ここを手に入れることは一国を得るに等しき要害中の要害にして要衝中の要衝、関宿から春日部駅へ通じていたバスは一国どころか下総武蔵の二国を貫いていました。その関宿の関宿河岸、今日西関宿と呼ばれる地から春日部駅前へ行っていたバス路線を今回は辿っていきたいと思います。
元来はこの江戸川右岸関宿河岸に所在したバス折返場を始発地としていましたが、後年すぐそばの茨城県五霞村江川で折り返していたそうです。この五霞とかその先の古河もやはり明治8年まではわたくしと同族同根の下総国かつ千葉県だったところで不思議なことに遠くに来た気がしないのです。血は江戸川の水よりも濃いですからな。
わたくしが境営業所の路線図上で終点西関宿の表記を目撃したのはどれだけ早くとも昭和56年のことと記憶していますが「大平首相が存命の頃に乗ろうと思ったら廃止されてた」と2年前当地を訪ねた時に古老から聞いたので昭和55年までには運行を終了してかも知れません。アー、ウー。
西関宿の集落を出ると右手にお墓が並ぶこんもりしたちょっした高台が見え、台地の下には水田が広がっています。
このこんもり台地の辺りが西関宿の南端であってすなわち明治28年までは千葉県東葛飾郡関宿町だったところです。
千葉県時代は川に沿ってこの辺りを過ぎてもなお商家・遊郭の甍が所せましと建ち並んでいて『全国紳士録多額納税者一覧』に3、4人は名を連ねていたという商業繁華な西関宿も春日部からバスが開通した大正時代には今日のような鄙びた小邑に変わっていたそうです。
バスは同じ下総国だった中島村へ入りますがバス停は置かれずそのまま通過していました。
中島村は天領・旗本領→葛飾県→関宿藩→関宿県→印旛県→千葉県ときて西関宿より20年前の明治8年に埼玉県になりました。中島村のみならず前回触れた宝珠花村を含め旧下総国の村々はこのいきさつを経て千葉県から埼玉県へ鞍替えをしているのです。
「武蔵国郡村誌」の「民業」に「男は船乗 女は日雇を専とす」とあるので元は飯盛女が徘徊する川沿いの遊興地でもあったかと思われますが村の産物として絹織物に欠かせない「繭」が挙げられています。下総台地の一角なので耕作には適しません。
次の三田のバス停があった三叉路。うっかりミタと読むとインスタで美容室ステマしてた人みたいになるので音読みして「さんでん」というのです。
三叉路だから三田になったのではなく武蔵国惣新田村の大字「三田」からバス停名を取っています。お墓の前辺りに「春日部駅行き」と書いてあったバス停が立っていたそうです。
昭和39年関宿橋開通時にできた新道のほうに境・杉戸(東武動物公園駅)間を往く同名のバス停が現在ありますが 橋開通後も春日部駅行きのバスだけはここを通過していたことがわかっています。昭和39年以前ならば幸手・杉戸・境、栗橋、西関宿全ての行先のバスがここを通過しています。
見回すと「鈴木洋品店」と「新井商店」のお店が二つがありますが、かねがね申してきたバス停あるところに必ず個人商店ありというわたくしの法則がぴたりと適合しております。洋品店の左側にはかつて美容室もあったそうです。フジの女子アナも来てたのかは定かではありません。また町中華のような小さい食堂も近くにあったそうで古道「関宿道」の道中を彩る賑やかな空間だったようです。
しかしながらこの新井商店の軒先にある公衆電話・郵便・塩の三種の神器のような看板の縦並びはインスタでステマしてなお余りあるほどに美しく、またこのお店がバス停を設けられるにふさわしい地元の中心となった生活に欠かせない商店であったのだろうと往時をしのばずにはおけないオーラがあります。電話の上にもひっ掛け棒が1本出ていますがどんな琺瑯看板があったでしょうか。願わくば「カクイわた」が欲しいところです。
三田を過ぎると江戸川の岸辺に沿って起伏のないのんびりした道を往きます。かつて千葉県に菜の花体操というドラクエの不思議な踊りみたいな珍妙な体操がありましたが埼玉県の土手に咲く菜の花は美しい。
道はやがて土手から離れとある交差点に出ます。バスがあった頃は信号機はありません。道の左側、江戸川岸までの一帯は下総国の花島村だったところで先の中島村の南どなりの村。実はこの関宿道は武蔵と下総の境に作られた国境を示す堤を始原としているのではないかともいわれています。この交差点の前後が子供時分から不思議に思っていた問題の「黒右衛門」というバス停があったところになります。
手前のお家は農家の旧家のようでお店の感じが全くしないのでバス停と個人商店はセットで存在するという先のわたくしの仮説は早くも崩壊しました。
黒右衛門とドラえもんは一体どのような関係にあるのか人に聞こうかと思いましたがちらほら車が通るばかりで人影が見当たりません。それでちょこちょこ歩くとぽつりと集会所がありました。
なんと表札に「九郎右衛門」と書いてあります!黒右衛門は九郎右衛門という土地の字名のことだったのでしょう。
しかしなんで東武バスは九郎を黒としたのか。そういう別の呼び方があったのか、文字数節約のためにそうしたのか、苦労したくないから黒にしたのか、黒白、いや白黒はっきりしませんがボンネットバスの車掌さんが次はクロえもんでございますなどと叫んでいたであろうし、乗客にはクロえもんと聞いて色の黒いドラえもんを想起してケラケラ笑う子供なんかもいたのではないか、などと夢想いたしますとなんだか胸が熱くなってきて、モータリーゼーションは大事なバス路線をまたわたくしから奪ってしまったのだなと思うと今度はちょっと目頭がじんわりと熱くなってくるのです。
道路左側の旧下総国花島村域を見ますと軒先にアヤメと花びらの白い花が咲き乱れるお家があって花島と呼ぶのは伊達ではないと感嘆させられます。
ところでこのお家は手前の旧武蔵国惣新田村域の田んぼと比べると1段も2段も高い土地にあります。下総と武蔵の違いはこのように土地の高低にも表れているのです。
「武蔵国郡村誌」に花島村は「高地。地味、色赤黒砂石を混し稲粱に適せず」とあって産物は大麦とあります。保水能力のない砂壌土ですと稲作は難しいでしょう。
道路の右に武蔵国を左に下総国を見ながら往くこと1キロ足らずで次の「六軒」というバス停があったところに着きました。会津ほまれとある戸塚酒店のこちら側10メートルほど戻って来た場所にバス停が立っていたそうです。こちらは個人経営の酒店とバス停のセットです。またわたくしが立っているところにはタバコ店があったそうでお店が複数あるとバス停も置かれやすいものです。
東京に相撲を見に行こうとボンネットバスで春日部へ行ったことがあるという地元の方の語るところによれば、東武バスがなくなって何年も経った平成の中頃幸手市循環バスというコミュニティバスが走っていた時期があったそうで同じ六軒という名のバス停だったそうですがそれはさらにもっと戻ってきたところお店もなにもない地点にあったのだそうです。
六軒を過ぎ、道の左側の下総国側は花島村が終わって槇野地村があった地域になります。わたくしの小さい頃この辺りのことを「さってのまげのぢ」と言っている大人がいたことを覚えていますが「まきのぢ」と読みます。見てください、やはり土地の標高が高く下総台地の地であることがわかります。
「武蔵国郡村誌」では花島村と同じく「平坦なる高地。地味 色黒赤混合し稲粱に適せず」とあります。産物の記載がありませんが「税地」の欄で畑面積が田んぼの10倍以上あるので麦とか根菜とかでしょう。
やがて総武国境の小水路に沿って道が右に大きくカーブしています。この辺から左側は下総国細野村があった地域になります。「武蔵国郡村誌」に曰く「地勢 平坦車馬便なり」とあって往来が楽だったようですがやはり「地味 色赤黒稲粱に適せず」ともあります。左前方に下総台地の一部が広がっていて人家や墓地、古社などはその台地に集中しています。しかし下総側にもご覧のように水稲田を作れる低地もあります。『幸手町のかたりべ 』(幸手町教育委員会)に惣新田住人の関東大震災時の証言があって「武蔵と下総の境目と言われる低地から泡のような水が噴き出している」と書いてあります。
地元の人に聞けなかったので何ともですが左側のお店の恐らくこちら側に来た方に六軒の次、「杉山」というバス停がありました。
お店は下総国に建っていますがバス停の名前は武蔵国惣新田村の字名杉山が採用されています。
惣新田には大坂の陣で敗れた豊臣方の侍が流れ着いて開削されたという古伝承があって、すると江戸時代に野田を切り開いた先人たちと同じ流離譚を持っているわけでまことに不思議な縁が感ぜられます。
ところで道の幅員が随分と太く見えますがバスが通っていた頃は砂利敷で車のすれ違いが困難な道であったと伝わります。
500メートルも行かないうちに道がよい感じに狭まってきました。この辺りまで来ると道の両側ともに武蔵国惣新田村の領域になり下総国と暫しお別れです。
左手のヘアーサロンまるせきという理髪店さんからこちら側にちょこっと歩いてきた所に「吉田二小入口」なるバス停がありました。東武バス境営業所は学校の名前の付いたバス停の名称を長くしない癖があったように思いますので吉田第二小学校入口などと長くせずやはり吉田二小入口だったろうと思います。
学校名に第二だの第三などと付いていると、どうせ戦後のベビーブーム時代に急ごしらえした歴史の浅い学校なんだろと高をくくりそうですが、吉田第二小学校は明治36年という古い時代に第一小ともども開校、明治42年に吉田第二尋常小学校と改称し後代へと続いた大変古い小学校だったそうです。 昭和59年に第一小に統合されて閉校しましたが、明治からあったとなれば春日部駅、いや粕壁駅からバスが開通した大正15年すでにここに停留所が存在していたかもしれません。
床屋さんの反対側に青いベンチの置いてある立派な邸宅がありますが、ベンチはキリンビバレッジと書いてあって時系列が合わないのでバス路線と関係なく置かれたものです。
ただ、このお屋敷は元々「あづまや」という屋号でご商売をしていたのだそうでやはりバス停と商店はセットなのです。
吉田二小入口を越えてすぐに交差点がありますがバスは突っ切って真っすぐ行きます。
交差している道は一本松のバス停の回でお話ししたわたくしが大学入学前に警備員のアルバイトをしたあの県道です。あの県道も昭和25年にその存在が確認できるなかなか古い道なのですが、ここに信号機が設けられたのはかなり後年の模様でバスが走っていた頃にはなかったのではないかと思われます。
突っ切って進んだところこれは狭いっ!!!
道の入口に幅員減少の標識がありましたが予想を超えております。
越沼良助氏がバス事業を興すにあたって粕壁~松伏領村と粕壁~関宿の2路線は道中の道幅が狭く待避場を確保しなければならなかったので開通が遅れた、と春日部市史にありますがその道幅が狭いというのはまさにここではなかろうか、と。
右のお屋敷の壁が倒壊していますが車がぶつかったのではなく経年劣化したもので恐らく空き家なのでしょう。左側の電柱下の石積みが崩れているのはこれは本当に車がぶつかった跡だそうです。
崩れた石積みの傍らに朽ちた家屋が1棟あります。
ここは元々「三入屋」(みいりや)という商店でした。そしてお店のそばに「東川」というバス停がありました。
その三入屋を経営していた方がたまたま野良仕事で表に出ており、路線バスのあけぼのとも言える、こんなことが当時はあちこちであったのであろうという貴重なお話しを伺うことができました。
「元々は店ではなく、土地の一部を使ってこの辺住んでる人が育てた『繭』を集めておく小屋として建てたものだ。この辺はみんな蚕飼ってた。春日部に越沼という人がいてそれを一日に一度トラックで引き取りに来る。預かり賃もらってそれまでの預かり所。越沼さんそういうことあちこちでやってた。最初はトラックだけだったのがバスも来るようになった。そのとき越沼さんがうちに来て親に『繭取りに来るついでにバス停にさせてくれ』と言ったんで了承した。ありがたいことにバス停を「三入屋」としてくれた。越沼さん商売うまいんだ。だが越沼さんから東武に変わったとたんに「東川」に変られちゃった。道は細いけど越沼さんの頃は5、6人しか乗れない小さい車なのであまり難渋してなかった。乗ろうとする人に『いっぱいです』なんて言って断ってたからな。炭で動かしてたからあんまり乗せると動かなくなる。東武になってもここは全然車が通らなかったからよかったんじゃないか。船戸橋まで歩いて杉戸に行くバスによく乗ったけどここで乗る人は多くはなかった。戦後、繭が少なくなったので三入屋は雑貨とか干物とかそんなものを扱う店屋に変えてやってた」。
惣新田村の女性の民業は武蔵国郡村誌に「耕織」と書かれています。バスの行先である春日部は近代養蚕学の始祖、練木喜三が生まれ育った町です。
バスは東川の細道を抜けるとこの小さい十字路へやってきました。先に見える国道4号バイパスはまだ存在していません。そして十字路の前後に「榎木下」というバス停がありました。榎木下は地名にも字名にも残っていません。ここの字は「一ツ谷」というのです。
ということは榎の木があったはずですが十字路のすぐそばにうっちゃらかってるこの木の根っこは榎ですかね。
バスに乗っていたらさぞ面白かろうくねくねした道をさらに1kmほど南行すると杉戸町の境界標を見ながら中島村から流れてきた水路を越える古葛西橋を渡ります。杉戸町椿すなわち再びわたくしの故地、下総の地を踏むのです。
橋の向こうの川面がかの有名な中川です。中川と聞いても新砂との間に横たわるやたらぶっとい川だとしか思わず今日も下流でインドカレーをむさぼり喰う葛西の人々に見せてあげたいものです。この中川のか細いがしかし、自然でたおやかな流れを、そしてガンジスにもまさる美しさを!
古葛西橋を渡るとすぐ右手に船渡橋が見えてきます。この橋を渡って春日部方面へ向かいます。
橋上に見える朝日バスは関宿は関宿でも西関宿ではなく宝珠花を経由して関宿中央ターミナルに行くバスなのでこちらとは反対側へ曲がっていきます。
ところで橋のたもとは商店のようなたたずまいの家屋が多いように見えます。
昭和30年杉戸町一周マラソン大会のゴール地となった船渡橋(広報すぎと)
昭和45年頃の船渡橋(『すぎと』杉戸町教育委員会)
結構な町並みとは思われませんでしょうか。遅くとも昭和48年まで東武バスはここに船渡橋ではなく船渡町という名前のバス停を置いていました。
さすが下総国だ、なんとキッコーパンのお店まである!とっくにキッコーマンはパン製造から足を洗っているというのに。後年カリンカと名を変えて「朝一番早いのはパン屋~のおじさん」とテープ流して朝一番ではなく夕方うちの近所で移動販売してた軽トラが懐かしい。スプライトの看板の文字が消えてブラジルの国旗みたいになってるのもまた素晴らしい。
中川を下に見ながら橋を渡ると対岸の堤の上を北上する道があります。この道の終わりに埼玉彰華学園という確かアパレル関係だったかと思いますが専門学校が昔あって朝夕の通学時に東武動物公園駅~埼玉彰華学園間の東武バスが走っていた道です。
渡り切ったところに船渡橋のバス停がありました。現在あるバス停を見ると朝日バスは船戸橋、背後に立つ杉戸町内巡回バスは船渡橋で漢字が違います。わたくしの記憶が正しければ東武バスは画数の多い「船渡橋」でした。
微妙な上り坂の先にシェルスタンドがあって信号機付きの交差点があります。当時はやはり信号機などなかったと思われますが春日部駅行きのバスはここを左折していきました。
ところでスタンドのサインポールの根っこにはある小川が流れております。河道跡があります。
サインポールの根っこにはぺんぺん草やらつる草やらがよく伸びている茂みが北に向かって続いています。
一方、道の反対側を見やるとスタンドの白い壁と一段高い畑地の間に一本の灌木が植えられ地表は埼玉名物そこらへんの草よろしく様々な野草類がこれまた元気に生い茂り南へ伸びています。
この河道跡こそが下総国と武蔵国の 国境
国境を定めた時代にはこここそが中川本流であって、下総国図という江戸時代に関宿藩と古河藩が共同で製作した地図にもこの川を以て下総国葛飾郡椿村と武蔵国葛飾郡並塚村の境目としていて、明治16年製作陸軍迅速測図「埼玉縣武蔵國北葛飾郡惣新田村」でもこの河道のど真ん中に令制国界線を表す破線が引かれその西側に武蔵国、東側に下総国と書いてあるのです。
ローカル路線バス乗り継ぎの旅Zだったら梅宮アンナと一緒にぴょーんとしなければいけない。
異国の人が書いたガリバー旅行記にも登場するという菜の花体操の国、下総ともここでお別れ。今日もくれゆく異国の丘に友よ辛かろ切なかろ。ここからはずっと異国、武蔵国を往きます。
ではまた次回。