特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野田市駅~小山経由~岩井車庫線を辿ってみた 完

2016年11月03日 12時00分00秒 | 旅行
今や失われた東武バス野田市駅~小山~岩井車庫線をとぼとぼ歩く旅も小山まで辿り着きましたが、「経由」ですから小山では終わりません。
ここからがバス停からバス停までが長いのです。それはバスに乗っていても「ずいぶんあるなぁ」と思うほどでした。


中川小学校を過ぎると小山の集落も終わって長谷地区へ入ります。さて、長谷と書いてなんと読むでしょうか。
ここからまたまた人の気配が乏しくなり畑と森が続いてます。見覚えのない信号機付きの広い交差点がありました。と、ここで反対方法へ行くばんどう号を目撃。グレーに水色の関鉄カラーかと思ってたらあざやかな夕焼け色のボディが夕焼けに照らされています。


交差点から100メートル前後北上したあたりの下原停留所跡付近。この辺だったと思いますがこのシャッター下ろして閉店しちゃってるコンビニぽい店を見ていると、「そういえばなんだかいたく地味な個人商店があったような、なかったような」とおぼろげな記憶が出てきます。鉄道と違って廃バス停というのは残滓がないので「自分ないし他人の乗降があった」記憶に頼るしかないのですが自分が乗った時に人の乗降があった覚えがないと場所の覚えもなくなってしまいますね。


下原を過ぎると右手に大きくそびえていた送電線の鉄塔。このような巨大物のほうが記憶に鮮やかに残ってしまうのです。この鉄塔のふもとの畑の広がり、そしてコンバイン。小学生のころの車窓の風景そっくりでわたくしはしばらくここで歩みを止めました。鉄塔の背後に見える人家の数が当時よりはいささか増えたかなと思います。



ほどなく2,3分ほど歩くとばんどう号の「東信団地西」なるバス停がありましたが、畑の向こうのちょぼちょぼ見えた家々がその東信団地のようです。当時はここにバス停などありません。北関東のバスの停留所間距離は23区内ならば鉄道1駅間分はあると言っても過言ではありません。


長ねぎ畑の矢印のついたメモリアルホールナントカの看板の奥に丸っこい形の木が見えます。その木が道路上に作っている日陰あたりに「天沼」というバス停がありました。地味ながらここも十字路になっています。昔からなかなか油断のならない十字路で、あるとき自転車か原付バイクが飛び出してきてすさまじい急ブレーキとなり、後部シートに座っていたわたしのかばんから当時一番の宝物だったミッキーマウスのゲームウォッチが飛び出して運賃箱のあたりまですっとんでしまった、ということがあります。


 
今現在さらに北上していくとセブンイレブンがありますがこういう新しい建物を見たら昔の記憶がなかなか蘇らなくなりました。天沼の次は地名そのままの名前のバス停「長谷」があったはずですが場所がどうにも出てきません。またこのセブンイレブンのまん前に「前原」なるばんどう号のバス停がありますがここではなく、道の形状からすると「長谷」はもっと北方か、あるいは道の形そのものが変わってしまっているのか。
 ところで「長谷」の読み方をお答えしましょう、ナガヤと言います。



車窓からこのようにヒョコと突き出た日石の看板が見えたのが記憶に残っていますがもっと手前側建物は少なくより鮮やかに見えたと思います。


岩井市もシンフォニーホールとかバイパス道路など作っちゃって探すのに一苦労しましたが、このフェンスで通れなくしている旧道跡のあたりが当時はちょっとしたカーブで「萱場」なるバス停がありました。この旧道の狭さを見よ!こんなところを図体の大きい日野RE140クラスの路線バスがずぶずぶ走り抜けていたのです。


 萱場停留所跡を探してる間に、近くで柿もぎしてる人がいて「道が30年前とはずいぶん変わりましたなあ」などとお話していたらおいしそうな柿をいただきました。ありがとうございました。

  
萱場を過ぎると昔同様この坂道。ほどなく歩くとばんどう号の「篠山十字路」停留所がありますが東武時代はここではありません。

 
視界が開けてきて見えるこの交差点が篠山十字路。右の酒屋さん、すいぶん小綺麗になったなと思いますが当時は演歌歌手のポスターなんかがぺたぺた貼ってあったとも記憶してます。当時は日差しによってはバスから店内がよく見えて中でガリガリくんのような棒アイスかじってる子供と目があったりしました。東武の停留所はここを右折して・・・


自動車屋さんの富士火災看板の向こう隣の建物に篠山十字路停留所のポールが立っていたと思います。当時からある程度の商業集積が感じられる界隈で「やっと街についた」という安堵感と「もう畑が広がる開放感あふれる光景が見れないのだ」という残念な気持ちがないまぜになったものです。町のわりには今茨急が走っている本線と近いので乗降客はそれほどいなかったと思います。篠山十字路は境車庫~岩井車庫線も経由していたそうですが一度も目の当たりにした事が無いです。


道なりに東進し今も昔も左側にGSのあるこの交差点を左折して七郷経由の本線と合流し岩井車庫へ向けて最後となります。この狭さが当時のまま。ここで信号待ちしていると野田では今まで見たことのない色をしたバス、すなわち関東鉄道の水海道行きの車両が通過するのを見かけて「?なんだ今のは。どっかの観光バスかな」などと最初は思ったものです。
小山入口で七郷経由と別れてからここまで所要20分くらいだったしょうか、小山経由単体での路線は終わりです。前回以前にお話したように信号らしい信号がない道を行き来するのですから時間調整のため時速30キロ台でのたのたーと走ってたどり着いたものです。
運賃は七郷経由より20円か30円高く大人運賃であればその倍の差がありました。


 
かつては岩井警察署、今現在は岩井地区交番といってるここはわたくしの時代は「岩井幹部派出所」と言っておりました。北越谷駅から遠路はるばる来た茨城急行の岩井警察行きの終点でした。バス路線一つ練り歩いて来たらもう全身くたびれて手がブレブレ。


現在の岩井交番前の光景。当時「とりせん」はなく確かブロック塀に囲われた専売公社の工場でとりせんと同じように交番前からも見えました。手前にある駐車場ともなんとも言えない広めのスペースは当時もあって、特段壁などで仕切られることなく今と同じようにぽつぽつ車が止められていて、とりせん側に民家1軒か2軒あってそのお宅とは潅木を植えて境界じみたものを設けていました。
わたしは最初北越谷あるいは愛宕駅から来て「岩井警察署前」止まりの茨急の待機場か何かだと思っていましたが、どうやら別場所にあったようです。昭和50年代後半ならば茨急は岩井辺田~沓掛~下妻という路線も持っていて後年知ったところによるとその路線も岩井警察署前を経由していたようですが、一度も見かけることなく今日に至ってます。


 
平成13年9月に撮影した岩井車庫。東武から茨急への移管後10年が経っていました。岩井車庫発北越谷駅行きの旧塗装車両が映っています。バス停の画像を見るとまだ愛宕駅止まりが残存していたようです。この時点で小山経由野田市駅行きなぞとっくに廃止されてますが、小山経由は岩井車庫へ着くと次発まで3時間くらい間が空いていて一人旅の小学生にはとても待っていられませんから、本数が圧倒的に多かった七郷経由で野田へ帰っていました。

  
それからさらに15年の歳月を経て平成28年10月の岩井車庫。隣に葬儀屋ができて面積がずいぶん狭くなりました。車庫じゃなくほとんど折返場として機能しているようです。
それにつけてもバス停の廃止行き先を隠したポールの白いテープがものさびしく見えます。


本日11月3日、関東鉄道のイベントがあるそうなのでちょっと触れておきたいと思います。
東武・茨急の車庫からさらに500メートル北上すると関東鉄道の「岩井車庫」があり水海道駅と結ぶ路線がありました。
現在は岩井バスターミナルなる施設に終着点を移していて、車庫は目の前の大きな会社の駐車場に併呑されてしまって自家用車の岩井車庫と化してます。
何屋さんか知りませんがこのデカイ会社、昭和の昔からありますね。また車庫と言っても野田の東宝珠花停留所とそっくりの砂利敷きのただの転回場でした。転回場のど真ん中に京成グループ特有の細い赤ふちどりの真っ白い円板のポールが立っていて極太の毛筆手書き風に「関鉄岩井車庫」と書いてありました。子供心に「東武は自分の岩井車庫を東武岩井車庫とは決して言わないのに不思議なことだ」と思いました。
13時前後に小山入口で降りてからここまで歩いてくる間に完全に陽は落ちて夜になりました。

 
ウヒィィ、関東鉄道も随分本数が減りましたな。(岩井地区交番にて)


東武と関鉄という鉄道会社のバスが共存していながら鉄道が無い岩井の街もいつしか坂東市と名前が変わり、渡し舟にバスを乗せることもなくなり、ビクターの巨大工場もヨークタウンとやらに変貌してしまいましたが、遠い昭和の昔から路線バスの車窓を彩るこの辺田並木が30数年の無沙汰を叱る平将門公のように今なおそそり立っているのがうれしいです。


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