海のはるか向こうにある中国の武漢とやらから恐ろしい伝染病が入ってきて世界中大騒ぎになっておりますが、中国の武漢ではなく漢王朝に始ったと言われるひなまつりはまず中止になりません。その昔「エスパー魔美」というアニメがありましたね。その中にひな人形に纏わる回があって埼玉県岩槻市へ行くというストーリーでした。その回は当然3月3日が近づいた頃のOAであったでしょうが、わたくしはすでにひな祭りもへちまもない男子高校生になっており、昭和天皇がお亡くなりになるわ共通一次が迫ってくるわ消費税が登場して1円玉の不足が予想されるわ、のんきにTV点けてる場合じゃなかったはずですがのんきに見てしまいました。そして「あぁかつて安い子供料金でバスを乗り継ぎはるばる岩槻さらに大宮まで行ったことがあった」と小学生時代をしみじみ思い出したものでした。ところで現代の受験生諸君は「共通一次」が何かわかりますか?食べてもおいしくないですよ。
ルートは野田~越谷~岩槻~大宮というもので越谷から先へバスで行ったのは初めてのことでした。
野田~越谷間は野田出張所管内路線なのでそれまでに幾度か乗ったことがありました。
今はどこをどう見回しても見えませんが当時、野田から越谷へ来ると駅の向こう辺りにキッコーマンの看板が見えました。実態は規模の小さい商品倉庫だったそうですが初めて見た時わたくしは「おぉぉ越谷駅にも醤油の詰まった貨物列車がいるのか?!」と目をぱちくりしました。
野田市駅と越谷駅を結ぶ路線は「野03」が系統番号で、同じ越谷市内の北越谷へ行く路線とは市内大沢橋で分岐しこの駅前通りに入って駅へ向かっていました。越谷営業所の車両も柏と同程度に方向幕の大型化が進んでいて「越ナントカ」と緑色の楕円に白抜き数字の方向幕のバスとよくすれ違いました。
同じアングルの昭和46年の越谷駅前(『目で見る埼玉百年』埼玉県)。とんがり屋根ぽいのが越谷駅のホーム間の渡り階段でゼブラ信号機の向こうには、フロントガラスにセンターピラーがあり天井のベンチレータを開放させてこちらに向かってくる東武バスが1台見えます。左右下端に「新石一丁目」の橙色のバス停がありバスがこれから来る方にはどうやらそのバスを待っている雰囲気の白エプロンの女性と男の子の姿があります。
わたくしがバスに乗ってきた時の印象は現在よりもこちらに近い感じでした。
越谷駅前のロータリー。ロータリーが出来たのは昭和57年冬の頃だそうですがわたくしの越谷駅の記憶にこのような整然とした姿は全くありません。あの頃終点の越谷駅周辺はそのロータリーに改修すべく駅舎も駅前スペースも工事の真っ最中で、駅から何から周辺の建物はみな高い防護壁と黄色と黒のフェンスに覆われ風が吹くと土煙りが舞っており、到底市の玄関駅とは思えない光景でした。ロータリー広場の記憶がないのは恐らく改修工事後に野03に乗る機会がなかったのでしょう。
昭和51年頃の越谷駅前。(『越谷市制50周年記念誌』から)
左上に駅舎が、横断歩道の右にいすゞBUの東武バスが1台見えます。
バス停は駅前ではなくこちらに頭を向けて4台並んでいるタクシーの左反対側、この画像では映っていませんが、台石から伸びるバス停がいくつか突っ立っていました。それらには野田市駅と岩槻駅以外は今思い出そうとしても思い出せないほど見たことも聞いたこともない地名が書かれていました。
(『バスと歩んだ昭和~平成の駅前風景』グラフィス)。駅前に色褪せて時折工事の土ぼこりが吹いてきて見えたり見えなかったりする大きめの商工地図があって駅の北方に「バス車庫」と書いてありました。
ロータリー完成後に駅を南へやや下った先にバス専用の転車台、ターンテーブルが設けられたことが知られていますが残念ながらわたくしは一度も見たことがありません。転車台を初めてみたのは境町~古河駅のバスに乗って終点の古河で見た時で車両も回ってますがなぜか方向幕もくるくる回しており「小山遊園地」という幕と
「小山遊園地←小山駅」という側面方向幕が見れました。
昭和57年のロータリーの画像(『越谷市勢要覧』越谷市)によるとルーフの付いたバス乗り場が2つありうち1つに国際興業が映っています。
ところがわたくしの記憶に越谷で国際興業バスを見たとかバス停を見たとかいう記憶がありません。
工事中のゴタゴタで気づかなかったか越谷には東武バスしかいないと思い込んでいたからであろうと思います。
かつて越谷駅の改札は一か所しかなかったものですがいつのまにか西口というのができて岩槻駅行きも西口から出るようになってました。ライトが片側1灯ずつの日野レインボーですな。では乗りましょう。
昔は運賃箱のすぐ右にロッドがとんでもなく長いギアがあって白手袋の左手で握りながらクラッチをぺこぺこ踏む様子がよく見えたものですが「ちょうど」のでかい文字しか見えません。
バス通りに沿って流れる元荒川の姿が小学生のとき乗ったとき見た面影を残しています。
あの日乗った時、わたくしと同じ小学生の2人か3人連れの男の子が乗っていて、席が空いてないので運賃箱そばの手すりに掴まっていました。オタク席に座るわたくしには目もくれず興味深そうに前方の眺めを見ていましたが、ちょうどこの川面が良く見える辺りで白いYシャツ一枚でパンチパーマの東武バスのおじさんがその子らに話しかけて「なんだ、『しらこばと』行くのか?」「うん」「おう、いいなあ」という会話をしていたのが懐かしく思い出されます。わたくしは行ったことがありませんでしたが学校で「しらこばとのプールへ行ってきた」とか話してる同級生がいたのでそういうプールがどこかにあるのだろうと思っていましたがこの路線沿いにあることを初めて知りました。
川面が見えてからしらこばと水上公園までの間に「野中ぼんち」というお菓子の名前そのものの面白いバス停があったはずですが今はただの「野中」になっています。
水上公園の看板の向こうに「BANDAI」という文字がありますがガンプラのバンダイと関係あるのかよく分かりません。水上公園入口のバス停からさらになん百メートルも歩いたところに本物のしらこばと水上公園があるようです。越谷駅ではなく隣の北越谷駅から夏季限定で「しらこばと水上公園直通バス」というのが当時東武バスによって運行されていたそうですが全く見かけた覚えがありません。「しらこばと」は鳩の一種で埼玉県の県鳥であることはかの「翔んで埼玉」で広く知られるところですが、千葉県の小学生であった当時のわたくしはその土地の名もしくはその土地にだけ生息する希少な植物の名前か何かだと思っていました。
LEDがぶつ切りになってしまいましたが「【越52】しらこばと水上公園 SHIRAKOBATO AQUATIC PARK」と表示を出したいすゞエルガミオとすれ違いました。この寒いのに水上公園に行くバスも珍しい。まるでカセットテープの波の音と水着つけたマネキンが置いてあるさいたまホイホイ参号機ではないかと訝しんでしまいます。
越谷駅を発って20分、どうやら岩槻市に入ったようです。
沿道にパン屋の工場があったことを覚えていましたがここでしたか。バス停がマキノウエというなんとも牧歌的な名前です。当時はバスの窓を開け放っていたからパンの焼けるいい匂いがしたかもしれません。
いよいよ岩槻の中心に近づいたようでバス停名に「丁目」が付くようになりました。安室奈美恵さんの元旦那さんの実家の病院が見えます。
さすが岩槻だ、バスからひな人形が見えます。
岩槻駅に到着しました。
しかし現在の岩槻駅にあの日あの時千葉県から来た少年の目に飛び込んできた岩槻の面影はほぼありません。
植込みのついたロータリーもなかったし、なによりさいたま市岩槻区ではなく「岩槻市」だったのですから。
このぽっかり空いたところには「TOBU」のネオンサインのついた東武ストアが建っていたはずですがなんだか更地になっててますます当時の面影を感じられなくなっています。
東武のバス停もこのような形ではありませんでした。また御多分に漏れず本数が随分減ってしまっています。「翔んで埼玉」で与野は黙ってろと言ってた大宮と浦和が仲良く同居しています。
わたくしが訪れるよりちょっと前、昭和52年の岩槻駅前(『岩槻市史』岩槻市教育委員会)
おわかりでしょうか、楕円で囲んだところに六面直方体の形をした電照式の柱があります。これが東武のバス停でした。そしてこれはわたくしの故郷、野田市駅前にあったものとそっくりでした。2時間ほどバスに揺られてきてなお、なじみ深い形をしたバス停に出くわした時県境を越え埼玉県のかなり中央部まで来たにも関わらずわたくしの心に非常な勇気が湧いてきました。そしてバス停には今日と同じく「大宮駅東口」と書いてあるのを見てさらにここから大宮までバスで行こうと思いました。バス待ちは大人と自分より遥かに背の低い子供が一人いて計5人ほどいたと思います。
「歓迎 ようこそ人形の町へ」のモニュメントが出来た頃の岩槻駅前。昭和46年だそうです(『目で見る春日部・岩槻・庄和の100年 写真が語る激動のふるさと一世紀』郷土出版社)
日野製のバスの方向幕に「大宮駅前通り」とあり大宮高島屋のマークが右に並んでいます。
さらに昔、昭和41年の岩槻駅前(『岩槻市史』岩槻市教育委員会)。何が嬉しいかというとキッコーパンの看板があります。
大宮行きのバスはそれほど待たずに来たと記憶しています。ところでこのポールの左にも等間隔でのりばが設けられていましたがそのうち一つに今まで見たことのない色をした不思議な物体があることに気づきました。
物体をよくよく見ると平日・休日などと書かれた時刻表がくっ付いていてどうやらバス停らしいということがわかりました。東武の電照式ではなく夜になったら真っ暗で見えなくなりそうな二面型のバス停標柱で、色使いはあたかも南海ホークスのビジターユニのようで白と深い緑色の2色でした。てっぺんに緑色の大きい丸が描かれていて3だったか4だったかバス乗り場番号を示す白抜きの数字がありました。丸の直下に「国 際 興 業」と漢字四文字がありました。国際興業なるバス会社がこの世に存在することはなんとなく知ってはいましたが東京の都心とかわけのわからん高級住宅街とかそうしたおおよそ自分とは無縁な土地をエリアとする東京限定のバスだと思い込んでいたので「なんで埼玉の私鉄駅にこんなバスが乗り入れているのか?」と驚きました。
さらに下に「鳩ヶ谷 行き」などと複数の行先が書かれていました。そのドカベン香川かはたまた麻雀の緑一色の聴牌にしか見えない不思議なバス停を凝視しながらわたくしはいろいろと思案に暮れました。「世界にはこんな色したバス停があるんだ。鳩ヶ谷って何と読むのか?鳩ヶ谷は東京か?車掌が乗っているのか?初乗りは東武より安いのか?」などなど。
久方ぶりに岩槻を訪れて周辺案内図を見てますと岩槻城跡公園なるものに目が行きました。埼玉県の城下町というと栗よりうまい十三里の川越城か「のぼうの城」の忍城しか知りませんが、なんと岩槻も城下町だったそうで藩主は代々大岡氏で、な、な、なんとダウンタウン松本人志さんが男前の代名詞として必ず挙げる俳優、加藤剛が演じた「大岡越前」の一族なのだそうです。揉め事があっても岩槻の人は収めるのが上手いでしょうな。
さいたま市コミュニティバスのポンチョが来ました。「南平野団地経由 慈恩寺観音」とありますがその慈恩寺にはな、な、なんと岩槻のひな人形と同じくらい美しい女優夏目雅子が演じた「三蔵法師」のお骨があるんだそうです。
しかしまことに岩槻は人形屋さんが多い。
金の屏風に映る灯をかすかにゆする春の風。
ここから大宮までバスに乗っていった話はまた次回に。
家の前は田んぼで、そこから子供心にエレベーターの塔が見えたのを覚えている。
今でもあるのかな?あの叔母の家の周辺は
どうなったのかな?とか今でも思う時がある。
既に叔母も亡くなり、家も手放しているので越谷に行くことは先ず無いが、いつかは記憶を辿って行ってみたいと思っています。
エレベーターの塔は日本エレベーターと縦書きになってた塔でしょうか。電車から見たことはありますが、バスは一回しか乗ったことないのでバスから見えたかどうか覚えないですねえ。
越谷駅前にはインディアンみたいなキャラの看板が飾ってあった
ロッキーバーガーがあったのを覚えていますがこれも現在は失われていますね。
越谷は東の方が賑やかで西の方はススキの原っぱ、防風林で囲った大きい旧家なんかが見えてのどかだったように思います。
しかし綺麗な眺めでした。