特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

越谷~岩槻~大宮をバスに乗って昔を思い出してみた2

2020年03月01日 00時02分33秒 | 旅行

桃の節句が近づいてきましたが皆さま手洗い・うがいはお済みでしょうか。

さて前回は越谷から岩槻までバスに乗りましたが、今回は岩槻から大宮まで乗りたいと思います。

私蔵の「平成5年4月1日現在」とある東武バス大宮営業所路線図では☆のところから☆のところまでになります。

 

 


今改めて岩槻の地に立ち時刻表を眺めますと大宮駅行きのバスの本数は北浦和駅行きと合わせても蕭条の感があります。

 

 

昭和54年の東武時刻表創刊号によるとかつてはこんなにありました。
恐らくわたくしが初めて訪れたときも同じ程度はあったのではないでしょうか。待っていたら3分くらいで来ましたから。


南海ホークスみたいな色使いの国際興業と柏駅前の谷沢スポーツ店の息子が入団したころの中日ドラゴンズのユニフォームのような色使いのコミュニティバスはともに先に行ってしまいました。

14:58発、日野ブルーリボンⅡの短いタイプの大宮駅東口行きが来ました。岩槻車庫から出庫してきたばかりのようで回送表示のまんまですが、扉が開いているので地元の人はせっせと乗り込んでいます。

 

始発地のすぐ次のバス停から人が乗って来ました。越谷からきた朝日バスとすれ違います。
大宮ゆきのバスは交差点を右折しますが、逆に左折すると「岩槻名店街」という知る人ぞ知る有名なスポットへ行けます。わたくしの記憶にありませんが昭和時代には岩槻と「白岡駅」を結ぶバス路線があってその途上にずばり岩槻名店街という名前のバス停があったそうです。また野田線が埼玉延伸するまで当地唯一の鉄道だった武州鉄道岩槻駅や岩槻本通駅は名店街方面にあって人形職人も現在なおそちらのほうに沢山いるのだそうです。


岩槻を出て7、8分で「大橋」を通過しました。この名前はよく覚えております。なぜならば当時運賃区界停留所としてこの名が運賃表示器の幕に書いてあったからです。

 

5年くらい前、南栗橋での東武鉄道のイベントに行ったらこのバス停の丸板が売り出されていました。この型がディスイズバス停という感じで最もしっくりきますな。

 

「風渡野」。これはちょっと読めない。小学生時代のわたくしもまず読めなかったでしょうなあ。「フットノ」というのだそうです。


七里駅入口なる交差点が出てきました。東武野田線に沿って走っているのだなということが分かります。もはや岩槻の人形店の看板は見られず大宮ナントカという看板ばかりです。


先の平成5年の路線図によると八木アンテナのはずですが今は「タムロン前」となってるバス停。アンテナがなくなってこの辺りの方々は埼玉政財界人チャリティ歌謡祭が見れずさぞやお困りではないかと余計な気を揉んでしまいます。


堀の内という所を過ぎると目の前に「清水園」という緑色の屋上広告が見えました。毎年チャリティ歌謡祭で県知事の前に清水園社長の女の人が出てきてシャンソン歌ってて「どこの会社なんだろう」と思ってましたがここだったのですね。
視界に入る建物は今まで見て来たものよりはるかに高度を増し、商都大宮が近づいてきたようです。

 

「大100」というすごい桁数の系統の国際興業バスのいすゞエルガとすれ違いました。大宮競輪場への無料シャトルなのだそうです。


「氷川参道」なる停留所へ近づきました。ここがどうやら大宮を大宮ならしめる武蔵国の一の宮「氷川神社」への入口のようです。

 

人形は顔が命、バスは安全が命。天沼循環という日野レインボーHRを右に見ながら15時32分無事つつがなく大宮駅東口に到着しました。しかしあの頃小学生であったわたくしが大宮で最初に眺めたのはバスではなく大宮駅前の累々とした建物でありました。

 

 


(『バスと歩んだ昭和~平成の駅前風景』グラフィス)。バスを降りた降車場は現在と同じところであったかと思いますが、バス降りてすぐに西武百貨店が見えたので大宮には西武鉄道があるのだと思いました。鉄道系列の百貨店は自社線にしか作らないものと思い込んでいたからです。

 

 

さらに降車場のそばに透明のガラス扉がありその扉には柏ローズタウンと同じ薔薇のマークがありました。わたくしは幼い頃から親に連れられて以来高島屋とそごうは柏にしかないものと思い込んでいたので、その建物を見上げたところてっぺんにハシゴ高の高島屋マークがあるのをみて「なぜここに高島屋が建っているのか」と不思議に思いました。しかしバスの降車場が高島屋の真ん前であることは柏と全く同じであったのでバスの降車場というのは常に高島屋の前につくることになっているのか、などとも思いました。

 

 

 

(『目で見る埼玉百年』埼玉県)。駅に近づくと東武バスももちろんありましたが、緑色の国際興業もいました。国際興業はバス停と同じ色味をしており迷彩された戦車のようだなとも思いました。行先は経由地から何から何まで想像できない地名ばかり書いてあり見ていると疲れてくる思いがいたしました。見たことない色味の見たことない漢字で行先を表した国際興業バスの、つり革ごと左右に大きく揺られている乗客を見ながらわたくしは「この人たちはこの緑色した不思議なバスと添い遂げて生きるのだ、万が一野田に来てバスが緑色してないのを見ればそれが路線バスであることすら分からないであろう」と思いました。

 

 

(『目で見る埼玉百年』埼玉県)。またどこ行きかわかりませんが西武バスも1台か2台紛れ込んでいました。西武バスは一本の赤いラインが車体の前後左右にあって茨急バスにちょっと似ているがそれよりは白味が多くて、リアかサイドに「西武ライオンズ」のレオマークしか描画してない四角い広告板が付いていました。


(『バスと歩んだ昭和~平成の駅前風景』グラフィス)。しかしそれが却って西武ライオンズの子供会にでも入ってないと乗れないような貸切車両のようなあるいは特定輸送のような敷居の高い印象を受け、一般人がほいほい乗るバスではないようにも見えました。

 

(『目で見る埼玉百年』埼玉県 昭和46年)。

(『写真で見る大宮の昔と今』大宮市・大宮市教育委員会)。
東武バスはこれはなじみ深いカラーリングですので気楽に眺めることができました。方向幕にはどんなとこが書いてあるのだろうと駅前の座りのよさそうな地べたに体育座りをして鼻くそほじほじしながら、行き交う大人の足の間からチラチラ観察をいたしましたが系統番号はみな大宮の大の1字に数字を付けて表しており「上 尾 車 庫」とか「三進自動車」など見ていておりますと「バスが三進自動車とかいう自動車屋へ着くとその自動車屋で転回するのかな」などと想像をめぐらしているうちに乗りもしないバスを見ることのつまらなさと頭の疲労を覚え駅舎へ入ると野田線でそのまま梅郷まで帰りました。 昭和48年の三進自動車(『交通東武』東武鉄道株式会社)

大宮・梅郷間は大変時間がかかります。電車にはオタク席なんかありませんから、ロングシートという目の前に知らない人が顔をこちらに向けて座っている仕様の座席に何十分も座っているのが気持ち悪くてしょうがありませんでした。当時のわたくしが前向シートしかなかった路線バスにはまった理由の一つに「座りさえすれば、始発地から終点までまんじりともせず最前席を陣取っている妖しい子供に注がれるであろう 目ざわりな大人たちの視線を感じなくてすむ」ということもあったと思います。バスには一人掛け席が多く今話題の「トナラー」被害にあうこともありません。運転士席からミラー越しに左最前席を見るのは難しく、子供好きそうな運転士のおじさんがわたくしに話しかける時には、信号待ちを利用して左後ろに首を振り「なに小?」とか「いつまで休みだよ?」とか聞いてきたものです。

 


ところでここに『大宮市史 近現代編』(大宮市教育委員会 昭和57年)の1ページがありますが「昭和12年大宮町の乗合自動車運行表」とやらを見ますと東武野田線の前身すなわち戦前野田市の先人たちが野田醤油社の醤油マネーを投じて築き上げた総武鉄道の名があります。これによると今しがたわたくしの乗った大宮~岩槻間のバス路線は総武鉄道のものであったことがわかります。最上段の大宮~岩槻~粕壁間というのは本当は「岩槻自動車」という野田と全く関係のない岩槻市の人々が出資して大正期にできたバス会社の路線だったものです。総武鉄道が昭和5年野田町から大宮まで延伸したとき価格競争を挑んで総武鉄道を苦しめたので邪魔するなら併吞してしまえということで昭和10年に総武鉄道に買収されました。一方、岡庭某という人が越谷市にいて大正9年からフォード、シボレー、ダッヂブラザー車を投入して「越ヶ谷自動車商会」を興し、路線バス事業を営んでいましたが遅くとも昭和16年までに全ての路線を総武鉄道へ譲渡しています。

 

つまり越谷から大宮まで乗って来た今回のバス路線はことごとく野田の先人の手にあったものであった、ということです。総武鉄道のバス路線網はたいそう広い。だから東武と合併した後も野田自動車営業部が設けられたのです。小学生のとき越谷駅で岩槻駅行きのバスになぜ乗ろうと思ったか覚えてませんが何かに誘われるような、このバスに乗っても自分は安心できるような気がして乗ったように思います。野田に生まれた小学生が一人で理由なく乗り継いだバス路線がたとえ野田営業所の手を離れてしまったとしても同じ野田の地に眠る先人たちが支えたバス路線であったことは到底偶然ではなかったような気がして、今思い返しても因縁めいた不思議な思いをいたすのです。


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