前回以前から乗車の記憶をお話している野12は野田市と関宿町の木間ヶ瀬という地区を結ぶ路線でした。
関宿町は平成15年に野田市と合併して消滅しました。
関宿町となる以前は東葛飾郡木間ヶ瀬村といっており戦後の「昭和の大合併」期においては関宿町とではなく野田市との合併を画策していたそうです。
木間ヶ瀬村は時の関宿町とはあまり仲の良い関係ではなかったようで村民が役場に押しかけて合併解消を要望したことがあったそうです。
野田市長が関宿町との合併を市民に説いた文章(『野田市報』昭和41年)。
やがて平成の大合併を迎え星霜ここに50年、千葉県野田市木間ヶ瀬と生まれ変わって今日に至っています。
関宿町と野田市が合併したとき『合併特例債』というある種のお金が国から野田市に下賜されました。
合併して地方交付税を少なくしたご褒美というかまあそんなようなものですが、野田市はこのお金を使ってコミュニティバスを始めました。
そのバス路線には「まめバス」という名が付けられてスタートしました。
うち1路線は以前このブログでわたくしが精力的に思い出を語った野06・大利根温泉線の近くを走るもので、もう1つが今お話ししようとしている野12に相当するものです。
関宿町に入ると大山→下根と来てやっと木間ヶ瀬という地名のついた停留所が出てきました。
この交差点超えてすぐ、左側角地にいたく地味なたたずまいの郵便局があり、右側角地にはシェルだったか日石だったか小さいガソリンスタンドがありました。
ご覧のように残念ながら現在ではどちらも現地には残っていません。
バス停の名前は「木間ケ瀬局前」でしたが、バス停柱は郵便局側ではなくガソリンスタンド側にのみ立っていました。
今見るとずいぶん道路を拡張したようですが、当時の道幅はこの半分も無かったかも知れません。言うまでもなく信号機もない。
また下根~木間ケ瀬局前間は道路の両側から沿道の家々の樹木の枝が無数に公道上に飛び出していてキキキッ・・・ガリッガリッと鋭い音を立ててバスの窓ガラスや天蓋を擦ったものです。
交差点付近は関宿町に併合される以前の旧木間ヶ瀬村の役場があったところです。
バスから見ていてそれまで家がぽつぽつしか見えなかったのに急に家屋が連なっているのを見て子供ながら「うむ、集落のセンターはここだ、そしてこの路線はこの集落と鉄道駅を結ぶためにあるのだ」と思いました。
平将門の愛馬を奉っているという駒形神社もすぐそばにあり、将門軍と征東軍が戦った古戦場でもあるそうです。
聞くところによれば木間ケ瀬には今なお将門軍勢の子孫と称する家が少なくなく、将門討伐祈念のため朝廷が建立した千葉県随一の名刹、成田山新勝寺に対し必ずしも好意的なイメージを持っていない、そういう土地柄だそうです。
したがって年の瀬のたびに『初詣は成田山新勝寺へ』というポスターを掲出している京成バスが来ようものならば運転士が突然死したり謎の転落事故が起きたり祟りを招くかもしれません。
一方、不思議なことに平将門新皇の皇居所在地だった茨城・岩井に行くと京成系の路線バスをひょいひょい見かけます。
ところで大晦日夜の東京地方は大変な強風だったことを覚えているでしょうか。
わたくしはテレ東の「孤独のグルメ」を見ていまして、ちょうど成田山新勝寺が出てきて瀬川瑛子やらなんやらがせいろ蕎麦を食べる場面になったその時、
うっかり窓を閉め忘れたトイレに風が吹き込み、積んでたペーパーやらなんやらが床にドスンと落ちて、すわっ泥棒でも潜んでいたのかっと大変びっくりしました。
これは木間ケ瀬のバスに乗っていたくせに成田山の蕎麦を見て腹を空かせた私に対する公の怨霊の怒りの表れではないかと空恐ろしい気持ちになりました。
次は「木間ケ瀬小学校前」でした。
運賃区界停留所で運賃表示器には「木間ケ瀬小前」と出ていて現地のバス停の円盤にもそう書かれていました。
しかしながら車内に流れる音声テープは「キマガセショー『ガッコー』マエ」と言っていて、路線図にもそう書いてありました。
学校前の農協の建物影が差して見えにくくなってますが、学校敷地内に日露戦役表忠碑という大きな碑があります。
この碑の前あたりにオレンジ色したポールが立っていました。
野田市駅行きに乗っていてここへ差し掛かると、石碑の見事さにいつも目を奪われていました。
児童用の手押し信号など当時はありません。ただでさえ道が狭隘なところへもってきて、
夏休みのプール開放時期だとちんちくりんの小学生がお菓子に群がる蟻ンコのように路上にたかっていて、
また乗り降りする人もいましたからバスはいつも一苦労していました。
この路線最大の難所はここであったろうと思います。
小学校を超えるとすぐ左折して県道我孫子関宿線から外れ、県道でも何でもない絵に書いたような田舎の一本道を走ってゆきました。
路面は今よりもっとデコボコガタガタしていました。
「向の内鹿島神社入口」なるまめバスのバス停がありますが東武時代はこんなとこに停留所はありません。
そこから西へ歩いていくと鹿島大神宮という仰々しい名前の神社があり、それに反してやけにあっさりした名前の「鹿島前」という停留所が酒屋の前にありました。
酒屋は「駐車場 大小宴会承ります」の電灯看板のすぐ隣にありましたが現在は無くなっていました。
西宝珠花車庫の話をしたときに触れた、平将門の怨霊が出てくる映画「帝都物語」を春日部ロビンソン百貨店まで一緒に見に行った高校の友人は、このバス停からやや奥に住んでいました。
帝都物語がどういう映画だったかはわたくしと同世代の人なら誰でも覚えているでしょう。
将門公ゆかりの地の住人と一緒にあの映画を見たのは奇しくも新皇のお導きであったのでありましょうか。
ここから先はなぜか埼玉県の地名の停留所が出てくるのですが千葉県です。
次は「鴻巣」といって右側のお店の道路を挟んだ真向かいにポールが一本立っていて、野田市駅行きに乗る人は店側に立って待っていました。
子供の2,3人連れとか、親子連れとか農家のおばあちゃんとか、そんな人たちが乗ってきたことがあったな、と記憶しています。
お店は妙に薄暗い色をした木造の、時のトップアイドル河合奈保子の歌にいう「大きな森の小さなお家」みたいな態の極めてタイニィな個人商店で、
下根や大山で見たようなアイドルを起用した販促ポスターがべたべた貼られていた記憶もなく、建物は今よりぐっと公道すれすれに面して建っていました。
道路左側の緑色のフェンスもなくただの森だったと思います。
その森が影を落とす路上にバス停がひっそり立っていました。
信号機も歩道もへちまもないじつにのどかな良い所でした。
バスは十字路を右折して東宝珠花へ向かいます。
右折するとほどなく現在は道が二股に分かれていますが当時は左側の一本道だけでした。
右側の新しくシュッとした道などありません。
羽貫は・・・・うろ覚えですが「喜八」のちょっと先あたりの道路右側にだけポールが立っていました。
このおすし屋さんは昭和の昔からあって、また地味な土地にそぐわない激しい原色の看板も当時からありました。
日没の早い秋冬の17時台のバスで野田に帰るとき、街路灯のない田舎の一本道でこの看板は電光でギラリギラリと輝いていて「よい道しるべになるな」と思いました。
こちらは人の乗り降りがあった記憶はありません。
鴻巣も羽貫も埼玉県のそれと全く読み方が同じですが当時の東武バスの8トラテープは羽貫のことを「ハ↓ヌ↑キ↓」というアクセントで言っていました。
羽貫を超えると、宇田川というお茶屋さんを過ぎて境車庫線が走る交通量の多い県道結城野田線に出ます。
このお店も昭和の昔からあります。
失礼ながら昭和時代はもっと店構えがお茶の葉色を前面に出した派手なもので、緑じみたウインドウに東武バスの青いラインが反射して「何だかクリームソーダみたいだな」などと思ったものです。
道路幅の狭さがわかりますか?よくまあこんなところをバスが走ったものだと今さら感心します。
県道結城野田線と合するとき車窓の右側には東宝珠花の商店街が見えました。
「竹の屋」と「芝甲」は昭和の昔にもありました。
付近にバス停が見えますが、当時は東武の「商工会館前」という境・春日部と結ぶ路線のバス停がありました。
関宿町商工会館というのが付近にあったのでついた名前だと思いますが市町村合併で今はまめバスの違う名前の停留所が置かれています。
日枝神社は境の東武バスは「日枝神社前」と言っていました。
境と野田で営業所が違うので同じ東武バスの同じ場所のバス停でありながら、ポールは別々に2本立っていて停留所名も「前」付で書かれているものと書かれていないものがありました。
境ゆき・春日部ゆきの時刻表板が同じ高さで2枚背中合わせにパイプにボルト止めされている日枝神社前バス停柱。この人はすぐ裏にあったタナカ洋品店の人らしい。
柱のすぐ右側傾斜している棒はバス停ではなく公衆街路灯。
左側の台石が白く写り上の時刻表板がブロック塀の最上部穴を隠しているバス停こそが野12 野田市駅ゆきのバス停。
ここで非常に面白く思ったのは、道路の神社側には野12の野田市駅行、反対側には境車庫発の野田市駅行のバス停が設けられていました。
すなわち野田市駅行のバス停が道路の両サイドにあったのです。
ちなみにその道路反対側の停留所柱の立つ所には、ひふみんと藤井四段と羽生名人を足して3で割れないほどの将棋界のレジェンドにして、天才坂田三吉生涯のライバル、関根金次郎翁のお墓があります。
野田市駅から東宝珠花行きで日枝神社まで来ると310円、境車庫行きで来ると280円でした。大人運賃です。
ですから東宝珠花行きのバスは鴻巣あたりで全員降りてしまいそれ以降はいわゆる空気輸送であったろうと思います。
わたくしが乗ってきた時を除いて。
神社の左側には赤ランプのついた駐在所がありましたが、現在は関宿中央ターミナル付近の交番に集約されて無くなったようです。
次はいちいのホールと改称していますが当時は「関宿町役場前」と言っていました。
先の日枝神社は野12も境とで「前」が付く付かないという異同がありましたがこちらは両者とも「前」を付けていました。
このバス停の野田市側にやや行ったところに総武タクシー(?)というタクシー屋さんがありましたが現在は見当たらなくなっています。
平井入口。あと一つで終点なのにここも運賃区界になっていました。当時すでに珍しかった小屋付き停留所でした。
昔は小屋に入れて雨や冬でも助かったのですが現在は網フェンスで入れなくなっていて驚きました。
理由は分かりませんがケチな人がいるものです。
バス停の「入口」の文字が坂田三吉の銀と同じように泣いています。
高校生のとき友人宅からここまで歩いてきて小屋の中で待って、春日部駅東口行きのバスに乗って帰ったことがあります。
向かいには緑色したテント屋根のついた、豆腐とか野菜を売っている個人商店がポツンとあってバス停をよく照らしてくれていたものですが現在は店じまいしてます。
終点の東宝珠花バス停。
自転車置き場やら体育館らしき巨大物がありますが、昔はただの野っ原の転回場でした。
路面は地面にうすーく小石が敷いてあるだけで、ぺんぺん草がそこかしこに生えており、転回場のすぐ裏、今の体育館らしきものあたりは東尋坊のような激甚な切り立った崖で、
崖下には「平井球場」というグランドがあり中学生が試合をしてるのを転回場のバス車内から眺めたことがあります。
グランドの向こうは土地がまた高くなっていて森や農家に遮られ江戸川の堤防を見渡すことはできなかったと思いますが、今頃のような冬の寒い日中に富士山が見えたことがあります。
転回場の崖っぷち際にはこんもり雑草が生えていて野12の運転士は必ずと言っていいほどここに着くと、くわえタバコで雑草めがけて立ちションしていました。
路線バスに対する寛容さの基準が現在とは違う時代なので特段それをいけないこととは思いませんでした。
道路反対側、矢崎総業という物流倉庫のような建物は昭和時代にもあって、金網フェンスに沿って境→野田のバス停が立っていました。
現在は南へ100メートル以上離れた場所のドラッグストア店先に移設されています。
現在ここを走る朝日バスの東宝珠花発の便は転回スペースではなくその店先で客積みしているようですが、東武時代の東宝珠花発のバスは必ず転回スペース内で積み込んでいました。
大利根温泉で折り返して野田市駅に帰るバスは定刻まで決して乗せてくれず悪天候時は難渋しましたが、この路線はすぐ乗せてくれるので折り返しマニアとしては有難かったですね。
昭和56年当時にはここまで来て折り返し春日部駅東口へ戻る春日部出張所のバス路線があり、東宝珠花のバス停柱は野田・境・春日部の3本が立ち並んでいましたが、
同年中に春日部行きも境営業所に移管されてしまい2本になっていました。
春日部から来たバスは当時野田では見かけることが無かった大型方向幕仕様だったこともあります。
春日部も野田も境もすれ違い時には必ず挙手合図をしていました。
店屋や自動販売機はおろか街路灯一つないまことにみすぼらしい場所でしたが県境を超えて千葉埼玉茨城を結ぶ結節点だったのです。
今その機能は関宿中央ターミナルに移りましたがそこに行っても3県異なる地名を掲げた青い東武バスの姿を見ることはもはや叶いません。
もし関東の覇者平将門のように北関東に不動の地位を築いた東武バスの盛時を偲ぶことがあれば、
その面影の一つにぜひ今回お話した野12を加えていただきたく、当地に宿るいにしえの武人の御霊ともどもお願い申し上げ、野12の思い出話を終えたいと思います。