特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野田町内線と野01野田市内循環線の話

2020年05月02日 19時42分47秒 | 旅行

みなさまいかがお家の中でお過ごしでしょうか。まさか外に出てパチンコ屋行ってる方などおられませんね。
コロナとの戦いはまさに戦争で「クリスマスまでには帰れるさ。俺、この戦争が終わったら彼女と結婚するんだ」などと慢心すると3年も4年も続いて終戦前に戦死するのです。こういうときは家で寝っ転がって不要不急の外出しても絶対乗れない大昔のバスをぼーっと回想するのが最良のコロナ避けなのです。

 

 

さて、今ここに数年前に行った野田市郷土博物館の「鉄道と野田展」で見た途方もない大昔のバスの時刻表があります。表の一番左側に「町内線」というのがあります。野田駅と野田橋を往復するもののようです。「〇印ハ役場通リ廻リ、無印ハ全部萬町廻リ」と書いてあります。


戦前の野田町略図(『市報のだ』平成5年)から。
役場通りはわたくしが乗りバスにかまけてた頃市役所が置かれていた通りのことで、一方「萬町廻リ」とは萬(ヨロズ)町通りというご覧の経路の道を走っていたものと思われます。「萬」の町名はこの道路を開削した醤油家・茂木佐平治氏の商標すなわち「キッコーマン」から取られたものです。今なおバスの通行なぞ到底不可能と思われる細い道ですが大正時代には江戸川まで野田人車鉄道も走っていました。
 「第〇〇工場」とあちこち縦横斜めに書いてあるのは全てキッコーマンの各工場を示しておりますが、野田町役場の上にはキノエネ醤油があります。町の建物のほとんどが醤油工場であったことが窺えます。

 

萬町は工場群はもちろんのこと地方裁判所の出張所や以前お話しした共楽館という映画館もあり工員相手の花街でもあったのでなかなかのバス需要が期待できたろうと思われます。
 「ともえや」は後年まで町一番の書店として当地に残っていて、テナント出店していた愛宕のヨーカドーにはなかった学研ひみつシリーズの「いるいないのひみつ」を買いに来たことがあります。1999年になったら恐怖の大王にみんな殺されるんだぁと思って読んでましたが2020年になってもしぶとく生きてます。

 

共楽館わきの売店の前に「共楽館前」というバス停が立っています。
(『野田市の展望』昭和29年)


野田橋上の野田乗合自動車(絵葉書『千葉縣野田町』 昭和11年以前)。
車両のフロントは前方へ傾斜して設計されておりウーズレーか?スミダM型か?
野田橋は昭和3年木造橋として落成、昭和11年腐敗した橋桁が落下して車両通行不能になりました。昭和18年コン製橋へ架替して再開通してますがこれは明らかに木造です。車体塗装は窓下に白く太いラインがありそこから下は全て黒。これは以前触れたところの越谷駅前~野田下町間を往復していた「越ヶ谷自動車商会」のものとは塗装が異なります。「のたは志」と書かれた欄干の右に亀甲萬の灯篭が建っています。


昭和11年、撮影場所不明の総武鉄道バスと車掌(『野田市史研究』 野田市史編纂委員会)。
総武鉄道バスは野田乗合自動車の後継会社です。
野田乗合自動車は「野田バス」とも呼ばれていたようで子供の頃東武バスのことを「ノダバス」と言うお年寄りをたまに見かけました。

 

昭和10年、野田下町から越谷駅へ向かっている越ヶ谷自動車商会バス。(『野田市制40周年記念記録写真集』)
ご覧のように野田乗合自動車とは白と黒の位置取りが異なるのです。
「野田下町」とは北総鉄道すなわち後の総武鉄道が愛宕以北に延伸する以前の旧野田町駅前のことで今なお同地に「下町」というバス停留所があります。昭和11年野田橋落失以降は江戸川を渡船乗換で越えていたようです。
 

 
昭和7年野田橋上の越ヶ谷商会バス。野田側の橋詰めにキノエネ醤油の看板があります。(『写真が語る野田の歴史と文化』)
 野田花街で生まれた「野田町行進曲」なるお座敷唄が昭和初期にNHKラジオで流れたことがありその歌詞は「バスでゆかうか越ケ谷こへて 黒い煙のたつ野田へ」というものであったと言いますから、野田町における当時の越ヶ谷商会バスの存在感は鉄道など比べ物にならないほど大きかったことがわかります。

 

 

 大正11年、労働総同盟会長・鈴木文治が野田に来たときの写真絵葉書の一部。旧野田町駅頭のやや西方、恐らくは野田下町交叉点辺りで撮影しており、右端にある広告板に「線武東」と「越」と「野」の文字が見えます。前年大正10年に越ヶ谷自動車は越谷駅から野田の一歩手前、金杉村の江戸川渡船場までバス路線を開通させていますが、渡船場から野田町駅まで乗合馬車かバスを走らせて接続をはかっていたかも知れません。       
 総武鉄道が野田町から埼玉のどこへ延伸すべきか計画を練っていたのとほぼ同時期、東武鉄道の初代根津嘉一郎は越ヶ谷町~北葛飾郡金杉村~野田町を一直線に結ぶ「武総鉄道」という新線計画に参画して200万円を用意しています(『東京日日新聞』大正13年9月21日)。ここから埼玉・野田間の行き来には越ヶ谷から行くのが一般的であったことがわかります。
 それは下妻街道と呼ばれた太古からある伝統的な商業路でもありますし、事実越ヶ谷自動車商会は併営する吉川線より野田線の便数を多く設定しています。
 当時の総武は労働争議に忙しい醤油会社の影響力は小さく京成出身の政治家・本多貞次郎氏が牛耳っていました。だから京成と接続する海神線が出来たのです。埼玉へ伸ばすならば町内を東から西へ向いてる野田町駅から、駅舎の向いてるそのままに西方へ鉄路を延ばせばストレスなく越ヶ谷へ接続できます。しかし一方でそれは東武の計画と全く同じです。
 第一次大戦後の大不況期に建設費が膨らむのを承知でわざわざ駅舎を移転させてまで大宮町を延伸先とし越ヶ谷を外したのはなぜか?? 昭和7年新宿から来て清水公園で宝探しをした後にキッコーマン工場を見学した「ミステリー列車」よりも謎です。
 
 
 
 

 昭和5年野田町駅が移転したとき野田乗合自動車は発着点を新駅の駅前に移しましたが、新駅舎は同社を経営していた「丸三運送店」の車両置場の目と鼻の先にありました。野田市駅と野田車庫のバス停は名前が違うのに同じ場所にあったと従前お話した所以がここにあるかもしれません。
 かたや越ヶ谷自動車は旧野田町駅前に発着点を定めたまま営業を続けました。昭和5年刊と伝わる『野田町案内』(著者不明)には「駅からは関宿方面へ行く乗合自動車が発着していて便利だ。西へなお歩くと道は広けて十字路の大通りとなり左の角には自動車店があるが之は野田橋を渡って越ヶ谷町へ至り東武鉄道と連絡を図っている」との記述があり双方のバス乗り場が離れ離れになったことが分かります。
 昭和7年ホトトギス派の俳人・山口青邨は隣の埼玉県松伏水郷を経て野田の醤油工場を訪れていますが恐らくはこのバスで来たものと思われます。
 


柏町の栄自動車を皮切りに昭和10年岩槻、昭和11年大宮・土呂・三橋、昭和12年流山の秋元自動車、丸三商会の小山渡船、吉川町役場と松伏領村田島間を走っていた石川自動車会社、東京府足立郡の花畑自動車、・・・・陸上交通事業調整法が施行されるより以前から沿線のバス会社は次々に経営権を総武鉄道に奪われていて、同路線は遅くとも昭和15年までに越ヶ谷自動車商会から総武鉄道直営の「総武自動車」に代わっています。これら小規模事業者のうち総武鉄道に参与できたのはかねてから野田醤油組合準会員の地位を得ていた栄自動車の社主、吉田甚左衛門氏のみで他はそのまま歴史から消えています。
 ここに総武鉄道は野田町駅~野田橋間に町役場経由と下町経由の2系統のバス路線を得て越ヶ谷に版図を広げ、いつしか町内線と萬町廻りも消え総武から東武へと名を変え、さらに流れ流れてわたくしの小学生時代には野田市駅から市役所経由と下町経由という2つの北越谷駅ゆき東武バスが出ていたのです。


さらに月日は流れました。どれほど流れたかというと野田市長が長年の革新系から保守系に変わり、保守系なのに市役所の位置を保守せずとんでもない遠い所へ移転させてしまい、市役所経由という幼い頃から親しんだ路線名が中野台経由という名前に変わりさらに東武バスの色が青くなくなってしまったほどに。

 

市役所が移転して2か月がすぎた平成5年7月26日、新市役所と旧市街を巡る循環線ができました。久方ぶりに町内線が野田市に出現したのです。初日9:00から東武鉄道本社から来賓を迎えてセレモニーを行い9:30始発の第一便に関係者30人が乗って路線一周したそうです(『読売新聞 東葛版』1993.07.27)
わたくしは進学以来数年の間野田を離れており帰省してその話を聞いて驚きそして呆れました。それは東武が新路線に投資するなど小学生だった昔から考えられなかったことですし、さらにはその路線がコストをペイできるものとは到底思えなかったからです。
 

これは間違いなく野田市から東武に陳情してできた路線と思われます。野田市は障碍者福祉予算を投入するつもりだったのか当時稀であった「リフト付福祉仕様車」での運行を要求して断わられています。
 市役所移転でいくつかのバス停の改名がなされており市役所前は「中央出張所前」になっています。旧庁舎は出張所になって今日まで続いています。以前から野田・越谷間のバスのお話しをするとき市役所経由、市役所経由と行ってきましたがご覧のように「市役所」というバス停は存在せず「前」が付いていたのです。新市役所のバス停はずばり「市役所」で「前」が付いていません。
柏・大利根温泉線と併用する「鹿島神社前」には新たに「中根」が付けられ「前」が消除されています。これは中野台経由北越谷駅線と併用する同名停留所と峻別できなくなるからです。
 またキャディのおばさんに「かき餅」をもらった野08系統紫ゴルフ場線のお話を以前いたしましたがそのさい、かねて路線図で見ていた「畔谷」と「鹿島原」がどう読むのかわからず通過時のアナウンスが楽しみであった、とお話ししましたが思い出深いそれらバス停もアナウンスに耳を塞ぎたくなるような味も素っ気もない名前に改名されてしまっています。
 先日のブラタモリで「地名とは『土地の記憶』なんだね。だから行政の都合とかで勝手に変えちゃいけない」という至言が飛び出して非常な話題になってますがバス停にも相通ずるところがあります。ましてやアーバンなんとかラインなど空から恐怖の大王が降りてくるくらいあってはならないことなのです。
 


さて、この路線にはぜいたくなことに内回りと外回りの2パターンが用意されていますがそれとなく時間帯でどちら回りにするか偏りがあるようです。また土休日は運休しています。これらは前回お邪魔した八千代市の勝田台団地の循環線とは大いに異なるところです。野田市駅発着の入出庫便もあります。
総営業キロ7.1、総停留所数は「市役所」以外全て既設バス停を利用して19。なおこのダイヤは平成9年の路線廃止まで変わりませんでした。
 
 

運賃表を見ると当時の千葉県内の東武バスの初乗りは130円で以降150円、170円と刻まれていたことが分かります。同時期住んでいた東京でよく乗った小田急バス・京王バスは190円均一でしたから乗りつぶしても都内より20円安かったことになります。ちなみに小学5年生、初めて一人で東武バスに乗った時大人初乗りは80円でした。
 網掛けされている停留所名欄は運賃区界停留所のみ記載されていますが表には東武バス野田営業所限定マニアのわたくしにしかわからない誤りがあって、「総武通運」のところは「下町」でなければなりません。そうでなければ境・関宿工業団地線や東宝珠花線と運賃区間がズレてしまいます。

 

わたくしは1度だけ乗ったことがあります。運行2年目の11月頃、愛宕駅から内回りの便に乗りました。バスに乗りたいというよりは新しい市役所を見物するのが目的だったと思います。

 

バスには誰も乗っていませんでした。貸切状態の冷えた車内からは市役所を失ってみるみる活気を失うシャッターだらけの冷え冷えした市役所通りの商店が見えました。

 

とうとう終点の市役所まで自分以外の誰も乗って来ませんでした。バス共通カードを持っていないので現金で支払ってバスを降りると、わたくしは真新しい庁舎を見ながら一方でバスの行く末に一抹の不安を覚えました。

 

当時すでにバブル景気なんぞとっくに吹き飛んで求人倍率も1倍を割っておりリストラという言葉を聞かない日はありませんでした。つまり現在と同じです。
 異なるのは一般家庭にネットインフラなどまだ整っておらず昭和の昔と同じように新聞・TVニュースなどでしか情報を得られない時代でしたが、それでも北関東で東武バスが営業所を閉鎖したり路線の廃止や移管をしているという話がちらほら聞えてきておりました。
 実際すでに野田においても岩井行きのバスは茨城急行へ全便移管されていて子供の頃大好きだった小山経由岩井車庫線の東武バスもいなくなってしまってました。柏03は野田市駅行きよりも短縮された野田車庫止まりの方が多くなっていました。市内循環線に誰一人乗っていなかったことでモヤモヤした何かが心に残りました。


 
市内循環線は平成9年9月30日をもって廃止となりました。開通から1527日。市報か何かでそれを知ったとき「やっぱりな。あんなとこ走ってたらそれは無理だ」と軽い嘲りの気持ちで迎えました。

 

 

しかしそれが生まれ故郷から東武バスが去り行く予兆であったと後年悟ったとき、東武バスが野田を見捨てたように自分は東武バスを見捨てていたことに気づいたとき、バスをおろそかにした自分を悔やみたまらず嗚咽慟哭した。
少年時代の想い出を彩る東武バスが野田市のために走らせてくれたあのバスになぜ1度しか乗らなかったのか、と。

 

わたくしは今都営バスと東武バスのどちらに乗っても帰れる所に住んでいます。そして都バスより10円高いにも関わらず必ず東武バスを選んでしまうのはきっと心の底に嗚咽し慟哭したあのときの贖罪の意識があるからに違いない、と今このブログを書いていて思うのです。

 

次回はこの路線にも含まれるとあるバス停の想い出についてお話ししたいと思います。

 



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