たかきの独りごとパートⅡ

近況報告(感謝・感動・感心をテーマとし、今年度は家庭菜園が中心予定です。尚、不定期更新とさせていただきます。)

◎石見の・・・

2012-05-02 07:44:54 | 報道・ニュース
☆知床半島・羅臼の山々 - 北海道目梨郡羅臼町礼文町32-1 【画像取得年月日 - 2012/05/02-07:29 - 】
 
★今朝は、小雨が降っています。気温も18℃で比較的温かい朝である。帰省していた長女一家も昨日の午後かえり、我が家も日常の生活となる。昨日はイチゴ狩りや万葉公園等に行き、ご満足の様子だった。
孫娘達達も、GWの良い多い出作りが出来たであろう。次の帰省はお盆頃と思われるので、それまでに1~2度は遊びに行ってやりたと思ってる。
昨日の毎日新聞「余禄」に「司馬遼太郎から生まれた場所を聞かれ、「石見の…」の見出しで
・司馬遼太郎から生まれた場所を聞かれ、「石見の益田です」と答えると、「益田だけでいい」と優しく言われた。そして益田という土地の持っている歴史の素晴らしさを指摘して、コンプレックスの膜をぬぐい取ってくれたという▲高橋一清さん(67)が文芸春秋に勤めていたころを振り返り、著書「編集者魂」(青志社)で紹介しているエピソードだ。2005年に退職した高橋さんは今、故郷の島根県に帰り、松江観光協会の観光文化プロデューサーをしている~
司馬遼太郎さんも益田の歴史については、御存じだったのだろう。益田市のHPより益田氏について
「藤原鎌足を始祖とした山陰の名族 益田氏」
・石見の雄「益田氏」
 益田氏は、平安後期の11世紀頃に藤原国兼が石見国司(県知事に相当)として現在の浜田市に赴任したことに始まります。4代兼高が石見で最も広い平野があり、交通の要衝と港に適した益田に本拠を移し、益田氏を名乗るようになりました。兼高は源平争乱時に周囲が平氏を支援する中、源頼朝の命を受けて壇ノ浦の戦いで手柄をたてるなど着々と力を蓄えました。益田氏は鎌倉時代初期には石見の約3分の1を治めるようになり、室町時代から戦国時代にかけては、周辺の大勢力と巧みに結び、石見での地盤を強固なものにしていきます。
11代兼見は山口の大内氏と結び、石見の豪族たちの指導的立場を確立しました。15代兼堯は応仁の乱(1467年)をはじめとした数々の戦乱で多くの武勳をたてるなど、その一生は戦いの連続でしたが、文化への深い理解者でもありました。大内氏の保護下にあった雪舟が、兼堯の招きで益田を訪れたのも、大内氏との関係によるものでした。雪舟作「益田兼堯像」(重要文化財・益田市蔵)は厚遇してくれた兼堯に対するお礼といわれています。
・毛利氏と結ぶ
 大内氏の重臣陶氏と親類関係となった益田氏は、毛利氏や津和野の吉見氏など周辺勢力と対立しましたが、陶晴賢が毛利元就に敗れると、19代藤兼は毛利軍の一翼として山陰攻略にあたっていた吉川元春を仲介者として毛利氏と和睦しました。このとき、毛利氏一族に数々の贈り物をしたことが益田家文書に残っています。この中には虎の皮など海外の品もあり、益田氏が大陸と交易していたことが当時の朝鮮の書物「海東諸国記」にも記されています。  七尾城本丸跡から望む平野と、七尾城から益田川を伝って続く三宅御土居跡、さらに日本海へ広がる景観は、まさに益田氏の海洋領主的性格を彷彿とさせます。  和睦した益田氏は毛利氏に重用され、20代元祥は元服の時に元就から「元」の一字をもらっています。そして石西はもとより出雲、長門、さらには九州まで領地を獲得しました。領地も人命も大きく失うことなく戦乱の時代を生き延びた益田氏は、徳川家康から領地を保証するという打診を受けていましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏に従って、長門の須佐(現在の山口県)に去っていきました。元祥は永代家老として、財政難にあえぐ主家の財政立て直しに優れた指導力を発揮しています。
・益田地区の基礎を築く
 現在の益田地区の成り立ちの基礎は、こうした益田氏治政下の約400年の間に、七尾城の城下町として築かれたことに始まっています。益田地区が中世の城下町のなごりを持つ、全国的にも特色のある町といわれる所以です。(益田市HPより)http://www.city.masuda.lg.jp/kanko/category02.html
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【夢を実現する今日の一言】

・何があってもいいじゃないか、

 信念は変わらないのだから

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~今日は何の日~
☆歴史上の出来事
▼郵便貯金業務開始(1875),▼アメリカの習慣を取り入れ、日本でサマータイム実施(1948)。評判悪く1952年に廃止,▼野茂英雄がメジャーリーグ初登板(1995),▼国際テロ組織アル・カーイダの最高指導者、ウサマ・ビンラディンが殺害(2011)
☆記念日・行事・お祭り
●交通広告の日,●郵便貯金の日(総務省)
☆今日の誕生日
▼夏木マリ(俳優・1952),▼秋元康(作詞家・1956),▼デイヴィッド・ベッカム(サッカー選手・1975)
クローズアップ!
・お金持ちのおたわむれに堕胎業禁止令
 戦国の世も一段落し、世情が平穏に戻りつつあった江戸初期。上流階級の人たちの間で不倫が流行。後を絶たない中絶者を見かねて、1667年(寛文7)、堕胎業禁止令が出された。そこで登場したのが避妊薬。最も有名だったのが、毎月1日にこれを飲めば身ごもらないという触れ込みの「朔日丸(ついたちがん)」。これと人気を二分したのが、『浮世風呂』で有名な戯作者・式亭三馬が売り出した「天女丸」だった。いずれも効き目はほとんどなかったという。避妊に関する世界最古の文献によると、その昔、古代エジプトの女性はワニのふんを集めて膣に挿入し、避妊に努めたという。
☆今日の「誕生日の花と花言葉」
・ムシトリナデシコ(ナデシコ科)
・青春の愛

「きょうの一句」
・力ある風出てきたり鯉幟(こいのぼり)  矢島渚男(なぎさお)   
☆~心に響く366の寸言~
 【腎を養う (2)】
 悲と憂とどう違うかと思う人々もあろう。これは相即(つきもの)ではあるが、どちらかというと、悲の方は過去につながり、憂の方は未来にわたるということができる。
 そこで、特に春には脾を養い、夏には肺を養い、秋には肝を養い、冬には心臓を養い、四季を通じて最も腎を養う。つまり腎即ち身体の浄化装置を過労させぬこと、腎労・腎虚にせぬことである。
 こういう心得が有ると無いとで人間一生どれほど違ってくるか測り知れぬものがある。
今日の言葉~「安岡正篤 (やすおか まさひろ)一日一言」より(致知出版社刊)
☆5月2日(水): 松下幸之助[一日一話]
【カメの歩みの如く】
 カメの歩みというのは、一見のろいようだが、私は結局はこのあせらず、騒がず、自分のペースで着実に歩むというのが、一番よいのではないかと思う。手堅く歩むから力が培養されてゆく。逆にパッとやればどうしても手堅さに欠けるから、欠陥も出てくる。だから見たところでは非常に伸びたようだが、あとであと戻りをしなければならないということも起こってくる。
 ウサギのカケ足では息が切れる。といってハヤ足でもまだ早い。一番いいのはやはりナミ足で、カメの如く一歩一歩着実に歩むことではないかと思う。人生行路だけではない。事業経営の上でも、大きくは国家経営の上においても同様であろう。
タイトル:「たかきの独りごとパートⅡ」はブログの開設から 1012日
※プロフィールの画像は、2007年6月下旬に続き2回目の日本最北端の地「宗谷岬」にて(H23.06,20)
 

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