に以前にお話しした「西宝珠花車庫」の一角が映りこんでいて何やらバスらしき物陰があります。
一方、ターミナルが現在ある場所にはバスが通れそうな幅の道が全く見当たりません。
また江戸川右岸左岸とも橋を越えて直進する道路がありません。
橋東詰に注目いただきたいのですが、橋たもとに向かってモコッと盛り上がってる坂道と盛り上がることなく普通に低いところを走っている道が並走しています。
この辺りには東武バス名物のオレンジ色バス停柱が幾本も立っていてマニアにはたまらない光景を醸していたものですが現在は関宿中央ターミナルの一か所に集約されてしまいました。
拡大してわたくしの記憶する場所に昭和56、57年頃のバス停を書き加えてみました。
まず路線によって停留所名が異なります。
わたくしの小学生の頃、この橋を往還するバス路線は春日部駅東口~東宝珠花線と春日部駅東口~工業団地入口線の2つだけでした。
と言ってもどちらも乗車経験がありません。
では如何にしてこれを確認したかというと車内掲出の路線図をまじまじ見て覚えたのです。
さて、春日部駅東口~東宝珠花線は肝心の東宝珠花折返場が橋から遥か南に位置している関係でバス停は橋南側に置かれていて、停留所の名はずばり「宝珠花橋」と言っておりました。
関宿橋や芽吹橋のように西詰とか北詰などと名付けて橋の両端にバス停があるのではなく、柏03の水堰橋と同じように橋に対応するバス停がただ一個しかありません。
坂の途中ではなく登りきって平らになった所にあり、山の頂上のようなもので全くの風の吹きっさらしの場所です。
ある冬休みの寒い日、部活に行くような感じのどこかの中高生の兄ちゃん姉ちゃんがガタガタ震えながらバスを待っている群れを見たことがあります。
後年、高校時代に関宿から春日部経由で野田の自宅に帰るためここからさらに手前の「平井入口」という停留所から3、4回春日部行きに乗ったことがありますが
いずれも終バスだったのでこんな土手っぷちの殺風景なバス停から乗ってくる人はいませんでした。
恐らく運賃区界停留所であったと思われますが、その時には境営業所の車両も運賃表示器がデジタル式に更新されてしまっていて確認できませんでした。
余計な老婆心から申しますと、デジタル式と言っても今日の東武バスにあるような運賃数字と次停留所名文字が一緒に表示されるものではありません。
文字ではなく数字しか表示できないのです。かなり初期の電卓みたいなもんです。
幕式の頃は少なくとも運賃区界だけは停留所名が出てくるのですがデジタル式ではそれすらわかりません。
柏駅西口で初めてこのタイプの運賃表示器を見たとき「これでは初利用者にはわからなくてバス離れを加速させるだけだ」と思いました。
春日部駅東口~工業団地入口線の方は名前が異なり「次木入口」と言っておりました。
次木と書いてナミキと読みます。
工業団地入口は橋の北方にありますからバス停は橋北側にありました。
「宝珠花橋」と違ってこちらは坂の傾斜がかった部分にあり、特に春日部行きのバス停ポールそばには大人の背丈ほどの高さのススキが生え繁っていて
歩道も無く安全にバスを待てるような場所には到底見えませんでした。
小学生時代のわたくしは橋よりも下方にある平らな道を走る野田市駅~境・工業団地入口線のバスによく乗ったのですが、
通りかかった際に坂の途中のこのバス停に人がいるのを見たことは一度もありません。
逆方向の春日部から来てここで、大人一人だけだったと思いますが、客を降ろしているバスを一度だけ見たことがあります。
「バスを降りたら土手の急な坂道をかけ降りて帰るんだろう、大変だな」と思いました。
以前も触れましたが昭和時代、わたくしが、うーん、もう高校生になった頃でしょうか、
TBSのテレビ番組「そこが知りたい 路線バスの旅」にこの橋が登場したことがあるのです。
その番組の別回には野田市の「大利根温泉」も出てきた、ということも以前お話ししたと思います。
当該回の旅の目的地は東北か茨城のどこかだったと思いますが、都内からいろいろ乗り継いできて春日部から工業団地入口行きの
富士重工3Eで方向幕が従来型の狭幅のタイプで境営業所の青い東武バスに乗って埼玉から千葉に入るというシーンがありました。
本編中のみならずOPのタイトルバックでも関宿側から橋上を走る車両正面をドーンと捉えた場面がありました。
終点は「工業団地入口」のはずですが編集上の都合からかそのもっと先にある、
工業団地入口で降りた後野田市駅から来る境車庫行に乗り換えなければ辿り着けないはずの「境町」で降りたことになっていました。
ブラウン管を通して数年ぶりに見た境町のバス乗り場は小学生当時と変わらず観光貸切車1台しか収まらない朝日自動車の煤けた黒い壁の車庫と
頭に「バスのりば 下妻駅ゆき」と書かれた東武の島式バス停がなお残っていて、小児運賃で野田から乗って行って知らない大人に東武動物公園の入場券をもらったという
遠い記憶が俄かに蘇り胸が熱くなりました。
木製床がギィギィと音がする車内の乗客の一人に50~60歳位の目じりの皺が隠し切れないがそこそこ化粧のうまい奥目の顔立ちの女性がいて
キャストではなくスタッフの男性がマイクを向け「このバスはよく乗るんですか?」というような質問をしたところ「ええ。でも本数が少なくて困ります」と答えていました。
さて、野田市駅~境・工業団地入口線は以前よりこのブログで思い出を語ったところですが、橋に最も近いバス停は春日部・工業団地入口線と同じ「次木入口」でした。
ただしポジションというか位置の高度が違うのです。
この高度が低い方の「次木入口」を通過する瞬間がわたくしは大好きで、なぜならばバス停のすぐ下に一軒の牛舎があったからです。
牛は10頭以上は飼われていて、皆白と黒のまだら模様のホルスタイン種のように見えましたが、
天気の良い日はそのうち数頭が柵から頭だけをこちらに突き出しクッチャクッチャと反芻しながらくりくりした目で物珍しそうに
1時間に1回くらいしか来ないこのバスをじーっと見ているのです。
バス停で乗ってくる人がいるとそこで数秒から十数秒停車しますから発車までの間に、
指が伸びた孫の手みたいな形をした白い尻尾をフリフリしている様子やお尻からボタボタ牛糞が落っこちるさまを窺い見ることができました。
野田市関宿にある牛舎。
宝珠花橋ではなく関宿橋の北方で先日見かけたものですが宝珠花橋で見た牛舎も同じスタイルでした。
夏場ですとバスは窓を開けていますから牛糞の香りがふわふわと車内に入ってきます。
それをクサイなどとは微塵も思いませんでしたし、他の乗客でそんな野暮なことを言う人もいませんでした。
それよりもはっきり見える牛のナマの姿のほうが強烈な印象を乗客に与え、
他所から何らかの用事でバスに乗ってきた子連れ客がいると興奮した子供が「ねえねえ、あそこにウシがいるよ、ウシシ」と大橋巨泉よろしく騒いでいたものです。
ま、ウシシまで言ってたかは今となってはモー記憶が定かではありません。
そも、においの話するんだったら牛の飼育施設よりも総武鉄道沿線案内図に登場するほどの景勝地だった座生沼ぶっ潰して生態系を粉々に破壊した後に
生物多様性とかマッチポンプな綺麗ごと並べて千葉県北端に位置する某市が血道を上げてるコウノトリの飼育施設のほうがよっぽど金と利権のにおいがクサイ。
座生沼潰してくれたおかげでこっちは乗合バスの沼にはまってしまった。
くさい話が脱糞、もとい脱線して失礼しました。
ところで、わたくしがバス沼にはまる前、かなり幼少の頃、昭和50年頃でしょうか、
宝珠花橋ではなく芽吹大橋の下にも放牧された牛、それも乳牛と異なり黒くて長い体毛をもった牛が何十頭もいて群れをなし、
どたどた走り回って砂塵が舞っている光景を見たことがあります。
当時岩井行きのバスに乗った人はこの壮観な眺めを見ることができたはずです。
次木入口停留所跡地。
「ジョイフーズ」と戸建て家の間の道は当時、今と違い大変細い道で両脇を背の高い木々で囲われていました。
その道のとば口にバス停は立っていて牛舎は背の高い木々のすぐ隣、現在の駐車場入口辺りにありました。
今では牛もいなければバス停もありません。
野田のバスが東武鉄道ではなく総武鉄道であった時代から宝珠花を出るバスは人間のみならず、
「フランダースの犬」でパトラッシュが運んでいたような生乳の入ったブリキ缶をも客席に乗せて野田町まで走っていました。
中村メイコの『田舎のバス』のように道の真ん中に牛が寝ていてバスが通れないという光景もあったでしょう。
終戦時の宰相、鈴木貫太郎翁が「余の最後の仕事」と注力した関宿酪農業の隆盛をまざまざと見せつけられるバス停がここにあったという麗しい事実が、
不幸な天災による国内牛乳生産の危機が伝えられる折、郷土の交通史から決して除かれてはならないと改めて強く思うのです。
素敵なブログ、ありがとうございました。勉強になりました。