2日ばかり早くて恐縮ですが、先んじて2018年新春のお祝いを申し上げます。
2016年、このブログで思い出を語りました野12野田市駅~東宝珠花線の乗車記をさらに詳細に思い出してみたいと思います。
というのは、この路線は実際利用者がいたわけで多くの人々の記憶に残っているはずですが、未だそれを公けにしようという人が見当たらない。
これは後世のためにも宜しからざるところで非常にさびしく思うのです。
わたくしの記憶の断片としてある野12は一つに車掌さんが切符きりしていたツーマン時代。
いま一つが小児運賃で5、6回往復した小学5,6年生の時代。
さらに一つは3ヶ月に一回程度でしたが同級生宅へ遊びに行ったとき利用した高校2年生の記憶。
今わたくしは昭和56年の昔に立ち返り改めて
この路線を歩いてきたのでさらに詳述したいと思います。
野田市駅にはバスのりばが1~4番まであったことは従前お話したとおりです。
野12はこのうち3番のりばから発していました。
1番が柏・流山といった南下する路線、2番が越谷・吉川とか野田橋を渡って埼玉県へ行く路線、4番は復刻塗装のLEDで有名になった野田車庫のことです。
さて問題の3番が野12も含め関宿・境・岩井といった野田よりも人口集積度の低い土地へ行く非駅間路線のターミナルになっており、
わたくしのような沿線に住んでいるわけでもない小学生児童が一人で乗るにはなかなか勇気のいる路線が揃っておりました。
昭和56年当時野田~境・岩井間はすでに境営業所に移管されていましたが、野田~東宝珠花間は同じ千葉県内で完結する路線であり、野田出張所の車両が走っていて「野12」と系統番号が付されていました。
すでに野田出張所管内のバス路線には全て系統番号が付されていましたが、最も大きな番号が野12でした。
この一つ下の番号、野11関宿工業団地入口はそういう方向幕があったにも関わらず野田の車両ではなく境営業所が系統無番で「工業団地入口」という方向幕でやっておりました。
11月に柏で開催された東武バスフェスティバルにおいて、古株そうな年齢の職員さんを捕まえて尋ねてみましたが「あ?セキヤド?・・・どこだそれ」とにべもなく一蹴されました。
これは野田出張所があった頃、3番から4番を見た写真ですが赤いコカコーラのベンチ椅子はわたくしの記憶するかぎり昭和の御世からあって、ポールに近いほうから順々に座っていく順番になっておりました。
境車庫ないし岩井車庫へのバス待ちはいつ行っても2~3人と複数いるのが常でしたが、野12を待つ人は非常に少なく夏・冬休みの平日にいってみるとわたくし一人しかだけ、ということがしばしばでした。
だからといって当時の野12が決して閑散線であったわけではありません。
ぶよっとした電照を見上げればそこにはA4かB5程度の白紙がガラス板2枚に挟まれていて手書きの時刻表がありました。
罫線ですら定規を使って書かれていたようで平日、休日を分かつ中心線がやや傾斜しているようにも見えました。
平成も終わらんとする現代においては、バスの時刻表というとその社名や営業所名がどこかしら余白に付記されているのが普通ですが、昭和の昔はそんなものありません。
だから3番のりばのバスはかたっぱしから徳正宗のついた境営業所のバスがなしておるのであろう、と思っていたので東宝珠花ゆきが野田出張所の管轄であることを知り驚きと喜びを覚えました。
わたくしがよく乗ったのは午前11時の後半、おそらく40分前後に発する便で終点東宝珠花には12時ちょうど頃に到着するものでした。
当時野12の発車時刻の10分ほど後に小山経由岩井車庫行きの発車予定があって、3番のりばは岩井方面のバス待ちもいて、やや賑やかになっておりました。
この路線が賑わってくるのは運賃区界2番目の愛宕神社の停留所からで日曜祝日の11時台発の便で5~6人、夕方16時台発に乗ったときには20人以上ドカーンと乗ってきたことがあります。
「おぉ、本数が少ないわりに随分乗るものだな」と思いました。
愛宕神社は野田市駅のバス全てが通るポイントになっていました。
野田のテープ音声はいかなる路線であっても「愛宕神社」と言っていましたが境のテープでは「愛宕神社前」と「前」を付けて読み上げしていました。
おそらく境の別路線に「愛宕神社」が存在していたからであろう、と思います。
ところが野12も境と同じくここを「前」を付けて言っていました。
愛宕神社前のバス停は「Regulus」という看板の建物の右となり、ロープを張って入れなくしているスペース前に二つ立っていました。
なぜ二つかというと境営業所が持ってきた境車庫線のものと野田出張所が持ってきた東宝珠花線のものに分離していたからです。
愛宕神社のみならず野田市駅の次の総武通運前・下町・キッコーマン前・仲町・中央小学校前全てがそうでした。同じ東武鉄道自動車局でありながら子供ながらに「ちょっとセクト主義すぎではないかな」と思いました。
そのわりに境車庫で来た運転士は普通に野田出張所の中で休憩していました。
当時はこのようないやらしいロープ縄張りなどありません。境や東宝珠花へいく人たちはこの引っ込んだスペースに立ち姿でバス待ちをしていました。
隣の白い建物は「安田生命」の看板を掲げた事務所ビルで、当スペースにはその保険会社の駐車場であることを示した表札めいたものがあったかと記憶しています。
駐車場にはちょうど車一台分だけの長さの塗炭屋根が取り付けられており、雨の日ですとバス待ちの群れは皆その屋根の下に佇んでいました。
右隣の歴史を感じさせる建物は当時、内田商会という横書きのやや大きめの看板を掲げていて、
バスが止まるとちょうど車内左側最前のオタク席とぴったり相対する位置にあるので中を窺うことができましたがいつ見ても薄暗く、
子供にはよくわからない難しそうな仕事をしてそうな商売屋さんでした。
愛宕神社前の次の運賃区界停留所は「専売公社前」という停留所でここにありました。
「日本専売公社 野田支店」というのがあったそうですが小学生当時すでに専売公社は閉鎖されていました。
昭和61、2年頃久しぶりに乗ったら「清水北」と改称されていました。
流山街道を関宿へ進んで、マックスバリューだのスーパー銭湯だの昭和の古きよき時代には存在しなかった商業地へゆく交差点があります。
この交差点の何メートルか手前に「蕃昌」という停留所がありました。
かつては右側に「新宿 中村屋」の看板を出した菓子屋があってその1棟ほど南下したところ、道路を挟んだ反対側にバス停はありました。
ここが境行きと野12の分岐するところで境行きだと降りていく人もチラチラありましたが、野12 東宝珠花行きですと乗客はさらに先の船形や関宿木間ヶ瀬で降りる人ばかりなのでただ通過してゆくのみでした。
交差点角地には今は店じまいしたようですが「Z」マークのついた照明の明るい全日食チェーンのお店が当時はあって、今と同じく道路を挟んだ向かいに青トタン壁がありました。
境行きは交差点を過ぎても道なりにただ走っていくだけでルート的な面白みを欠いたところがありましたが、野田12系統はここからが真骨頂なのです。
大変窮屈なT字路なので東武バスはここで頭をグーーンと左に振って大曲りしていたものです。
この右方大回頭の瞬間に全身を左にゆさぶる横Gの感覚、遠心力でバッサバッサという後方の客の買い物袋の摩擦音、機械油が染み込んで滑り止めの砂粒が散らばるどす黒い木製床板の悲鳴にも似たきしみ、
わたくしにはそれら全てがまるで昨日のことのように今なお脳裏にこびりついています。
運賃は野田市駅から乗ると蕃昌まで大人運賃で140円だったことを覚えています。
同一路線同一運賃の時代ですから東宝珠花行きも境車庫行きもここまで同額です。
この「流山街道」と我々が呼ぶ県道は昭和の昔から少なくとも野田市内ではセンターラインのある道路であり、バス停は当然ながら道の両サイドにありました。
しかしここから先は以前お話した野06 大利根温泉行きと同じように道の片側にポールがなく、小学生のマニア心を大いにくすぐる不思議な魅力があったのです。
さらにそのルートは野田にバスが誕生した大正の御世、小山渡舟経由の茨城・岩井行きが走っていた道でもあるし、後年東武バスによって開設された春日部駅~宝珠花~野田市駅線のルートでもあったのです。
長くなりました。そのルートからの話は越年して次回にお話したいと思います。
ではよいお年をお迎えくださいませ。