●蔵原 惟人 (くらはら・これひと 1902.1.26~1991.1.25) は、進歩的自由主義者で慶大教授や代議士を務めた蔵原惟郭
の第五子、次男として東京・麻布で生まれました。小林多喜二より1歳年長です。翻訳家・文芸評論家として知られます。
の第五子、次男として東京・麻布で生まれました。小林多喜二より1歳年長です。翻訳家・文芸評論家として知られます。
【学歴】・東京外国語学校本科ロシア語部卒
【別名】佐藤耕一、古川荘一郎、谷本清、野崎雄二、柴田和雄。
惟人は、東京府立第一中学校時代から、同級の浅野晃(獄死した伊藤千代子の元夫)、飯島正、村井康男らと回覧雑誌を出し、詩・小
説・評論を発表。また友人から”ロシア文学”とあだ名されるほどロシア文学に傾倒しました。
説・評論を発表。また友人から”ロシア文学”とあだ名されるほどロシア文学に傾倒しました。
東京外国語学校時代は、講師の馬場哲哉(別名 外村史郎=ショーロホフ『静かなドン』の翻訳者)と「ロシヤ文学研究会」を組織し、雑
誌『ロシヤ文学』(第3次)を創刊、編集を担当しました。
誌『ロシヤ文学』(第3次)を創刊、編集を担当しました。
東京外語大学を卒業した1923(大正12)年に一年間、志願兵として千葉県佐倉57連隊に入隊し、この時期から、軍当局の目をかすめて
『資本論』などマルクス主義の書物を読み始めました。
『資本論』などマルクス主義の書物を読み始めました。
24年に除隊して、義兄の関係で福島の炭鉱の事務を手伝った後、翌25年2月、ロシア語およびロシア文 学研究のため、『都新聞』特
派員の名目でソビエト連邦へ出発、ハルピン、モスクワなどに滞在中、同紙や『新潮』誌に通信を送り新進の文芸評論家として頭角をあら
わしました。
派員の名目でソビエト連邦へ出発、ハルピン、モスクワなどに滞在中、同紙や『新潮』誌に通信を送り新進の文芸評論家として頭角をあら
わしました。
◇
このソ連滞在を通して蔵原は確実にマルクス主義の立場に立つ文芸批評家に成長し、翌26年1月肺結核と診断され(誤診だった)で帰
国し、その年の12月にプロレタリア芸術連盟(プロ芸)に加入。ここから蔵原のプロレタリア文学運動とのかかわりが始まります。
国し、その年の12月にプロレタリア芸術連盟(プロ芸)に加入。ここから蔵原のプロレタリア文学運動とのかかわりが始まります。
1年半のソ連滞在とはいえ、じかに本場のプロレタリア文学の空気に接してきた惟人は、翌27年3月、ただちに『文芸戦線』編集同人に迎
えられ、「現代日本文学と無産階級」をはじめとした文学評論を発表して理論家として注目を浴びます。
えられ、「現代日本文学と無産階級」をはじめとした文学評論を発表して理論家として注目を浴びます。
同年6月、中野重治、鹿地亘ら”福本主義者”たちが実権を握っていたプロ芸は、惟人、青野季吉、葉山嘉樹ら『文芸戦線』同人16名を
「小ブル」的芸術主義者として除名。
「小ブル」的芸術主義者として除名。
除名された惟人らは、すぐさま労農芸術家連盟(労芸)を結成、『文芸戦線』を機関誌として文芸活動を展開したものの、労芸は、同年11
月の山川均の論文掲載をめぐって紛糾してしまいます。惟人は藤森成吉、村山知義、林房雄らとともに労芸を脱退、前衛芸術家同盟を創
立し、機関誌『前衛』を創刊します。
月の山川均の論文掲載をめぐって紛糾してしまいます。惟人は藤森成吉、村山知義、林房雄らとともに労芸を脱退、前衛芸術家同盟を創
立し、機関誌『前衛』を創刊します。
この分裂事件を経験して書かれたのが「無産階級芸術運動の新段階―芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線へ」(28年1月)で
す。
す。
同年3月、戦前最初にして最後の統一戦線(それはアナキストから社会民主主義者、マルキストまで結集した)である日本左翼文芸家
総連合を結成し、『戦争に対する戦争』を発刊するなどして小林多喜二ら青年文学者に大きな影響を与えたが、”3.15事件”で挫折、労
共をのぞく全日本無産者芸術連盟(ナップ)の成立となって実現し、惟人はナップ機関誌『戦旗』の編集委員になった。
総連合を結成し、『戦争に対する戦争』を発刊するなどして小林多喜二ら青年文学者に大きな影響を与えたが、”3.15事件”で挫折、労
共をのぞく全日本無産者芸術連盟(ナップ)の成立となって実現し、惟人はナップ機関誌『戦旗』の編集委員になった。
同誌創刊号に発表した惟人の「プロレタリア・レアリズムへの道」によって、多喜二ら実作者も創作方法など大いに啓発しました。
この年、小樽の小林多喜二が惟人を訪れ、その示唆によって小説「一九二八年三月一五日」を書き上げると、惟人はこれを推薦し『戦
旗』(1928年11、12月号)に掲載。
旗』(1928年11、12月号)に掲載。
また、海外のプロレタリア文化を研究・紹介する国際文化研究所設立に努力し、『国際文化』(のちの『プロレタリア科学』)編集局長、年
末改組したナップ及びナルプの中央委員に就任しました。
末改組したナップ及びナルプの中央委員に就任しました。
29年9月、それまで資金援助などで支援していた日本共産党に入党、翌30年4月、治安維持法によって逮捕状が出されて地下活動に入
ります。
ります。
6月、共産党中央委員会(田中清玄指導下の)の指示で青年労働者・紺野与次郎、飯島キミらとともにひそかにソ連に入り、プロフィンテ
ルン(国際赤色労働組合)第5回大会に参加しました。
ルン(国際赤色労働組合)第5回大会に参加しました。
同年末、田中清玄ら共産党中央部検挙の報に接し、帰国を準備し翌31年2月に秘密裡に帰国。
6月、宣伝煽動(アジプロ)部の文化団体指導責任者となり、非合法活動のかたわら、「古川荘一郎」ほかの筆名で「芸術的方法について
の感想」などの評論を『ナップ』などに発表、32年4月4日、東京・小石川のアジトで逮捕され、約3ヵ月間、各署を転々と留置されました。そ
の闘いの一端は、小林多喜二の代表作「党生活者」に描かれています。
の感想」などの評論を『ナップ』などに発表、32年4月4日、東京・小石川のアジトで逮捕され、約3ヵ月間、各署を転々と留置されました。そ
の闘いの一端は、小林多喜二の代表作「党生活者」に描かれています。
以後、刑務所に収監、35年5月治安維持法違反で懲役7年の判決を受けた。その後、肺結核が悪化、出所まで病監に収容され、憲法発
布50年記念の「恩赦」で40年10月11日、1年減刑で出所しました。非転向を貫いたものの、肺結核が悪化し、のち妻となる作家・中本たか
子の献身的看護などで、翌41年から快方に向かった。
布50年記念の「恩赦」で40年10月11日、1年減刑で出所しました。非転向を貫いたものの、肺結核が悪化し、のち妻となる作家・中本たか
子の献身的看護などで、翌41年から快方に向かった。
出所後は保護観察処分に付されたが、病気を理由に一度も出頭せず、自宅療養しながらロシア語の翻訳のかたわら、父の勧めもあり
渡辺崋山の研究に打ち込んだ。
渡辺崋山の研究に打ち込んだ。
戦後は、日本共産党再建、新日本文学会創立に参加、文化・芸術分野の幅広いジャンルでリーダーシップを発揮、徳田球一指導部と対
立し除名さされたばかりか、一時GHQから公職追放されたが、名誉回復後は『文化評論』『民主文学』の創刊にもかかわり、ほぼ一貫し
て共産党の文化面での指導者として活躍しました。
立し除名さされたばかりか、一時GHQから公職追放されたが、名誉回復後は『文化評論』『民主文学』の創刊にもかかわり、ほぼ一貫し
て共産党の文化面での指導者として活躍しました。
1991年1月死去。『文化評論』『民主文学』が追悼特集を組む。
◇
没後15周年を前に、伊豆利彦『戦争と文学』は久々に蔵原惟人の業績に光を当てるものとなりました。
【関連文献】「プロレタリア・レアリズムへの道」(『戦旗』創刊号 5月号)、「再びプロレタリア・レアリズムについて」(『東京朝日新聞』 29/8
/11-14)、「『一九二八年三月十五日』について」(『戦旗』(28年11月号)、「プロレタリア文芸の画期的作品―小林多喜二の『一九二八年
三月十五日』―」(『都新聞』28年12月17日付)、蔵原惟人「最近のプロレタリア文学と新作家」(『改造』 29年1月号)、蔵原惟人「『蟹工船』
について」(『東京朝日新聞』 29/617-21)、「注目される四作品」(『東京朝日新聞』 29/12/11-14)、「芸術的方法についての感想」(『ナッ
プ』9月号)、蔵原惟人/中野重治編『小林多喜二研究』(解放社 48年)、「小林多喜二の現代的意義」 (48年3月7日多喜二祭での講
演 『文学前衛』 48年11月)、「小林多喜二の現代的意義」『新日本文学』(51年6月号)、「小林多喜二と宮本百合子」(『多喜二と百合
子』 54年10月号)/
/11-14)、「『一九二八年三月十五日』について」(『戦旗』(28年11月号)、「プロレタリア文芸の画期的作品―小林多喜二の『一九二八年
三月十五日』―」(『都新聞』28年12月17日付)、蔵原惟人「最近のプロレタリア文学と新作家」(『改造』 29年1月号)、蔵原惟人「『蟹工船』
について」(『東京朝日新聞』 29/617-21)、「注目される四作品」(『東京朝日新聞』 29/12/11-14)、「芸術的方法についての感想」(『ナッ
プ』9月号)、蔵原惟人/中野重治編『小林多喜二研究』(解放社 48年)、「小林多喜二の現代的意義」 (48年3月7日多喜二祭での講
演 『文学前衛』 48年11月)、「小林多喜二の現代的意義」『新日本文学』(51年6月号)、「小林多喜二と宮本百合子」(『多喜二と百合
子』 54年10月号)/
蔵原惟人、竹内好、平野謙、野間宏、小田切進編『日本プロレタリア文学案内1 日本プロレタリア文学の再検討』(三一書房 55年6
月)/『小林多喜二と宮本百合子』(新日本文庫 75年)
月)/『小林多喜二と宮本百合子』(新日本文庫 75年)
蔵原惟人 手塚英孝解説監修 『小林多喜二初版復刻全集・小林多喜二文学館』(全16巻) (ほるぷ社 80年)
蔵原惟人・中野重治編※監修吉田精一 解説浦西和彦『小林多喜二研究 近代作家研究叢書 35』(日本図書センター 84年)
『蔵原惟人評論集』(全10巻 新日本出版社 1966~79年)
伊豆利彦「小林多喜二と蔵原惟人――作家と評論家の問題
」『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』(2005/07/15 本の泉社)