【3】草稿ノート公開がひらく多喜二研究の展望
その一方で、研究者にとって課題となっていたのが、多喜二テクストについての再検討だった。
2003年以降からのこの10年の間にも、多喜二ライブラリーの資料発掘の作業の進展によって、全集未収録の資料が一定程度となり、さらに、多喜二テクスト再検討の作業はすすめられており、「小林多喜二草稿ノート」が、日本共産党中央委員会への所蔵がえとなったことが明らかになった。関係者の根気づよい交渉の結果、複製品制作とその公開が実現。これを機に、現存する多喜二肉筆による全集が企図された。
これが実現したのが、「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」で、デジタル画像となってDVD化された(雄松堂書店・10万5000円)。これには、草稿ノート(全14冊)、「析々帳」と表紙に書かれた日記(1冊)、「蟹工船」「転形期の人々」などの直筆原稿、「党生活者」の中央公論の完全ゲラ、草稿ノートに対応する25作品の初出誌の誌(紙)面が収録された。
これまで、多喜二ノ―ト草稿は、『多喜二全集』(新日本出版社 1982~)の第1巻に、「曖昧屋」「来るべきこと」(シナリオ)「雪の夜」「その出発を出発した女」「山本巡査・第2巻には、「監獄部屋」「防雪林(改作)」。第3巻は、「生れ出ずる子ら」について」「無題」「「女囚徒」の自序」、「築地小劇場来る―上演脚本に就いて」「政治と芸術の「交互作用」」。第7巻は、「ひる!!」「断稿(1)」「断稿(2)」「And Again!!」「「師走」の改作」「酌婦」「無題」「「人を殺す犬」の改作」「放火未遂犯人」「営養検査」「馬鹿野郎!!―自殺しかけた同志」などが文字に起こされ、収録されている。
これは日本共産党中央委員会(草稿ノート12冊、「析々帳」1冊)と、市立小樽文学館、日本近代文学館、多喜二ライブラリーなどの提供資料で実現したものだ。全集未紹介のメモも多く、また多喜二が地下生活に入って執筆し、1932年の「赤旗」に掲載された「高山鉄」名による小説「村の事件」を、多喜二「未発掘」作品として「認定」して収録してもいる。
これにより、戦前は禁書扱いされていたため、散逸してしまったものは多いが、多喜二の文学を、もう一度それを生み出した時代と文化の総体の中に引き戻し、新しい光をあてていくことへの道が開けた。
では「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」の内容をみてみよう(草稿ノートに付した番号は便宜的なもの。〔 〕内は多喜二が記したタイトル。特に記載のないものは日本共産党所蔵)。
●草稿ノート
草稿ノート(1)=(1925―1927) 「姉との記憶」「「生まれ出づる子等」について」[札幌の北海道絵画展を見た]「曖昧屋」[無題](ドストエフスキーについて)[来るべきこと]「And Again」[「師走」の改作]「父の危篤」「酎婦」「人を殺す犬」断稿「恋愛の諸相」、「生の諸相」などのメモ「人を殺す犬」の書き出し改訂断稿(「酎婦」関連のもの)断稿「春が来ると淋しい」、断稿「大手門」ほか。
草稿ノート(2)=〔昭和二年 第一号〕「雪の夜」「「人を殺す犬」の改作」「お恵と彼」「大熊信行先生の「社会思想家としてのラスキンをモリス」紹介のために小樽新聞、タイムスへ出す草稿」「女囚徒(一幕)」「女囚徒の自序」「放火未遂犯人」「"Eternal problem"(父の危篤)の最後に」「その出発を出発した女(上編)」「残されるもの」
草稿ノート(3) 〔原稿帳 昭和二年 第二号〕「その出発を出発した女(中編)」
草稿ノート(4) 〔原稿帳 第三号〕「営養検査」「築地小劇場来る。上演脚本に就いて」「愈々 築地小劇場来る!十一、十二日毎夕六時より中央座に於て」「山本巡査(四場)」「チャプリンについてのノート」[防雪林についてのメモ]「防雪林(未定稿)北海道に捧ぐ」
草稿ノート(5)〔一九二八年(A)〕「誰かに宛てた記録(短篇)」「山本巡査(四場)全国の巡査諸君に捧ぐ」「とても重大なこと」「政治と芸術の「交互作用」(「創作月号」五月号)」「『監獄部屋』(「人を殺す犬」の改題及改作)」「一九二八・三・一五(我がプロレタリ前衛の闘士に捧ぐ)」
草稿ノート(6)〔一九二八年(C)〕「(一九二八・三・一五の続)」「防雪林(改作)」「「カムサッカ」から帰ってきた漁夫の手紙」(※前半のみ残されている)「プロレタリア文学の「大衆性」と「大衆化」について―簡単な覚書―」「馬鹿野郎!!(自殺しかけた同志)」
草稿ノート(7) 「蟹工船」 「遅れました。第二作をお送りします。」[箇条書きメモ]「蟹工船(三)の最後に入る」[メモ]((A)~(E))
草稿ノート(8) 一九二九、七、六、No.2〕「不在地主」[メモ](「節、キヌ、お恵」の短いメモ)
草稿ノート(9) 〔原稿帳 一九二九 No.1〕「暴風警戒報」「救援ニュースNo.18附録」「支那訳の序文」「一九三〇年のプロレタリア文学の方向(読売新聞 新年)」「資料(「プロレタリア」)」「北海道の「俊寛」(大阪朝日のために)」「総選挙と我等の「山懸」」。「戦旗」二月号のために」。「プロレタリア文学の「新らしい形式」について。」「プロレタリア文学の新しい文章について。―「改造」二月号―」「宗教の「急所」は何処にあるか(「中外日報」)」「「暴風警戒報」と「救援ニュースNo.18附録」に就いて。」「「機械の階級性」に就いて。(「新機械派」)のために。」「銀行の話(「戦旗」三月号)」[メモ](「最後に、私自身のことだが、」)
草稿ノート(10) 〔一九二九年十二月〕「工場細胞」
草稿ノート(11) 「工場細胞」(前冊につづく)「同志田口の感傷(「週刊朝日」)」
草稿ノート(12)「独房」[メモ](「印度」の批判)[メモ]([海員])[メモ]([農民とプロレタリアートの関係])[「安子」の腹案覚書相関図]メモ[同盟大会について]
草稿ノート(13)(表紙欠損)「オルグ」(日本近代文学館所蔵)
草稿ノート(14) 断稿「転形期の人々 序編」(市立小樽文学館所蔵)
析々帳 ※1926年5月26日から1928年1月1日までの日記
ここには、「東倶知安行」の作が含まれていない。また初期から1931年までのもので、それ以後のものは含まれていない。それらは散逸、あるいは秘蔵され、まだ公開されていない可能性もある。
●直筆原稿
直筆原稿のほかに、原稿から起こされ伏字の指定がされる前のゲラと、単行本収録にあたって本人によって書き入れがされた新聞小説の切り抜きを直筆原稿に準ずるものとして収録されている。同内容は以下。「転形期の人々(前篇)」(日本近代文学館所蔵)は川並秀雄旧蔵で、多喜二が虐殺された後にアジトに残されたトランクから発見されたもの。前書きは貴司山治の手跡と思われる貴重な原稿。「党生活者」のゲラは、国際書院版全集のゲラ(中野重治旧蔵)が市立小樽文学館に所蔵されている。これと中央公論版ゲラの比較検討される日も近いことだろう。
「老いた体操教師」(日本共産党所蔵)5枚、「蟹工船」(日本近代文学館所蔵)91枚、「不在地主」(多喜二ライブラリー佐野力所蔵) 冒頭から3枚、「不在地主」(日本共産党所蔵)116枚(#30~145)、「工場細胞」(川内まごころ文学館所蔵)188枚、「壁小説と『短い』短篇小説」(日本近代文学館所蔵)7枚、「新女性気質」(「都新聞」切り抜き 日本共産党所蔵)69回分、「転形期の人々(前篇)」(日本近代文学館所蔵)49枚、「故里の顔」(北海道立文学館所蔵)6枚、 「「文学の党派性」確立のために」(日本共産党所蔵)42枚、「文芸時評」(日本近代文学館所蔵)33枚、「地区の人々」(日本近代文学館所蔵)106枚、「党生活者」(中央公論版ゲラ)(日本共産党所蔵)87頁分。
【4】国際的な研究とその展望
「蟹工船」は多喜二在世中より世界に知られ、そのテクストは翻訳されてきた。おもな訳として「蟹工船」(中国語 潘念之訳上海大江書鋪 1930)をはじめ、「蟹工船」(英語 ニューヨークインターナショナル出版社 1933)、「蟹工船」(チェコ語 ヴラスタ・ヒルスカ訳 人民図書館 1947)、「蟹工船」(ロシア語 アストルガーツキイ訳 沿海書籍出版所 1960)、 「蟹工船」(中国語 楼適夷訳 1955)、「蟹工船」(ドイツ語 「民族と世界」出版社 1958)、「蟹工船」(ベトナム語 マイ・ホン訳 文学出版社 1962)、「連環画蟹工船」(中国語 楼適夷訳・辛人改編・金立徳作画 上海人民美術出版社 1962)、「蟹工船・不在地主」(英語 フランク・モトフジ訳 ワシントン大学出版会1973)、「日漢対照蟹工船」(中国語 李恩敬訳)北京出版社1981)、「蟹工船」(韓国語イ・クィウォン)チング出版社 1987)などが知られている。近年も「蟹工船」(韓国語 梁喜辰訳 2008年)などが取り組まれて新たな広がりをみせている。その優れた文学性と合せて「反戦・平和・国際主義」の観点が高く評価されている。近年の多喜二浮上の社会的要因が国際的・構造的なものであることから、必然的に欧米・アジアの日本研究者も注目し、独自の論点も提示されはじめている。さらに中国・韓国・台湾・アメリカ・フランス・スペインなどにおいても新たな翻訳書が刊行されている。
発表から80余年を迎えた同作は、社会現象「格差社会」「貧困」が問題となった近年に再注目され、2008年はオックスフォード大学で「多喜二シンポジウム」が開催、韓国語版の新訳が出版、フランス語訳(エヴリン・オドリ)も2010年出版、80年代キューバで出版されたスペイン語訳も近年見直されるなど、世界的な関心も高い。
2009年5月には、島村輝教授の呼びかけで近年「蟹工船」の翻訳に携わった訳者が集って「「蟹工船」翻訳者シンポ」を、東京・代官山で開催した。会場では、実際に同作の翻訳に関わった訳者たちが、『「蟹工船」が世界でどう読まれているか』をテーマにトークイベントを開催。出演は、「蟹工船」フランス語翻訳作業中のエブリン・オドリ、2008年「蟹工船」韓国語新訳を出版したヤン・ヒジン、フェリス女学院大学教授・島村輝、アートディレクター・北川フラムの4人。「蟹工船」スペイン語版を刊行したマリア・テレサ・オルテガとリディア・ペドレイラもメッセージを寄せるなど画期的内容だった。いまや、「蟹工船」は漢字圏、英語圏だけではなく、モンゴル、アラビアなどの言語に翻訳されて広まっているだけに、こうした国際的な受容と評価・翻訳のあり方などについて、現段階で各国のプロレタリア文化運動などとも関連させ、比較文学の観点から整理することが求められている。
その際に、あらためて多喜二の文学と生涯を通底する国際的連帯の精神を明らかにすることが求められている。とり
わけ日本帝国主義が中国東北部に侵略を開始した「満州事変」直後の入党の意義、さらに日本反帝同盟役員として上海反戦会議成功のために奔走したこと、多喜二没後55周年に発見された「全集未収録「文化聯盟」結成に就て」(『三田新聞』1931年11月26日付、『民主文学』1988年2月号復刻掲載 小林茂夫解題)、「国際プロレタリア文化聯盟」結成についての緊急提案」(『プロレタリア文学』1932年5月号)などで、世界的なファシズムとの文化闘争を訴えたことの意義を受け止める必要があるだろう。
○漢字圏では
ともあれ、多喜二文学の他言語への翻訳は、潘念之訳『蟹工船』が嚆矢である。この中国語版初版本に、多喜二は序文を書いている。直筆原稿の現存は確認されないが、『小林多喜二全集』第五巻に収録されている日本語本文は、ノートに残された草稿から起こされたものである。この序文で多喜二は、中国と日本のプロレタリアートの連帯を唱え、「「蟹工船」の残虐を極めている原始的搾取、囚人的労働が、各国帝国主義の鉄の鎖にしばられて、動物線以下の虐使を強いられている支那プロレタリアの現状と、そのまゝ置きかえられることは出来ないだろうか。出来るのだ!」と記している。
「中国・小林多喜二国際シンポジウム」(2005年 河北大学主催)で、日本文学研究者の呂元明は、中国語版『蟹工船』について、当初出版を承認していた国民党政府は、急遽発売禁止の処分をし、訳者の潘念之が明治大学法学部で学んだ「日本留学組」の一人であり、中国共産党員であったため、国民党政府の追及されることとなった。危険が身に迫った潘念之は消息を絶って地下活動を続け、地下の秘密出版として、何度も刊行して読み継がれたという。ちなみに潘念之は中華人民共和国成立後、大学教員となり、80年代に死去したという。今日の中国では、楼適夷氏や叶渭渠氏らといったいくつかのバージョンの翻訳が出ているが、もっとも信頼のおける翻訳は秦剛北京外語大学教授監修の『蟹工船』(人民文学出版社 2009)で、マンガと原作翻訳、秦剛序文、島村輝解説を収録、多喜二文学翻訳史に残る一冊となっている。
※陳君「中国で「蟹工船」はどう読まれてきたか」(『小樽商科大学人文研究』2008)に、まとまった情報がある。
○英語圏では
英語版「蟹工船」は、1933年多喜二虐殺直後のニューヨークインターナショナル出版社から刊行されていることが注目される。翻訳者は秘匿されているが、松本正雄「英訳「蟹工船」のこと」(『民主文学』(70.4)によれば、それはマックス・ビッカートン(Max Bickerton's)であるとされる。この間の経緯について、狩野 不二夫「マックス・ビッカートン(1901-66)の1930年代における日本共産党シンパ活動とプロレタリア文学の翻訳」(『ニュージーランド研究』 2007.12)が詳論している。その翻訳の質はよくない。その後、フランク・モトフジ訳『蟹工船・不在地主』(ワシントン大学出版部 1973)が刊行され、ようやく多喜二文学としてのテクストが完成したといえる。
近年、欧米でプロレタリア文化研究で目覚ましい成果を上げているヘザー・ボーウェン‐ストライクは、「プロレタリア文学――世界を見通すにあたって、それがなぜ大切なのか」(日本近代文学会の機関誌『日本近代文学』第76集 2007年5月15日発行)で、「この十年ほど、日本のプロレタリア文学についての国際的研究者の数は、ミリアム・シルババーグのような極く限られた例外的な人から、日本文学、比較文学、文化研究、映画研究、ジェンダー研究、歴史学、人類学など様々な分野の多くの学生・研究者へと増加してきた。その仕事のいくらかは、翻訳、研究、学位論文などの形で公にされはじめており、将来その数は増加していくことが見込まれる。まことに、私たちは日本プロレタリア文学の国際的研究ブームの劈頭に立っていると言いたくなるほどである。」日本プロレタリア文学への海外研究者の関心のひろがりを述べている。
ヘザー本人も、2002年11月、シカゴ大学において、東アジアにおけるプロレタリア芸術についての国際シンポジウムを召集。このシンポジウムを基盤にした『ポジション――東アジア文化批評』(positions: east asia cultures critique)の特集号を刊行。日本、韓半島、台湾、中国の作家と美術家の個別の仕事についての具体的研究の文脈における、帝国主義と国際主義、階級とジェンダー、モダニズムの問題を扱っている。
ヘザーは、「今日のプロレタリア文学研究の特徴を表すキーワードの選択(帝国主義、ジェンダー、モダニズム)は、一般にこの領域に関る者たちの関心を反映したものである。だがプロレタリア文学の研究はすでにこの3つのキーワードの表すものを超えているといったほうが妥当で、その典型的な例として、ノーマ・フィールドの仕事を上げることができる。岩波新書『小林多喜二』(2009)は、語りの構造分析、植民地(およびポスト・コロニアルの)北海道における具体的な経済状況への関心、そして歴史の中の人々の姿を浮き彫りにし、多喜二没後における、彼の仕事と作品の生命力を追究することを通じて、多喜二の時代を現在にありありと彷彿させ、1920~30年代の闘争とわれわれの生きる現在との連続性を可視化に成功した。」という。
ヘザーは、現在、ノーマ・フィールドとともに英訳版日本プロレタリア文学選集『革命の文学』(Literature for Revolution: An Anthology of Japanese Proletarian Writings)編集の仕事に取り組んでおり、数年以内に出版の予定である。
【エピローグ】 21世紀の多喜二の展望――多喜二学の提言
○多喜二学の提唱
「2012小樽多喜二シンポジウム」が、多喜二の母校・小樽商科大学主催で、2012年2月21日-22日で開催される。初日には、ノーマ・フィールド(シカゴ大学教授)による「小林多喜二を21世紀に考える意味」(仮題)の基調講演が行われ、第1分科会「多喜二文学の国際性」では、「多喜二文学翻訳の可能性」、「多喜二と国際プロレタリア文学運動」、「多喜二の「反戦・平和・国際主義」をめぐって」が報告され、海外研究者を多数招いてのパネルディスカッションを予定。2日目の2月22日は、第2分科会「社会経済史的観点からみた多喜二文学」、第3分科会「多喜二「ノート草稿」を読み解く」が実施される予定だ。このシンポジウムは、2003年に白樺文学館多喜二ライブラリーが第1回を開催して以来、5回目(「2009「蟹工船」翻訳者シンポ」を加えれば6回目)となるもので、今回はこれまでを総括する位置づけを与えられているだけに、その重要性はいうまでもない。
そこでぜひ検討いただきたいと思うのは、自衛隊・調査隊による「秋田・小林多喜二生誕100年記念展」への監視」が行われた事件(「しんぶん赤旗」2007年6月7日報道)へどういう態度をとるべきかという課題。
この課題については、すでに2008年幕張メッセで行われた「9条世界会議」の「多喜二文科会」で提起してきたものの民主文学運動内ではあまり関心を呼ばなかったが、多喜二学の今の課題として検討する必要があるだろう。この事件は、「自衛隊・情報保全隊の内部文書」で明らかになったもので、イラク派兵反対運動からマスコミや地方議会の動向まで、自衛隊による違憲・違法な国民監視活動は、市民生活の隅々にまで及んでいたことが明らかになった。陸自東北方面情報保全隊が作成した文書「情報資料について(通知)」からは、自衛隊による日常的な国民監視の実態が浮かび上がる。同文書には、イラク自衛隊派兵に対する反対運動に限らず、さまざまな運動の参加人数や宣伝内容といった情報が収集されており、プロレタリア作家、小林多喜二の生誕百年を記念して秋田市内で開かれた文学展も監視対象になっていた(04年2月26日付文書)。小林多喜二には特に、「労働運動、共産主義運動に傾倒」などと注釈までつけていることが注目される。この国民監視の問題は、ファシズム前夜の時代相を現代の抱える諸問題と交錯させて理解したい。
また、これらの課題を総合的に追究することを通して、総合的に「文学と社会・経済の直結不可分性」を含む”多喜二学”の構築が求められている。
その「文学」は「プロレタリア文学」の位相の再検討を含む「言葉」と「社会」との関係という文脈のなかで、その「文学」の意味を徹底して掘り下げることと、多喜二読解を世界文学の地平において再検討することによって、はじめて有意義のものとなるだろう。こうした問題関心に立って、現代という新たな「多喜二の時代」に向き合う視座を構築し、多喜二の文学性と直結する北海道・北洋圏を基盤として、現代の諸課題と切り結んだ新たな多喜二学の構築――「多喜二文学の社会・経済の直結不可分性」――、多喜二が卒業後に小樽高商文芸研究会の機関誌『北方文芸』第七号(1929.6)に寄稿した評論「こう変っているのだ。」のなかで、「社会は、生々(いきいき)とした社会的に価値ある内容を求めているのだ。――無雑作に、漠然と、興(きょう)のおもむくままに書くことはやめよう」と呼びかけている。まさにこの多喜二の提言への展望が求められているといえる。(2011.7.15)
付記*多喜二旧蔵図書は現在、小樽商科大学図書館、白樺文学館多喜二ライブラリー、日本 近代文学館、神奈川近代文学館に所蔵されている。重要な情報がそこにあるが、本論では紙幅が許されずそれに触れることができなかったことを記しておく。
その一方で、研究者にとって課題となっていたのが、多喜二テクストについての再検討だった。
2003年以降からのこの10年の間にも、多喜二ライブラリーの資料発掘の作業の進展によって、全集未収録の資料が一定程度となり、さらに、多喜二テクスト再検討の作業はすすめられており、「小林多喜二草稿ノート」が、日本共産党中央委員会への所蔵がえとなったことが明らかになった。関係者の根気づよい交渉の結果、複製品制作とその公開が実現。これを機に、現存する多喜二肉筆による全集が企図された。
これが実現したのが、「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」で、デジタル画像となってDVD化された(雄松堂書店・10万5000円)。これには、草稿ノート(全14冊)、「析々帳」と表紙に書かれた日記(1冊)、「蟹工船」「転形期の人々」などの直筆原稿、「党生活者」の中央公論の完全ゲラ、草稿ノートに対応する25作品の初出誌の誌(紙)面が収録された。
これまで、多喜二ノ―ト草稿は、『多喜二全集』(新日本出版社 1982~)の第1巻に、「曖昧屋」「来るべきこと」(シナリオ)「雪の夜」「その出発を出発した女」「山本巡査・第2巻には、「監獄部屋」「防雪林(改作)」。第3巻は、「生れ出ずる子ら」について」「無題」「「女囚徒」の自序」、「築地小劇場来る―上演脚本に就いて」「政治と芸術の「交互作用」」。第7巻は、「ひる!!」「断稿(1)」「断稿(2)」「And Again!!」「「師走」の改作」「酌婦」「無題」「「人を殺す犬」の改作」「放火未遂犯人」「営養検査」「馬鹿野郎!!―自殺しかけた同志」などが文字に起こされ、収録されている。
これは日本共産党中央委員会(草稿ノート12冊、「析々帳」1冊)と、市立小樽文学館、日本近代文学館、多喜二ライブラリーなどの提供資料で実現したものだ。全集未紹介のメモも多く、また多喜二が地下生活に入って執筆し、1932年の「赤旗」に掲載された「高山鉄」名による小説「村の事件」を、多喜二「未発掘」作品として「認定」して収録してもいる。
これにより、戦前は禁書扱いされていたため、散逸してしまったものは多いが、多喜二の文学を、もう一度それを生み出した時代と文化の総体の中に引き戻し、新しい光をあてていくことへの道が開けた。
では「小林多喜二草稿ノート・直筆原稿」の内容をみてみよう(草稿ノートに付した番号は便宜的なもの。〔 〕内は多喜二が記したタイトル。特に記載のないものは日本共産党所蔵)。
●草稿ノート
草稿ノート(1)=(1925―1927) 「姉との記憶」「「生まれ出づる子等」について」[札幌の北海道絵画展を見た]「曖昧屋」[無題](ドストエフスキーについて)[来るべきこと]「And Again」[「師走」の改作]「父の危篤」「酎婦」「人を殺す犬」断稿「恋愛の諸相」、「生の諸相」などのメモ「人を殺す犬」の書き出し改訂断稿(「酎婦」関連のもの)断稿「春が来ると淋しい」、断稿「大手門」ほか。
草稿ノート(2)=〔昭和二年 第一号〕「雪の夜」「「人を殺す犬」の改作」「お恵と彼」「大熊信行先生の「社会思想家としてのラスキンをモリス」紹介のために小樽新聞、タイムスへ出す草稿」「女囚徒(一幕)」「女囚徒の自序」「放火未遂犯人」「"Eternal problem"(父の危篤)の最後に」「その出発を出発した女(上編)」「残されるもの」
草稿ノート(3) 〔原稿帳 昭和二年 第二号〕「その出発を出発した女(中編)」
草稿ノート(4) 〔原稿帳 第三号〕「営養検査」「築地小劇場来る。上演脚本に就いて」「愈々 築地小劇場来る!十一、十二日毎夕六時より中央座に於て」「山本巡査(四場)」「チャプリンについてのノート」[防雪林についてのメモ]「防雪林(未定稿)北海道に捧ぐ」
草稿ノート(5)〔一九二八年(A)〕「誰かに宛てた記録(短篇)」「山本巡査(四場)全国の巡査諸君に捧ぐ」「とても重大なこと」「政治と芸術の「交互作用」(「創作月号」五月号)」「『監獄部屋』(「人を殺す犬」の改題及改作)」「一九二八・三・一五(我がプロレタリ前衛の闘士に捧ぐ)」
草稿ノート(6)〔一九二八年(C)〕「(一九二八・三・一五の続)」「防雪林(改作)」「「カムサッカ」から帰ってきた漁夫の手紙」(※前半のみ残されている)「プロレタリア文学の「大衆性」と「大衆化」について―簡単な覚書―」「馬鹿野郎!!(自殺しかけた同志)」
草稿ノート(7) 「蟹工船」 「遅れました。第二作をお送りします。」[箇条書きメモ]「蟹工船(三)の最後に入る」[メモ]((A)~(E))
草稿ノート(8) 一九二九、七、六、No.2〕「不在地主」[メモ](「節、キヌ、お恵」の短いメモ)
草稿ノート(9) 〔原稿帳 一九二九 No.1〕「暴風警戒報」「救援ニュースNo.18附録」「支那訳の序文」「一九三〇年のプロレタリア文学の方向(読売新聞 新年)」「資料(「プロレタリア」)」「北海道の「俊寛」(大阪朝日のために)」「総選挙と我等の「山懸」」。「戦旗」二月号のために」。「プロレタリア文学の「新らしい形式」について。」「プロレタリア文学の新しい文章について。―「改造」二月号―」「宗教の「急所」は何処にあるか(「中外日報」)」「「暴風警戒報」と「救援ニュースNo.18附録」に就いて。」「「機械の階級性」に就いて。(「新機械派」)のために。」「銀行の話(「戦旗」三月号)」[メモ](「最後に、私自身のことだが、」)
草稿ノート(10) 〔一九二九年十二月〕「工場細胞」
草稿ノート(11) 「工場細胞」(前冊につづく)「同志田口の感傷(「週刊朝日」)」
草稿ノート(12)「独房」[メモ](「印度」の批判)[メモ]([海員])[メモ]([農民とプロレタリアートの関係])[「安子」の腹案覚書相関図]メモ[同盟大会について]
草稿ノート(13)(表紙欠損)「オルグ」(日本近代文学館所蔵)
草稿ノート(14) 断稿「転形期の人々 序編」(市立小樽文学館所蔵)
析々帳 ※1926年5月26日から1928年1月1日までの日記
ここには、「東倶知安行」の作が含まれていない。また初期から1931年までのもので、それ以後のものは含まれていない。それらは散逸、あるいは秘蔵され、まだ公開されていない可能性もある。
●直筆原稿
直筆原稿のほかに、原稿から起こされ伏字の指定がされる前のゲラと、単行本収録にあたって本人によって書き入れがされた新聞小説の切り抜きを直筆原稿に準ずるものとして収録されている。同内容は以下。「転形期の人々(前篇)」(日本近代文学館所蔵)は川並秀雄旧蔵で、多喜二が虐殺された後にアジトに残されたトランクから発見されたもの。前書きは貴司山治の手跡と思われる貴重な原稿。「党生活者」のゲラは、国際書院版全集のゲラ(中野重治旧蔵)が市立小樽文学館に所蔵されている。これと中央公論版ゲラの比較検討される日も近いことだろう。
「老いた体操教師」(日本共産党所蔵)5枚、「蟹工船」(日本近代文学館所蔵)91枚、「不在地主」(多喜二ライブラリー佐野力所蔵) 冒頭から3枚、「不在地主」(日本共産党所蔵)116枚(#30~145)、「工場細胞」(川内まごころ文学館所蔵)188枚、「壁小説と『短い』短篇小説」(日本近代文学館所蔵)7枚、「新女性気質」(「都新聞」切り抜き 日本共産党所蔵)69回分、「転形期の人々(前篇)」(日本近代文学館所蔵)49枚、「故里の顔」(北海道立文学館所蔵)6枚、 「「文学の党派性」確立のために」(日本共産党所蔵)42枚、「文芸時評」(日本近代文学館所蔵)33枚、「地区の人々」(日本近代文学館所蔵)106枚、「党生活者」(中央公論版ゲラ)(日本共産党所蔵)87頁分。
【4】国際的な研究とその展望
「蟹工船」は多喜二在世中より世界に知られ、そのテクストは翻訳されてきた。おもな訳として「蟹工船」(中国語 潘念之訳上海大江書鋪 1930)をはじめ、「蟹工船」(英語 ニューヨークインターナショナル出版社 1933)、「蟹工船」(チェコ語 ヴラスタ・ヒルスカ訳 人民図書館 1947)、「蟹工船」(ロシア語 アストルガーツキイ訳 沿海書籍出版所 1960)、 「蟹工船」(中国語 楼適夷訳 1955)、「蟹工船」(ドイツ語 「民族と世界」出版社 1958)、「蟹工船」(ベトナム語 マイ・ホン訳 文学出版社 1962)、「連環画蟹工船」(中国語 楼適夷訳・辛人改編・金立徳作画 上海人民美術出版社 1962)、「蟹工船・不在地主」(英語 フランク・モトフジ訳 ワシントン大学出版会1973)、「日漢対照蟹工船」(中国語 李恩敬訳)北京出版社1981)、「蟹工船」(韓国語イ・クィウォン)チング出版社 1987)などが知られている。近年も「蟹工船」(韓国語 梁喜辰訳 2008年)などが取り組まれて新たな広がりをみせている。その優れた文学性と合せて「反戦・平和・国際主義」の観点が高く評価されている。近年の多喜二浮上の社会的要因が国際的・構造的なものであることから、必然的に欧米・アジアの日本研究者も注目し、独自の論点も提示されはじめている。さらに中国・韓国・台湾・アメリカ・フランス・スペインなどにおいても新たな翻訳書が刊行されている。
発表から80余年を迎えた同作は、社会現象「格差社会」「貧困」が問題となった近年に再注目され、2008年はオックスフォード大学で「多喜二シンポジウム」が開催、韓国語版の新訳が出版、フランス語訳(エヴリン・オドリ)も2010年出版、80年代キューバで出版されたスペイン語訳も近年見直されるなど、世界的な関心も高い。
2009年5月には、島村輝教授の呼びかけで近年「蟹工船」の翻訳に携わった訳者が集って「「蟹工船」翻訳者シンポ」を、東京・代官山で開催した。会場では、実際に同作の翻訳に関わった訳者たちが、『「蟹工船」が世界でどう読まれているか』をテーマにトークイベントを開催。出演は、「蟹工船」フランス語翻訳作業中のエブリン・オドリ、2008年「蟹工船」韓国語新訳を出版したヤン・ヒジン、フェリス女学院大学教授・島村輝、アートディレクター・北川フラムの4人。「蟹工船」スペイン語版を刊行したマリア・テレサ・オルテガとリディア・ペドレイラもメッセージを寄せるなど画期的内容だった。いまや、「蟹工船」は漢字圏、英語圏だけではなく、モンゴル、アラビアなどの言語に翻訳されて広まっているだけに、こうした国際的な受容と評価・翻訳のあり方などについて、現段階で各国のプロレタリア文化運動などとも関連させ、比較文学の観点から整理することが求められている。
その際に、あらためて多喜二の文学と生涯を通底する国際的連帯の精神を明らかにすることが求められている。とり
わけ日本帝国主義が中国東北部に侵略を開始した「満州事変」直後の入党の意義、さらに日本反帝同盟役員として上海反戦会議成功のために奔走したこと、多喜二没後55周年に発見された「全集未収録「文化聯盟」結成に就て」(『三田新聞』1931年11月26日付、『民主文学』1988年2月号復刻掲載 小林茂夫解題)、「国際プロレタリア文化聯盟」結成についての緊急提案」(『プロレタリア文学』1932年5月号)などで、世界的なファシズムとの文化闘争を訴えたことの意義を受け止める必要があるだろう。
○漢字圏では
ともあれ、多喜二文学の他言語への翻訳は、潘念之訳『蟹工船』が嚆矢である。この中国語版初版本に、多喜二は序文を書いている。直筆原稿の現存は確認されないが、『小林多喜二全集』第五巻に収録されている日本語本文は、ノートに残された草稿から起こされたものである。この序文で多喜二は、中国と日本のプロレタリアートの連帯を唱え、「「蟹工船」の残虐を極めている原始的搾取、囚人的労働が、各国帝国主義の鉄の鎖にしばられて、動物線以下の虐使を強いられている支那プロレタリアの現状と、そのまゝ置きかえられることは出来ないだろうか。出来るのだ!」と記している。
「中国・小林多喜二国際シンポジウム」(2005年 河北大学主催)で、日本文学研究者の呂元明は、中国語版『蟹工船』について、当初出版を承認していた国民党政府は、急遽発売禁止の処分をし、訳者の潘念之が明治大学法学部で学んだ「日本留学組」の一人であり、中国共産党員であったため、国民党政府の追及されることとなった。危険が身に迫った潘念之は消息を絶って地下活動を続け、地下の秘密出版として、何度も刊行して読み継がれたという。ちなみに潘念之は中華人民共和国成立後、大学教員となり、80年代に死去したという。今日の中国では、楼適夷氏や叶渭渠氏らといったいくつかのバージョンの翻訳が出ているが、もっとも信頼のおける翻訳は秦剛北京外語大学教授監修の『蟹工船』(人民文学出版社 2009)で、マンガと原作翻訳、秦剛序文、島村輝解説を収録、多喜二文学翻訳史に残る一冊となっている。
※陳君「中国で「蟹工船」はどう読まれてきたか」(『小樽商科大学人文研究』2008)に、まとまった情報がある。
○英語圏では
英語版「蟹工船」は、1933年多喜二虐殺直後のニューヨークインターナショナル出版社から刊行されていることが注目される。翻訳者は秘匿されているが、松本正雄「英訳「蟹工船」のこと」(『民主文学』(70.4)によれば、それはマックス・ビッカートン(Max Bickerton's)であるとされる。この間の経緯について、狩野 不二夫「マックス・ビッカートン(1901-66)の1930年代における日本共産党シンパ活動とプロレタリア文学の翻訳」(『ニュージーランド研究』 2007.12)が詳論している。その翻訳の質はよくない。その後、フランク・モトフジ訳『蟹工船・不在地主』(ワシントン大学出版部 1973)が刊行され、ようやく多喜二文学としてのテクストが完成したといえる。
近年、欧米でプロレタリア文化研究で目覚ましい成果を上げているヘザー・ボーウェン‐ストライクは、「プロレタリア文学――世界を見通すにあたって、それがなぜ大切なのか」(日本近代文学会の機関誌『日本近代文学』第76集 2007年5月15日発行)で、「この十年ほど、日本のプロレタリア文学についての国際的研究者の数は、ミリアム・シルババーグのような極く限られた例外的な人から、日本文学、比較文学、文化研究、映画研究、ジェンダー研究、歴史学、人類学など様々な分野の多くの学生・研究者へと増加してきた。その仕事のいくらかは、翻訳、研究、学位論文などの形で公にされはじめており、将来その数は増加していくことが見込まれる。まことに、私たちは日本プロレタリア文学の国際的研究ブームの劈頭に立っていると言いたくなるほどである。」日本プロレタリア文学への海外研究者の関心のひろがりを述べている。
ヘザー本人も、2002年11月、シカゴ大学において、東アジアにおけるプロレタリア芸術についての国際シンポジウムを召集。このシンポジウムを基盤にした『ポジション――東アジア文化批評』(positions: east asia cultures critique)の特集号を刊行。日本、韓半島、台湾、中国の作家と美術家の個別の仕事についての具体的研究の文脈における、帝国主義と国際主義、階級とジェンダー、モダニズムの問題を扱っている。
ヘザーは、「今日のプロレタリア文学研究の特徴を表すキーワードの選択(帝国主義、ジェンダー、モダニズム)は、一般にこの領域に関る者たちの関心を反映したものである。だがプロレタリア文学の研究はすでにこの3つのキーワードの表すものを超えているといったほうが妥当で、その典型的な例として、ノーマ・フィールドの仕事を上げることができる。岩波新書『小林多喜二』(2009)は、語りの構造分析、植民地(およびポスト・コロニアルの)北海道における具体的な経済状況への関心、そして歴史の中の人々の姿を浮き彫りにし、多喜二没後における、彼の仕事と作品の生命力を追究することを通じて、多喜二の時代を現在にありありと彷彿させ、1920~30年代の闘争とわれわれの生きる現在との連続性を可視化に成功した。」という。
ヘザーは、現在、ノーマ・フィールドとともに英訳版日本プロレタリア文学選集『革命の文学』(Literature for Revolution: An Anthology of Japanese Proletarian Writings)編集の仕事に取り組んでおり、数年以内に出版の予定である。
【エピローグ】 21世紀の多喜二の展望――多喜二学の提言
○多喜二学の提唱
「2012小樽多喜二シンポジウム」が、多喜二の母校・小樽商科大学主催で、2012年2月21日-22日で開催される。初日には、ノーマ・フィールド(シカゴ大学教授)による「小林多喜二を21世紀に考える意味」(仮題)の基調講演が行われ、第1分科会「多喜二文学の国際性」では、「多喜二文学翻訳の可能性」、「多喜二と国際プロレタリア文学運動」、「多喜二の「反戦・平和・国際主義」をめぐって」が報告され、海外研究者を多数招いてのパネルディスカッションを予定。2日目の2月22日は、第2分科会「社会経済史的観点からみた多喜二文学」、第3分科会「多喜二「ノート草稿」を読み解く」が実施される予定だ。このシンポジウムは、2003年に白樺文学館多喜二ライブラリーが第1回を開催して以来、5回目(「2009「蟹工船」翻訳者シンポ」を加えれば6回目)となるもので、今回はこれまでを総括する位置づけを与えられているだけに、その重要性はいうまでもない。
そこでぜひ検討いただきたいと思うのは、自衛隊・調査隊による「秋田・小林多喜二生誕100年記念展」への監視」が行われた事件(「しんぶん赤旗」2007年6月7日報道)へどういう態度をとるべきかという課題。
この課題については、すでに2008年幕張メッセで行われた「9条世界会議」の「多喜二文科会」で提起してきたものの民主文学運動内ではあまり関心を呼ばなかったが、多喜二学の今の課題として検討する必要があるだろう。この事件は、「自衛隊・情報保全隊の内部文書」で明らかになったもので、イラク派兵反対運動からマスコミや地方議会の動向まで、自衛隊による違憲・違法な国民監視活動は、市民生活の隅々にまで及んでいたことが明らかになった。陸自東北方面情報保全隊が作成した文書「情報資料について(通知)」からは、自衛隊による日常的な国民監視の実態が浮かび上がる。同文書には、イラク自衛隊派兵に対する反対運動に限らず、さまざまな運動の参加人数や宣伝内容といった情報が収集されており、プロレタリア作家、小林多喜二の生誕百年を記念して秋田市内で開かれた文学展も監視対象になっていた(04年2月26日付文書)。小林多喜二には特に、「労働運動、共産主義運動に傾倒」などと注釈までつけていることが注目される。この国民監視の問題は、ファシズム前夜の時代相を現代の抱える諸問題と交錯させて理解したい。
また、これらの課題を総合的に追究することを通して、総合的に「文学と社会・経済の直結不可分性」を含む”多喜二学”の構築が求められている。
その「文学」は「プロレタリア文学」の位相の再検討を含む「言葉」と「社会」との関係という文脈のなかで、その「文学」の意味を徹底して掘り下げることと、多喜二読解を世界文学の地平において再検討することによって、はじめて有意義のものとなるだろう。こうした問題関心に立って、現代という新たな「多喜二の時代」に向き合う視座を構築し、多喜二の文学性と直結する北海道・北洋圏を基盤として、現代の諸課題と切り結んだ新たな多喜二学の構築――「多喜二文学の社会・経済の直結不可分性」――、多喜二が卒業後に小樽高商文芸研究会の機関誌『北方文芸』第七号(1929.6)に寄稿した評論「こう変っているのだ。」のなかで、「社会は、生々(いきいき)とした社会的に価値ある内容を求めているのだ。――無雑作に、漠然と、興(きょう)のおもむくままに書くことはやめよう」と呼びかけている。まさにこの多喜二の提言への展望が求められているといえる。(2011.7.15)
付記*多喜二旧蔵図書は現在、小樽商科大学図書館、白樺文学館多喜二ライブラリー、日本 近代文学館、神奈川近代文学館に所蔵されている。重要な情報がそこにあるが、本論では紙幅が許されずそれに触れることができなかったことを記しておく。
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