マイノリティというカテゴライズごと。
マイノリティの人たちが立ち上がる。
ジェンダーに関すること、身体的な個性を持つ人、ありとあらゆるマイノリティと呼ばれる少数派の人たちが、尊厳を持って生きるために。
でもさ。
そもそも,ね。そもそも。
そういう集団的カテゴライズという概念すら、壊れればいいのにさって。
みんな個。みんなそれぞれ。みんなひとつの命、魂。
集団的に処理する概念すらなくなればいいのに。
セケンは、バイアスだらけで。
女性だから。男性だから。そうじゃないから。年寄りだから。若いから。子どもだから。ナニモノだから。
全ては個。今,生きてるか、そうじゃないか。でいいじゃん。とりあえず!
そして、集団的カテゴライズで傷つくのは、その権利を主張した主役ということも往々にして出てくるよ。
例えば、古典的なフェミニズムについては。女性も男性も全てに違いを設けずに集団的概念によっていっしょくたにしちゃうと、身体的特性や身体的機能なんかで、ものっすごくシンドイ思いをする。脳科学的にも、思考の偏りや優位性や、、、そういったものも違いが認められているし、身体的な面においても、解剖学的には当然に、生理学的にも違う。そして、男性と女性とで、疾病なんかも違うという見解も。
つまりは。集団的カテゴライズという概念ごと壊していかないと、それすらからもあぶれちゃった人たちを奈落の底に突き落とすべく、ひどい絶望感と苦痛を与えかねない。それを見ずして、本当の人権などはあり得ない。
まずは、って、そういう話なんでしょうけど、段階を経てという歩み方なら、その底で踏み躙られ黙殺されている声は、誰も聞くことができなくなるでしょう。
例え、それが一人の声だとしても、声は声で。
集団的カテゴライズという概念が崩壊し、全ては個、ひとつひとつの命がその場面ごとにくっついたり離れたりしながら、この世は回っている。
所属や回帰する場って、普遍じゃないんだ。時と共に、進化と共に、それすらも変わってくること。家族は血縁という古い概念が朽ちていく今、全ては変わるを前提としないと、集団的な所属すら、縛りという名の苦痛や命を奪うことになりかねない。
全ては、個。ひとりひとり、ひとつひとつ。
その都度、必要なモノと必要な個性が手を組んで、生きるんだ。
マイノリティとマジョリティという、概念すらも風化してしまえ!
と、今日はいつもに増して、意味がわからないと言われることを書いてみる。