お隣さんはめっちゃ素敵な人。
私、自分の領域にヒトが入ってくるのが堪らなくイヤなのです。
肉体的パーソナルスペースは絶対、精神的な領域にも、グッと入り込んでくるとか、知りたがるヒトがすごく苦手で、無意識で腰が引いてしまうというか。
怖さ半分、嫌悪半分と言ったところかな。
望んでいなくとも、アチラのエネルギーや気みたいなもんを感じ取って、そのこころ・胸の内と言動とが一致していない不調和を拾った途端、ぎゅう〜っと心も身も捻れてしまうようなへんな感覚になってしまうのです。意識的に向き合い合おうと努力しても、気が背を向けてしまう、、、ネジレを起こすので、寝違いみたいな痛みを感じてしまうのです。
ですから、安易にヒトを自分のフィールドには入れたくないし、常にバリアを張ったり、膜で覆ってしまう癖が子どもの頃からついてしまっていました。
それに伴って、親も含め周囲の大人たちから、自分らしくあることを拒絶され続けた結果、自分のことを開示するのも困難な性格になってしまい、ある時から知人の私への悪口が、何を考えてるかわからない。となって(笑)それはそうですよね、他人に心開かず隙も与えない、全く自分語りもしないのに、人見知りとかではないという。
そんな私が、ちょっと変な家系の人と一緒になった途端、姑はじめ、変な人たちから数々の試練と課題・修行まがいの苦痛を(笑)与えられて数年。今は、嫌な気、キライをひっくり返す技を習得、大抵の嫌は嫌ではなくなって。それをかわすことやねじ伏せること、ひっくり返して染みさせることで、ずいぶん図太く、ある意味では鈍感になれたのですが。そんな風にして、見る世界が変わる中で。
一見、変わった人、あるいは、感じの悪い人ってのがいます。
決して、迷惑行為をする低俗なヒトではないのに、セケンでは、ちょっと遠巻きに、あまり「人集りのできない人」。
反対に、ものすごく「いいヒト」もいます。あのヒト、本当にいいひとねって言われるような。
その違いって何かしら。
ある種のヒトにとって、いいヒトって、都合の良いヒト?
あるいは、良さげに見せることが上手なヒト?
実は、変な人、ちょっととっつき辛い人って、案外素敵な人が多いです。
胎の中が。ドロついた、ヘドロみたいな気を持っていないことが往々にしてある。まっすぐ、まっすぐで。都合の良い人間でないって、それだけ。
みんなには人気で、いいヒトねって言われるようなヒト。残念だけど、上手なだけなヒトが、ね。見せ方、魅せ方が、ね。良さげな外見、良さげなスペック、目で見て、得のある、付き合っていきたいと思わせることが上手な。その裏にいる人にとっては?光が眩しければ眩しいほどに、闇が引き立てる。その闇、どんな闇?
見えへんもん。
これは舅が大事にしていたこと。
見えるもんは後からだって見える。
よくね、スピリチュアル界隈のひとたちが言います。魂の、霊格の高いひとの周りには、ひとが集まります。と。
果たしてそうかしら。集うひとは、ヒトなのか,人なのか?それは集いなのか,群れ、なのか。
これからは、集いの規模でなく、質が重要だと感じます。
民主主義の中、それを見極めるのは困難でしょう。が、そこにある本質、気を、しっかり見出して欲しいのです。見えへんもん。です。
お隣さん。ちょっと変わっています。でも、サイコウに気の良い人です。悪口も言う(笑)でも、サイコウにいい気の巡り。何かを悪く思わないひとなどいません。ナニカを悪く思える人でないと、困るのですよ。
何を悪いと思えるか。何をどう感じられるのか。自分に都合が良いから良いのか?気持ち・心根が綺麗なのか?あなたにとって都合が悪い人でも。あなたの在り方がそもそも、、、なら?
旋毛を見る努力。それを心がけていれば、きっと見えへんもんも、見えるのかしらね?
ね?姑!