正定寺の閑栖  (しょうじょうじのかんせい)

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チャミと板敷き払い

2010年10月11日 | 日記
蒲江町尾浦は百姓一揆で所替えの地となった
場所です。

そこの檀家さんへ法事に行き、
尾浦でしか耳にしない言葉を教えて
もらいました。

「チャミ」
・・・これは
『今日の法事はチャミじゃきな~』などと使います。

意味は、
「今日の法事はたいしたごちそうもできないので手ぶらで
お参りしてください。」と云う意味だそうで、
ようするに「仏さまへのお供えやご仏前は結構です」と
云うことです。

親族の間でお供えの「やったり・もらったり」を簡略化した風習の
ようです。

「板敷き払い」
・・・これは九州地方ではよく使うようで
お祭りや神事の「直らい」・仏事の「お斎」の
ようなものです。

尾浦では
葬儀が終わった次の日に行い、葬儀を手伝ってくれた方々に
ねぎらいの料理を振る舞う事を「板敷き払い」
と云います。

今では「精進明け(あげ)・精進落とし」と一緒になっている
との事です。

学童疎開

2010年10月11日 | 日記
「学童疎開」という言葉を聞かなくなりました。
既に終戦から65年を過ぎています。

正定寺には昭和19年9月9日沖縄県具志頭村具志頭
国民学校の学童49名が疎開していました。

高等科2年8名・高等科1年4名
小6年8名・小5年13名・小4年9名・小3年7名)と
引率教師2名・寮母及び世話人5名が
昭和21年11月に沖縄に戻るまでの2年数ヶ月を
旧川原木村の正定寺で過ごします。

昨日、当時の引率教員「森田吉雄先生」のお孫さんが
初めて正定寺を尋ねて来てくれました。

生前、あまり学童疎開の話を聞かされて
いなくて、亡くなったあとその事を知ったとの
事でした。

こうして当時の学童疎開者の子孫が
正定寺を尋ねてくれる事がとても嬉しく
疎開者の苦労や戦争の惨劇が後世に語り
継がれて行くことを望んでいます。