『小林多喜二全集』第7巻
一〇七
1930年11月11日付
豊多摩刑務所の小林多喜二から村山籌子にあてた書簡
………………………………………………………………………
東京の秋は何処まで深くなるのですか。
ぼくは二十四カ年北の国を離れたことがない。それで、この長い、何処までも続く、高く澄んだ東京の秋を、まるで分らない驚異をもって眺めている。
今日は実によく飛行機がとぶ。
ぼくが残してきた北の国では、一台の飛行キが飛んで来ようものなら、何処の家からも、大人も子供も、みんな飛び出して、高い大空を見上げる。
冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、深い感動に捉えられている。そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは、人は重ッ苦しい空の下を、どれも背をまげて歩いている。ぼくは何処を歩いていようが、どの人をも知っている。赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を、ぼくはどんなに愛しているか分らない。
その街の場末にいるぼくの年老った母が、とても厚い、幅の広い、それにゴツゴツした掛蒲団を送ってくれた。この前、それを乾かすのに雑役の人が、「こんな親不幸ものにも、お母さんッて、こんなに厚い蒲団を送ってくれるものかな。」と云った。
この蒲団はそれにこの上もなく重い。夜、ぼくは寝返えりをうつのに、苦しい位である。ぼくは、で時々、この重さは、だが何んの重さだろう位のことを考えている。
ぼくは度々のあなたからの差入に対して、どんな言葉のお礼を申上げていいか分らないのです。その度に、ぼくは、そうだ元気で居なければならないと考えます。ぼくはどれも、ゆっくり噛んで、長いことかかって、たペることにしています。何故なら、すると、ぼくのお腹へ、それらのものが、とっくりとおさまるように感ずるからです。
この前の弁当は(晩の)殊においしく頂きました。それと共に、この頃、救援会からも差入があります。これは、又云うまでもなく別な、何んとも云えない、――たとえば、身体に粟立つような感じを与えます。
ぼくは、たしか、この前の便りで、「白痴」をよめることを喜んだことを書いたように思っていますが、それは不許可になってしまいました。ぼくの落タンを思っても見て下きい。「虐げられし人々」も今許可願を出していますが、危ぶんでいます。
ぼくは此頃あまり本をよむせいか、夜、とても沢山の夢を見ます。ぼくは本当に自分が寝っているのか、どうかさえ分らないほど、続け様に夢をみるので、どうかすると、ぼくの覚めている一日が二十四時間に延長してしまったのではないかとさえ思っています。夢を見ないなら、どんなによいかと思っています。
村山君は退屈していませんか。ぼくは此頃自分でも分る程顔が青く、手足が透きとおるように白くなり、運動に出ると、ぼくの目は太陽をまぶしがるようになるのを、感じ出してきました。
しかし、ぼくは毎朝冷水マサツをやり、室内体操をやっています。牛乳ものみ、卵さえ食っています。これで、どうにもならなかったら、時々、勝手にせ、とさえ思ったりする。これはしかし、あまり良いことのようではありません。それに、どうです。この筆は。筆が悪いと、ぼくはいらいらしてきて、折角沢山のことをあなたに書こうとしても、どうしても出来なくなります。
文壇には何か変ったことがありませんか。共同創作が流行ったとか云いますが、そんなものは、形ばかりのものなら、犬に喰われろです。何か素暗しい傑作でも出ないものかと思っています。全然新しい、今までに、知られていない人でないと、しかし、それは面白くありません。「不在地主」の公演はどうでしたか。人気があったが、よいものではなかったというのが本当なのでしょう。
どうせ、ぼくたちの手紙には何も書けないのですから、お暇な時に、「文壇お茶噺」でも書いてくださると、有難いのですが。とうとうぼくも十一月の最初の金曜日を此処で送るめぐり合わせになってしまいました。
そのことは、ふさわしいでしょう。この日、作家同盟から、「赤い」ごはんの弁当が差入になりました。ぼくたちは、すっかり喜ばせられ、元気づけられたわけです。此処は厚い煉瓦とコンクリートなので、風が吹きこむこともないので、今年の冬をキット居心地よく過ごせるのではないかと思っています。
あなたの処にメレジコフスキーの 「トルストイとドストイェフスキー」(東京堂) か、広瀬哲士の「新ふらんす文学(ナチュラリスムよりシュール・レアリスム)」(東京堂)がありませんか。トルストイの「芸術は何んぞや」もよんでみたいものの一つです。しかし、今のところ、ぼくはよみ切れない程の本をもっているのです。
最近チェホフの手紙をよんで、非常に喜ばされました。好ましい本の一つですね。それを見ると、チェホフは、よく手紙の最後に、こんな笑談を書いています。
「終りに、あなたの小ッちゃいお手てをにぎります。」と。
ぼくは毎日吉田松陰のように坐りこんでいます。又かきます。
一〇七
1930年11月11日付
豊多摩刑務所の小林多喜二から村山籌子にあてた書簡
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東京の秋は何処まで深くなるのですか。
ぼくは二十四カ年北の国を離れたことがない。それで、この長い、何処までも続く、高く澄んだ東京の秋を、まるで分らない驚異をもって眺めている。
今日は実によく飛行機がとぶ。
ぼくが残してきた北の国では、一台の飛行キが飛んで来ようものなら、何処の家からも、大人も子供も、みんな飛び出して、高い大空を見上げる。
冬が近くなると、ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、深い感動に捉えられている。そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは、人は重ッ苦しい空の下を、どれも背をまげて歩いている。ぼくは何処を歩いていようが、どの人をも知っている。赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を、ぼくはどんなに愛しているか分らない。
その街の場末にいるぼくの年老った母が、とても厚い、幅の広い、それにゴツゴツした掛蒲団を送ってくれた。この前、それを乾かすのに雑役の人が、「こんな親不幸ものにも、お母さんッて、こんなに厚い蒲団を送ってくれるものかな。」と云った。
この蒲団はそれにこの上もなく重い。夜、ぼくは寝返えりをうつのに、苦しい位である。ぼくは、で時々、この重さは、だが何んの重さだろう位のことを考えている。
ぼくは度々のあなたからの差入に対して、どんな言葉のお礼を申上げていいか分らないのです。その度に、ぼくは、そうだ元気で居なければならないと考えます。ぼくはどれも、ゆっくり噛んで、長いことかかって、たペることにしています。何故なら、すると、ぼくのお腹へ、それらのものが、とっくりとおさまるように感ずるからです。
この前の弁当は(晩の)殊においしく頂きました。それと共に、この頃、救援会からも差入があります。これは、又云うまでもなく別な、何んとも云えない、――たとえば、身体に粟立つような感じを与えます。
ぼくは、たしか、この前の便りで、「白痴」をよめることを喜んだことを書いたように思っていますが、それは不許可になってしまいました。ぼくの落タンを思っても見て下きい。「虐げられし人々」も今許可願を出していますが、危ぶんでいます。
ぼくは此頃あまり本をよむせいか、夜、とても沢山の夢を見ます。ぼくは本当に自分が寝っているのか、どうかさえ分らないほど、続け様に夢をみるので、どうかすると、ぼくの覚めている一日が二十四時間に延長してしまったのではないかとさえ思っています。夢を見ないなら、どんなによいかと思っています。
村山君は退屈していませんか。ぼくは此頃自分でも分る程顔が青く、手足が透きとおるように白くなり、運動に出ると、ぼくの目は太陽をまぶしがるようになるのを、感じ出してきました。
しかし、ぼくは毎朝冷水マサツをやり、室内体操をやっています。牛乳ものみ、卵さえ食っています。これで、どうにもならなかったら、時々、勝手にせ、とさえ思ったりする。これはしかし、あまり良いことのようではありません。それに、どうです。この筆は。筆が悪いと、ぼくはいらいらしてきて、折角沢山のことをあなたに書こうとしても、どうしても出来なくなります。
文壇には何か変ったことがありませんか。共同創作が流行ったとか云いますが、そんなものは、形ばかりのものなら、犬に喰われろです。何か素暗しい傑作でも出ないものかと思っています。全然新しい、今までに、知られていない人でないと、しかし、それは面白くありません。「不在地主」の公演はどうでしたか。人気があったが、よいものではなかったというのが本当なのでしょう。
どうせ、ぼくたちの手紙には何も書けないのですから、お暇な時に、「文壇お茶噺」でも書いてくださると、有難いのですが。とうとうぼくも十一月の最初の金曜日を此処で送るめぐり合わせになってしまいました。
そのことは、ふさわしいでしょう。この日、作家同盟から、「赤い」ごはんの弁当が差入になりました。ぼくたちは、すっかり喜ばせられ、元気づけられたわけです。此処は厚い煉瓦とコンクリートなので、風が吹きこむこともないので、今年の冬をキット居心地よく過ごせるのではないかと思っています。
あなたの処にメレジコフスキーの 「トルストイとドストイェフスキー」(東京堂) か、広瀬哲士の「新ふらんす文学(ナチュラリスムよりシュール・レアリスム)」(東京堂)がありませんか。トルストイの「芸術は何んぞや」もよんでみたいものの一つです。しかし、今のところ、ぼくはよみ切れない程の本をもっているのです。
最近チェホフの手紙をよんで、非常に喜ばされました。好ましい本の一つですね。それを見ると、チェホフは、よく手紙の最後に、こんな笑談を書いています。
「終りに、あなたの小ッちゃいお手てをにぎります。」と。
ぼくは毎日吉田松陰のように坐りこんでいます。又かきます。
『レーニンのゴオリキーへの手紙』(中野重治訳/岩波文庫/1935年発行)には、34通の手紙が収録されています。
その中に、「あなたの手を強く握ります」「あなたの手を握ります」「みんなに強い握手を送ります」「強い握手で」など、15通に「手を握る」と書かれています。なかには「あなたが間違っている」と哲学の問題で何度もゴーリキーを諭しながら「あなたの手を強く握ります」と、親愛するがゆえの批判をしながら、「手を握る」ことを忘れていません。
みんなが同じ思いで、常に手を握りあったら、きっと大きなことができるでしょうねぇ。
ぜひみなさんにも読み次第、
多喜二の手紙のなかでよかったもの、心が動いた書簡について、ノーマ先生、荻野先生の解説ついてのの感想をお願いしたいですね。
多喜二研究家には知られてきましたが、志賀直哉への手紙と、志賀からの多喜二への手紙(有名な”主人持ちの文学”について言及されている)が収められていて、個人的に大変うれしいです。
明日は静岡へ行き一泊、明後日は東京に行きます。行き帰りの新幹線でゆっくり読むことにします。
今回は過密スケジュールでゆっくりする時間がありません。帰りの新幹線も寝てしまうかもしれませんが・・・。
荻野富士夫氏は解説にて、獄中書簡は多くの人の手紙が出版されているが、多喜二の場合は、家族以外の友人知人に宛てられたものが主であるため、思いやり・親しみ・真摯さなどのほかにも、家族には見せないフランクさやユーモア・茶目っ気、弱音の吐露ももうかがえる。
そうした人間くささは、他の「獄中書簡」にはない多喜二の手紙の魅力だろう」と、語っています。
”人間くささ”は、自分を客観的に眺め、心の動きを分析する”作家魂”のたまものなのかと、私は想像します。
このほうが自然のような気はしますが、いくつか疑問が残ります。
「君のお母さん」という表現から、このような選択をしたことに頷ける面もあるのですが、最初の「お母さん」の前には「君の」はありません。それはどう考えるのでしょうか?
「往復だけで1円」は、検討のうえなのでしょうか?
最初の書簡発表は、三吾さん生存中にですが、三吾さんは発売された「書簡」を見なかったのでしょうか?最初の書簡集の事実上の編集は貴司山治ですが、三吾さんが編者になっていたようです。なのに何も言わなかったのでしょうか?
手紙156を見ると8月21日付けで「中央公論に送っておいた」と過去形になっています。
8月21日に終わっていなかったから、投函できずに遅れたという解釈も可能ですが、でも遅れすぎですよねぇ。