特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野田市駅~小山経由~岩井車庫線を辿ってみた 2

2016年10月30日 17時49分36秒 | 旅行






野田市駅を出てから1時間弱、利根川を越えて茨城県に入り「芽吹橋北詰」→「小山入口」と着ました。

 
今現在茨急が岩井車庫に向けて走っている路線は昭和の御世「七郷(ナナゴウ)経由」と呼ばれていて野田市駅前の乗り場にも「七郷経由」と書かれいて野田市駅で乗って運転士さんが再生ボタンを押すと「このテープは・・・七郷経由岩井車庫行きです」と音声が流れていました。
 野田市駅のポールには「七郷経由」と一緒くたに書かれていて分数字の右上に黒点が打たれ、凡例欄に「● 小山経由」と書かれていました。
仲町や愛宕駅といった途中停留所の時刻表には「小山圣由」と糸へんのない「圣」が書かれていました。

茨急は小山入口をかすめ通るだけで小山地区そのものには入らず県道土浦野田線を道なりに北上し続けます。
一方、小山経由岩井車庫行きは小山入口停留所から150メートル程歩くこの交差点でぐいっと左折し県道岩井野田線を北上しておりました。
当時はこのようなにぎやかな道路標識のたぐいが全く無く、そもそも野田、岩井あたりの信号機はこの『矢作』のような交差点名標識など付いておりませんでした。


 
左折するとすぐ「岩井グリーンランド」という戸建てのお建物が並ぶ新興住宅地的なものが道路右側に見えてきます。
20キロ制限の自治会手作りの看板とかその背後に公衆電話があるのは昭和50年代後半の光景と変わっておりません。
住宅地内の道路は舗装されておらず砂利道だったように思います。
東武時代このあたりにずばり岩井グリーンランドという名前の停留所がありましたが、ばんどう号のはもうちょっと先にありました。

 
 「ばんどう号」というだけに阪東自動車がやってるのかなと思ったら関東鉄道ですねえ。100円というのが嬉しいです、前払いかな?後払いかな?12時33分に乗る予定でしたが、10分以上過ぎてからの現地到着でどうしようもない。ここから歩いて辿ることにしました。
岩井グリーンランドは昭和46年に分譲が始まった所ですが、それ以前は「浅間沼」という沼沢地であってバス停も岩井グリーンランドではなく「浅間沼入口」が停留所名だったそうです。

 
反対側にもポールがあって覗いてみたらこの有様。今は鉄道駅まで行かないので利用者いないんじゃないですか。
往時は野田市駅行きに乗ってくる親子連れとかいたんですけどね。


 
岩井グリーンランドを過ぎて左手の田んぼと芽吹大橋の眺め。上り坂を終えて右に見えるヨコハマタイヤ。全然昔から変わってません。

 
「莚打」停留所跡。ムシロウチと読みます。運賃区界でした。ムシロには「莚」と「筵」の異字体がありますが東武バスは草かんむりで書いていました。
小屋もなにもありませんがこの道の曲がり具合を見ているうちに幕式運賃表示器に「莚打」という文字が下からズリズリせり出てきた光景を思い出しました。
対岸野田市にも同一地名があります。
川間在の祖母が幼き日の母に語ったところによると、小山の渡しとはまた違う「莚打の渡し」というのがあって白菜の行商の人が乗って川間村の漬物屋まで売りにきていたそうです。
 先に見えるスチールリーフなる会社さんは昭和時代、「天地金属」といっていたと思います。
手前の倉庫会社のようなものは存在せずなにか背の低い建物で、道路の左側は木一本も無く土手沿いの人家まで見渡せて、5月のGW中ならば青空にひるがえる大きなこいのぼりが何本もたなびくさまはさながら巨大な水族館を見やるかのごとき感があり、小学5年生の少年をしてその心を釘付けにするまことに美しい風景がありました。

停留所ほど近くにこれから向かう中川小学校の分校が当時はあり、日曜日だというのに賑やかしい学童らの声が聞こえてくることもありました。
分校は「岩井市立中川小学校 莚打分校」といって岩井グリーンランドの子供も通っていました。



北上を続けるとアップダウンがあります。
かつては路面がこれほど綺麗ではなく絶えず凹凸があり、オンボロバスの車内に起こる凄まじい縦揺れはこのままではプロペラシャフトが断裂するのではないかと思うほどでした。
沿道の右側は当時からなにかご覧のような比較的大きな工場のようなものがあり、一方左側はヨシとかアシのようなものが生えた沼のような荒地でした。


「原山入口」という停留所が、日中快晴下でもこのうす暗さのこの辺りにあったと思います。人の乗降はちょっと記憶にないですね。

 
小山の地名が出てきました。
記録的な野菜高騰で苦しむ都会では信じられないほど広々としたサニーレタス畑が沿道に広がります。
マヨネーズかドレッシングが欲しくなります。


「小山公民館」または「小山公民館前」の停留所跡。「前」が付いたか付いてなかったか忘れました。
今は「小山下集落センター」なる、ばんどう号のバス停が東武時代と同じポジションにあります。
東武バスの歴史を語るうえで欠かすことのできない『小山の渡し』はここからほど近くにありました。



小山の渡しに乗っている野田町行き東武バス。千葉ナンバーです。三太号にも似た代燃車でしょう(昭和21年『ふるさとの想い出写真集明治大正昭和 岩井』)

野田の丸三運送店によって昭和6年に始められたこの風変わりなしかしのどかな運行法は当時でも甚だ珍しいものだったようです。
昭和25年鉄道誌「RAIL FAN」に「(渡し舟を)黄と青のダンダラバスが乗っていく。この付近は釣りに良く猟に良く広々として大らかな風景はまるで野田線の性格を表しているようだ」と特筆されています。

野田市の元渡し守の方が語ったところによれば、「清水公園の花見時には人出が凄まじいので渡船にバスを2台乗せた。河川敷に生えている茅を刈ってよしずを作り、丸太を行けてぐるっと囲み風よけにして客の待場を作った、船頭は岩井側に休憩所があったがそれは小屋造りではなく川面に浮かぶ大船であった、大船には近所の民家から引込線を引いて電灯があり、暖房もあった。船内には畳が敷かれ布団があり宿泊できた。他の渡船場と違い小山渡船は東武鉄道のものなので設備が立派であった。一方野田側は川底が遠浅なので大船を置くことができなかった」とのことです。



中四つ角停留所跡。
当時と変わらぬ出光のスタンドが残っていたのですぐわかりました。
この運送屋さんの向かいにポールがあってパイプ椅子のようなものが置かれていたと思います。
四つ角というのは土地の言葉で十字路の意ですが、見ての通り言われなければわからないささやかな十字路ながらもバスから見下ろす子供の目にはしっかりしたものに見えました。

 昭和の御世の昔から、野田とか岩井のあたりはバス停間の距離がゆうに1kmはありました。
いくつも辿って歩いてくるとしんどいです。廃バス路線の旅で訪れる際はばんどう号の利用をお勧めします。
が、ここからは停留所間が詰まってきていかにもコミュニティの中心地の感がありました。無人の野を行くが如きだったこの道もこの辺から人の気配が濃くなってきて野田市民のソウルフード「キッコーパン」の薄オレンジ色の看板が付いたお店などあったとも思います。


中小山停留所跡。バス停はこの郵便局の前にあったと思います。
この道自体がセンターラインもなにもない道、すなわちポールが道の片側にしかない路線でしたが、現在ばんどう号の「小山上集落センター」なるバス停が、奥に見える相当な名家と思しきお屋敷の前に道の両サイドに立っています。
なお当時矢作の交差点から曲がって以降この県道には信号というのものがなく、うーーんと先の「篠山十字路」停留所まで信号機に出くわしませんでした。

昭和33年芽吹大橋が開通すると小山渡船は東武鉄道から野田市の個人へ払い下げとなり野田発着の路線は小山経由から七郷経由へ経路変更されます。つまり現今と同じです。
その代わり岩井市街へ繋がる「岩井~小山渡船場」という路線が同時期に開設されますがその終点は利根川河畔の渡船場そのものではなくこの郵便局のやや野田寄りにあった某個人商店前を終点とし折返のためそこだけ道路幅を広くしていたそうです。
小山と野田をダイレクトに結ぶバスはこの時中絶しますが、後年復活します。
復活したからこそ昭和50年代後半にわたくしは乗れたわけですが、復活した理由は後述します。




ばんどう号「小山上集落センター」バス停の先に見えるかわいらしいとんがり屋根の建物が小山保育園で、東武時代はそのそばに次のバス停「上小山」がありました。
このようにバス停間距離の詰まり具合から地元の人たちの生活の勢いとでも言うべきものが車内にいても窺い知ることができたのです。



駐在さんと中川小学校。この鄙びた雰囲気、道の傾斜ぶり、呆れるほど当時のままですな。


 
交差点ちょい先にやはりばんどう号の「中川小学校」停留所が東武時代と同じポジションにありました。
東武時代は「中川小前」といっていたと思います。
愛宕から乗ってきたお百姓のおばあちゃんみたいな感じのご婦人とか土地にそぐわぬ垢抜けた服を着た中学生のお姉さんなんかがよく降りていました。

大橋の名を「芽吹」と名付けたのは田中秀穂さんというこの小学校の校長先生だそうです。
開通時には中川小と莚打分校の児童とで構成された鼓笛隊が演奏しながら大橋を野田へ渡ったそうです。

ところで茨城県教育委員会は何度も本校への吸収による莚打分校閉鎖を試みたようですが、御覧のように大人でもヘロヘロになるほどの通学距離がネックとなりました。
県と市は東武に掛け合い、昭和54年4月、小山で折返運行していた「岩井~小山渡船場」線を延伸し分校付近も通過するようにして分校児童が本校へ通えるようにしました。
おそらく補助を出していたと思われます。
この時理由は分かりませんが延伸距離は分校どころか県境を越え大橋を超え愛宕駅を超えて野田市駅まで達しています。それがこのブログでお話している野田市駅~小山~岩井車庫線なのです。

さらに数年がたち、学区変更があって平成4年から岩井グリーンランド在住の児童は中川小学校から七郷小学校へ移籍することになりました。
七郷小学校は小山経由ではなく七郷経由の路線途上にあります。

グリーンランドの子がいなくなれば児童数激減ということで同年4月路線廃止。これが本当の別れとなりました。

ところで七郷経由は前年に東武から茨急バスへ移管しています。
ではこの路線も最後は茨急がやっていたのかというとそうではなく、地元の方によれば「蜜柑ぽい色したバスだった」そうです。


小山経由の核をなす小山地区はここで終わりですが、路線はさらに北上を続けます。そしてバス停から次のバス停までの間がまた長ーーくなるのです。そしてそれこそが太古の昔、小山の渡し船で利根川を渡ってきた野田のバスが岩井市街に向けて走っていた路線ではなかったかなと思われます。



つづきはまた次回に。


6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (坂東市民)
2016-11-01 22:47:38
七郷→ナナゴウですよ
返信する
Unknown (RB10)
2016-11-02 06:45:11
ご指摘ありがとうございます。誤記失礼しました。ナナゴウ小学校ってありますものね。
返信する
Unknown (坂東市民)
2016-11-02 10:35:33
他県では七郷と書いて、ナナサトと読む地名の所もありますもんね。

それにしても、小山経由、懐かしいですね…。その昔、岩井→北越谷行きもあったのですが、現在も走っていたらなぁと思うことが多々あります。
返信する
Unknown (RB10)
2016-11-02 19:13:32
岩井北越谷線は東京に繋がってる駅まで直接たどり着ける大変魅力的な路線でした。惜しむらくは運賃と所要時間が桁外れだったことですかね。
返信する
こんばんは^^ (たにむらこうせつ)
2016-11-02 19:31:41
天気も良く街もよく・・・いいところですね!
行ってみたくなりました(^-^)
みんなのブログからきました。
詩を書いています。
返信する
ありがとうございます (RB10)
2016-11-03 08:57:29
たにむら様。ご覧くださりありがとうございます。良い所ですのでぜひ一度足をはこばれますよう。岩井の方々も優しく迎えられると思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。