先日、ツイッターで野田市駅~岩井車庫までの茨急バスの側面方向幕、というか今は側面LEDとでもいうのでしょうか、画像をあげていた方がいました。
そこには愛宕駅と岩井車庫の間に「自然博物館入口」という東武バス時代には無かった停留所の名前が書かれていて、少しばかりショックを受けました。
わたくしの脳内には今なお野田市駅前を忙しく発着する青い東武バスの姿が鮮やかに残っていますが、
自分の脳内にある東武バスの側面方向幕の記録が歴史の闇に葬られようとしているかのような奇妙な焦燥感を覚えました。
バスに乗るときに人はまず何を見るかというとまずは前方方向幕でありましょう。
しかしながら当時の野田市駅からバスに乗る人々を含め、一般論として路線バスに乗ろうとする人は前方こそ見ますが、
側面にはあまり目を向ける人は少ないのではないかと思います。
路線バスの利用者の大半は今も昔も前方方向幕を見ればどこを経由するか勘づく人が大半だからです。
しかしながら昭和の昔、今よりも遥かに醤油くさい野田市駅頭からバスに乗るときに必ず側面方向幕を凝視してから乗る一人の頭のおかしな子供がおりました。
その子は頭がおかしいまま大人になってしまいましたが、
幸いにして側面方向幕の記憶はまだ残っていますので小汚い手書きイラストで廃止路線のいくつかをここに再現しました。
個人的に最も乗車回数の多かった野07。
野田市・梅郷・運河と野田線の駅名が並んだ後に野田線でも何でもない駅名の終点で終わります。
矢印は必ず左向きでした。
この路線に限らず矢印と矢印の間には代表的な運賃区界停留所名が表記されることが多かったものでした。
後年までしぶとく残っていた野03 越谷駅行き。
北越谷駅行きは茨急となった今も下町経由と中野台経由がありますが、越谷駅行きは下町経由の1系統しかありませんでした。
北越谷駅行きよりも運賃が10円(小児運賃)高くて「?、準急が止まる駅だから高いのかな」などと考えていました。
越谷で客降ろしをするとバス乗り場から向かって右側に、古河駅や竹ノ塚にあったのと同じような紐をひっぱると回るターンテーブルがあり、
グルーっと回転して一回りする間に方向幕を野田市駅行きに変えていました。
野田から着いた車両は越谷でのんびり休むなどせず転回後すばやく客積みして野田に戻るので野田市民としては無駄な時間浪費がなくて助かりました。
大利根温泉行きは灰毛経由と木野崎経由がありましたが、経路分岐点になる運賃区界停留所、木野崎入口から次で見分けがつくようにしてありました。
なお「灰毛」は当時運賃区界ではなく、当該運賃区は前の木野崎入口と次の次の三ツ堀間に設定されていました。
後年「本郷経由」と称していた木野崎経由は昭和56年当時は「本郷」とありました。昭和57年か58年に前方方向幕の経由地表記部分が「木野崎」から「本郷」へと変更された時、
なぜか側面方向幕からは肝心の「本郷」が「福田小学校前」に変わっており狐につままれたような気持ちになりました。
まだまだ死ぬ前にこの世に言い残したい側面方向幕がある、とは思っていますが、
老骨に鞭打ってタブレットで描くのもなかなか疲れるものでして、続きは次回に申し上げたいと思います。
そこには愛宕駅と岩井車庫の間に「自然博物館入口」という東武バス時代には無かった停留所の名前が書かれていて、少しばかりショックを受けました。
わたくしの脳内には今なお野田市駅前を忙しく発着する青い東武バスの姿が鮮やかに残っていますが、
自分の脳内にある東武バスの側面方向幕の記録が歴史の闇に葬られようとしているかのような奇妙な焦燥感を覚えました。
バスに乗るときに人はまず何を見るかというとまずは前方方向幕でありましょう。
しかしながら当時の野田市駅からバスに乗る人々を含め、一般論として路線バスに乗ろうとする人は前方こそ見ますが、
側面にはあまり目を向ける人は少ないのではないかと思います。
路線バスの利用者の大半は今も昔も前方方向幕を見ればどこを経由するか勘づく人が大半だからです。
しかしながら昭和の昔、今よりも遥かに醤油くさい野田市駅頭からバスに乗るときに必ず側面方向幕を凝視してから乗る一人の頭のおかしな子供がおりました。
その子は頭がおかしいまま大人になってしまいましたが、
幸いにして側面方向幕の記憶はまだ残っていますので小汚い手書きイラストで廃止路線のいくつかをここに再現しました。
個人的に最も乗車回数の多かった野07。
野田市・梅郷・運河と野田線の駅名が並んだ後に野田線でも何でもない駅名の終点で終わります。
矢印は必ず左向きでした。
この路線に限らず矢印と矢印の間には代表的な運賃区界停留所名が表記されることが多かったものでした。
後年までしぶとく残っていた野03 越谷駅行き。
北越谷駅行きは茨急となった今も下町経由と中野台経由がありますが、越谷駅行きは下町経由の1系統しかありませんでした。
北越谷駅行きよりも運賃が10円(小児運賃)高くて「?、準急が止まる駅だから高いのかな」などと考えていました。
越谷で客降ろしをするとバス乗り場から向かって右側に、古河駅や竹ノ塚にあったのと同じような紐をひっぱると回るターンテーブルがあり、
グルーっと回転して一回りする間に方向幕を野田市駅行きに変えていました。
野田から着いた車両は越谷でのんびり休むなどせず転回後すばやく客積みして野田に戻るので野田市民としては無駄な時間浪費がなくて助かりました。
大利根温泉行きは灰毛経由と木野崎経由がありましたが、経路分岐点になる運賃区界停留所、木野崎入口から次で見分けがつくようにしてありました。
なお「灰毛」は当時運賃区界ではなく、当該運賃区は前の木野崎入口と次の次の三ツ堀間に設定されていました。
後年「本郷経由」と称していた木野崎経由は昭和56年当時は「本郷」とありました。昭和57年か58年に前方方向幕の経由地表記部分が「木野崎」から「本郷」へと変更された時、
なぜか側面方向幕からは肝心の「本郷」が「福田小学校前」に変わっており狐につままれたような気持ちになりました。
まだまだ死ぬ前にこの世に言い残したい側面方向幕がある、とは思っていますが、
老骨に鞭打ってタブレットで描くのもなかなか疲れるものでして、続きは次回に申し上げたいと思います。