特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

野12 野田市駅~東宝珠花線を懐かしむ。その2

2018年01月03日 23時51分38秒 | 旅行

新年明けましておめでとうございます。
一富士、二鷹、三路線バスと申しますように、正月になると路線バスが登場するテレビ番組が多くなりましてまことに結構なことでございます。
かつてバス路線が道路交通の邪魔者呼ばわりされて減便廃止が相次いだ呪わしく禍々しい時代を知る者として隔世の感を禁じ得ません。


今回も前回に引き続き、禍々しい時代に翻弄され消えていった野12 野田市駅~東宝珠花線の幼き日の思い出をお話したいと思います。




 「蕃昌」を右折していよいよ野12だけの路線を走ってゆきます。
いきなり国道16号線と交差する「船形南」という交差点に出くわします。

従前お話したことがありますが、この信号は一度引っかかると3分以上待たされる困った交差点です。
夕方16時台発の便だとその長い信号待ちの間にクレームが飛んでくることが間々ありました。
駅近停留所の愛宕神社前とか清水公園入口から境車庫行きと間違えて乗ってきた人が「乗り間違えたっ」と申告してくるのです。
そして運転士と二言三言ごちゃごちゃやり取りしたあと大抵ここで降ろしてしまいます。
運賃を取って降ろすこともあれば取らないで降ろすこともありました。

 当時この路線は野田市駅発が11時台、16時台、18時台の3本、
東宝珠花発はその折り返したる12時台、17時台、19時台に加えて野田から回送でくる始発6時15分発を加えて計4本がありました。

 わたくしは小学生だったので野田への帰宅が20時過ぎになると日頃の動向が親に怪しまれて好ましくないし、
始発に乗るために朝6時に隣町の外れまで子供が一人で向かうというのも不可能なので、乗りたいと思ったら野田市駅発11時台か16時台の2択になります。

 12時台の野田市駅行きと16時台の東宝珠花行きは沿線在住の子供らも乗ってくるので結構混んでいて立ち客もいました。

 交差点付近は今日イオンの物流センターとか明るい施設がありますがかつては施設らしい施設は全く見当たらず、
深い森とそれに囲まれてひっそり建つ農家の陽光に明るく照らされた屋根の瓦しか見えませんでした。
交差点を超えれば道路幅は2/3ほどしかありません。
路面のアスファルトは道路全域を覆ってはおらず路側帯に相当する部分はアスファルト合材の厚み分だけ低くなって
雑草の生える土の地面が露出していました。
アスファルトがある以外は『となりのトトロ』の稲荷前バス停のような光景です。
 
 ある日、11時台発に乗っているとこの辺りで前方からコンバインのようなトラクターが一台、地面に泥を落としながらゴッゴッゴッゴッとやってきました。
到底すれ違いできないので運転士さんは左右両サイドミラーをちらりほらり見ながら交差点まで後退しコンバインをやりすごしました。
こんな路線でもすでにワンマン化していて車掌さんなど乗っていません。
さらにバックモニターなど夢のまた夢の時代です。
またそのサイドミラーが今日の車両のそれに比べると当時は非常に小さい小さい。

バスの後部は交差点まで侵入しているので「うわ、衝突事故にならないかな」とバス好きの少年をしてその心胆を寒からしめる豪傑ぶりが、
昭和時代の東武バスにはあったのです。






田端と書いてタバタではなくタッパタと読む野田市まめバスのバス停が現在ありますが、交差点を超えて最初の停留所「中村」はここにあったろうと思います。
ポールは道路の右側にしかなく、高齢者ばかりでしたが乗り降りする人はいました。




 
 次が「多賀神社」。
佐久間なんとかという会社は当時はなく、大人くらいの背丈の草がぼうぼうに生えていました。
社殿屋根が見えるのがその多賀神社です。
神社に入る小道の入口にバス停が立っていました。
利用状況はやはり高齢のおばあちゃんみたいな人が一人いるかいないかという程度と記憶しています。





 バス停「船形」があったのはこのあたりであろうと思います。。運賃区界停留所でした。
境車庫線にも「船形入口」という停留所がありましたがそれとは全く異なる地にあります。
 当時バス停は「ヤマダ商店」という酒屋のような駄菓子屋さんのようなそんな感じの個人商店の、道を挟んだ真向かいに1本立っていました。
困ったことにそのお店が現在全く見当たらなくなっています。
ここは老若男女問わず乗り降りがありました。
子供なりに「ここは地域の中心点なのだろう」と思いました。

 以前大利根温泉の回で当時のバス停は個人商店の前が多いと言いましたが、
当時の野田周辺の路線バスの停留所前にある個人商店というのは何故か看板がどれもこれもよく似ていてコカコーラの赤いロゴと黒文字の屋号商号を一枚に描く、というパターンのものでした。
野田市には『利根コカコーラ』というコカコーラ製品のメーカーがありますからコカコーラの看板は行く先々で見ることができました。
その看板は今風にいうと「インスタ映え」するような古さと美しさを兼ね備えた魅力的なもので、わたくしが路線バスに乗る楽しみの一つでもありました。





その次に「船形十字路」という停留所がありました。
そこで言う十字路とはズバリこの交差点のことなのですが、
交差点そのものにバス停を設けることは許されませんから、野12系統の停留所は交差点を左に曲がったところにありました。

駐在所は現在よりずっと角ばった形をした地味なコンクリ色の建物でした。
信号機はすでに設置されていてゼブラが付けられていました。現在は「感応式」ですが当時は普通に動作していました。
ここの信号待ちを狙って両替器までトコトコ歩いてきて札の両替をする人が多々おりました。
 
 かつて精力的にお話したことがある小山経由岩井車庫行きという路線は、
野田市目吹・岩井市莚打間に利根川架橋が開通するまで、渡船場『小山の渡し』の渡し舟にバスをそのまま乗せて川を越える路線であった、と申しました。
その路線にも同名の停留所があって、場所はこの交差点をそのまま直進して1軒目のお家の前にあったといいます。

 わたくしはこのブログを記すにあたり地元の方数名にお話を伺いました。
 
 野12系統はそもそも野田を発して木間ヶ瀬、宝珠花河岸を経て埼玉・春日部駅まで往復する路線であって一日に5本、小山経由岩井行も一日に5本、
合計10本ありそれだけあれば用が足りるので船形や船形十字路ではバスを待つ人が多くいた、
いずれの路線もバスがよく故障していて、駐在所のある船形十字路まで客総出で何とか車を押してたどり着くと、
車掌が駐在所の電話を借りて野田市駅の事務所に救援連絡をしていた、とのことです。
 
 野12系統の原初形態が宝珠花経由春日部駅行きであったことは昨年春日部の図書館で古い資料を見て知りましたが、
こうして実際に乗車した方の話をあらためて直接聞くと、
われわれの祖先の足として路線バスが縦横無尽に野田の地を走っていた輝ける時代に触れることができたような気がするとともに、
少年時代の多感な時期をこの路線に捧げることができた喜びに言葉を失うところがあります。


喜びに満ちたところで区切りとしまして、船形から終点まで次回お話したいと思います。


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