没後80年小林多喜二と現代/4/荻野富士夫/「一九二八年三月十五日」/なぜ虐殺されたのか
人道主義的な観点から社会主義に接近した多喜二が、長い躊躇逡巡の時期を経て、「新らしい年が来た。俺達の時代が来た」(「日記」)とまで飛躍する踏み台となったのは、小樽社会科学研究会での研さんと、「驚異」と呼ぶ労働運動の実践家との合流であった。
特高警察の本質突く
その直後、1928年の「三・一五事件」でそれらの友人が「つぎつぎと引ッこ抜かれて行」き、警察署内で「半植民地的な拷問」がなされていくことに、多喜二は「煮えくりかえる憎意」を燃やし、凄惨な拷問の実態をなまなましく暴露した。小説「一九二八年三月十五日」以外にもこの弾圧を題材にした作品はあるが、特高警察の本質を突く多喜二の衝撃力は傑出している。
そのため、見当違いにも特高警察は拷問という違法性を赤裸々に暴露した多喜二に報復の刃を向けた。1930年5月の大阪島之内警察署での検挙では「ようもあんなに警察を侮辱しやがったな」と脅され、「出所後顔面筋肉の一部が硬直」するほどの拷問を加えられた。この延長線上に、33年2月20日の東京築地警察署における拷問の末の虐殺があるといってよい。
多喜二は32年4月に地下に潜行して以降、早晩の検挙と拷問での死をも覚悟していた節がある。9月に最後に母セキらと会った際、「今警察に捕えられたらどんな目に会うか判らないが、こうした時世に生れ合わせたのが自分の不運」としつつ、「屹度いつかの時代には自分達の考え方が世間の人にも納得出来ることになろう」と語っていたのである(『母の語る小林多喜二』)。「何代がかりの運動」(「東倶知安行」)からいえば、まだ発端に近いところの犠牲の一つであり、「火を継ぐもの」がつづくことを確信していた。
日本帝国主義の脅威
あらためて、なぜ多喜二が33年2月に殺されるのか、と問えば、多喜二自身がつづく「蟹工船」以降も新たな創作課題を設定・実践し、プロレタリア文学の幅と奥行きを広げ、「典型的な、理想的な、左翼の闘士」(多喜二没後の大宅壮一の皮肉抜きの発言)に成長していったことに、特高警察を先兵とする支配者層の脅威が集中したからといえる。
そして、その脅威を現実的なものとしたのは、32年以降の、藤倉工業の毒ガスマスク製造工場労働者の反戦活動を描いた「党生活者」をはじめとする多喜二の小説・評論、そして日本プロレタリア作家同盟書記長として、日本反帝同盟執行委員としての実践活動が、すべて「満州事変」後の反戦・反軍運動に収斂していったことである。
多喜二虐殺の報に、フランス共産党の機関紙「ユマニテ」は「過去数ヶ月間に彼は決然として、極東における帝国主義的略奪戦争および反革命戦争に抗する運動の先頭に立ち続けていたのだった」と的確に記し、「彼の不屈の革命的活動は日本帝国主義の脅威となっていた」と評価した。この再確認こそが、多喜二虐殺80周年の大きな意義であろう。
(おぎの・ふじお 小樽商科大学教授)
( 2013年02月19日,「赤旗」)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます