2017年2月5日(日)
伊藤雅文著『邪馬台国は熊本にあった!-「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国-』(扶桑社新書、2016年)
『邪馬台国』は、西暦280年代に書かれた中国の歴史書『三国志』の中の一部に登場する。『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称が『魏志倭人伝』と呼ばれている。
『魏志倭人伝』に「卑弥呼という女王が都とする邪馬台国があった」ことが記され、当時、朝鮮半島にあった中国の都のひとつ『帯方郡』から、邪馬台国への行程が400字弱の文字で記述されている。
その行程は、現在の金海市・釜山市あたりと比定(=比較して推定する)されている『狗邪韓国』から『対馬国』、『一大国』、『末盧国』、『伊都国』、『奴国』、『不彌国』、『投馬国』を経由して『邪馬台国』に至る。
国から国への移動は、「対馬国から南へ、瀚海という海を千余里渡ると一大国に至る。」、「東に百里行くと不彌国に至る。」などと、「〇〇里行くと(渡ると)どこどこへ至る」と書かれていて、さまざまな検討がなされ現在地が比定されていく。
しかし、『不彌国』からは「南へ水行二十日で、投馬国に至る」、そして『投馬国』から「南に水行十日と陸行一月で女王の都のある邪馬台国に至る」と書かれているところから大混乱を起こす。
『不彌国』は現在の北部九州にあると比定するのは、大方の一致するところであるが、そこから南へ水の上を20日間航海し、さらに10日間の航海と陸地を1ヶ月も歩いたら九州よりも南、沖縄よりも南へ行ってしまう。
そこで、仮説や推測や推理などなどが駆使されいろんな説が飛び交う。大きくは九州説と近畿説がある。九州でも『邪馬台国』はここですよ、名乗るところは各地にある。JR九州ウォーキングでも甘木駅コースでは『女王卑弥呼』が受付の出迎えと、ゴールでお迎えをしてくれる。参加した時はお願いして『女王卑弥呼』とのツーショットの記念写真を撮ってもらう。
さて、本書の著者は、研究をもとに『帯方郡』から『邪馬台国』への行程を追っていくのだが、それは著者独自の「『魏志倭人伝』後世改ざん説」に基づき進んで行く。
後世改ざん説は、本書の第一章に詳しく述べられている。
読み進むうちに、著者の研究姿勢に感心していく。「成程」、「成程」、と国から国へ移動して行く。
『奴国』から『不彌国』へ。『不彌国』から『投馬国』へと読み進む。紆余曲折があったが、いよいよ『投馬国』から『邪馬台国』へ。
着いたところは・・・。「おぉ!」と心の中で叫んだ。
2014年10月25日、JR九州ウォーキング玉名駅コースは玉名駅からバスで山鹿市菊鹿町にある7世紀の山城『鞠智城跡』へ行き、そこからスタートした。高台にあるので下って、ゴールの八千代座まで歩いた。距離も長かったし暑かった記憶がある。
途中、菊池川沿いにある『方保田東原遺跡』に寄った。全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器などの青銅製品や鉄製品が数多く出土していて、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土している。
また、合計500点以上の鉄が見つかっており、その多さは際立っている。鉄器づくりも行われていたと思われている。
山鹿市出土管理文化財センターの2階から、係りの方にその遺跡の範囲を教えて貰った。その広大さにびっくりした。吉野ヶ里に匹敵する広さだ。その範囲には多くの民家が建っているので、吉野ヶ里みたいに発掘し建物を再現することは難しそうだ。
凄いなぁ。惜しいなあ。あっちよりこっちの方にもっと力を入れて貰いたいなぁ。離れるのが惜しく、周囲をいつまでもうろうろしていた。
まだ発掘されていない吉野ヶ里のような集落は各地にあったはずだよ、と強く思った。
『邪馬台国』近畿説をとると、『投馬国』から南ではなく東へ進まなくてはならない。南と東の誤記はあるかもしれないが、北部九州から近畿までの行程にもいくつもの国があったろうと思われるが、それが記されていないのはあまりにも不自然だと思う。『対馬国』から『投馬国』までは隣接する国が記されているのに。
著者は熊本とは縁もゆかりもないらしい。本書によると、熊本を訪れたのは高校の修学旅行の一度だけのようだ。勿論、執筆当時までのことしか書いてない。
後世改ざん説は『邪馬台国』を熊本へ誘導するために考えられた説ではないようだ。そこに親しみを感じる。
読み終わって、2年以上も前にウォーキングで訪れた地での想いが、新たな九州説と繋がって蘇ってきた。

(方保田東原遺跡)

(山鹿市出土管理文化財センター)

(センター内展示)

(センター内展示)

(センター内展示)

(センター内展示)

(センターから。右奥の小さく写っている家よりも先まで範囲だったと思う。)

(方保田東原遺跡)
伊藤雅文著『邪馬台国は熊本にあった!-「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国-』(扶桑社新書、2016年)
『邪馬台国』は、西暦280年代に書かれた中国の歴史書『三国志』の中の一部に登場する。『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称が『魏志倭人伝』と呼ばれている。
『魏志倭人伝』に「卑弥呼という女王が都とする邪馬台国があった」ことが記され、当時、朝鮮半島にあった中国の都のひとつ『帯方郡』から、邪馬台国への行程が400字弱の文字で記述されている。
その行程は、現在の金海市・釜山市あたりと比定(=比較して推定する)されている『狗邪韓国』から『対馬国』、『一大国』、『末盧国』、『伊都国』、『奴国』、『不彌国』、『投馬国』を経由して『邪馬台国』に至る。
国から国への移動は、「対馬国から南へ、瀚海という海を千余里渡ると一大国に至る。」、「東に百里行くと不彌国に至る。」などと、「〇〇里行くと(渡ると)どこどこへ至る」と書かれていて、さまざまな検討がなされ現在地が比定されていく。
しかし、『不彌国』からは「南へ水行二十日で、投馬国に至る」、そして『投馬国』から「南に水行十日と陸行一月で女王の都のある邪馬台国に至る」と書かれているところから大混乱を起こす。
『不彌国』は現在の北部九州にあると比定するのは、大方の一致するところであるが、そこから南へ水の上を20日間航海し、さらに10日間の航海と陸地を1ヶ月も歩いたら九州よりも南、沖縄よりも南へ行ってしまう。
そこで、仮説や推測や推理などなどが駆使されいろんな説が飛び交う。大きくは九州説と近畿説がある。九州でも『邪馬台国』はここですよ、名乗るところは各地にある。JR九州ウォーキングでも甘木駅コースでは『女王卑弥呼』が受付の出迎えと、ゴールでお迎えをしてくれる。参加した時はお願いして『女王卑弥呼』とのツーショットの記念写真を撮ってもらう。
さて、本書の著者は、研究をもとに『帯方郡』から『邪馬台国』への行程を追っていくのだが、それは著者独自の「『魏志倭人伝』後世改ざん説」に基づき進んで行く。
後世改ざん説は、本書の第一章に詳しく述べられている。
読み進むうちに、著者の研究姿勢に感心していく。「成程」、「成程」、と国から国へ移動して行く。
『奴国』から『不彌国』へ。『不彌国』から『投馬国』へと読み進む。紆余曲折があったが、いよいよ『投馬国』から『邪馬台国』へ。
着いたところは・・・。「おぉ!」と心の中で叫んだ。
2014年10月25日、JR九州ウォーキング玉名駅コースは玉名駅からバスで山鹿市菊鹿町にある7世紀の山城『鞠智城跡』へ行き、そこからスタートした。高台にあるので下って、ゴールの八千代座まで歩いた。距離も長かったし暑かった記憶がある。
途中、菊池川沿いにある『方保田東原遺跡』に寄った。全国で唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器などの青銅製品や鉄製品が数多く出土していて、山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土している。
また、合計500点以上の鉄が見つかっており、その多さは際立っている。鉄器づくりも行われていたと思われている。
山鹿市出土管理文化財センターの2階から、係りの方にその遺跡の範囲を教えて貰った。その広大さにびっくりした。吉野ヶ里に匹敵する広さだ。その範囲には多くの民家が建っているので、吉野ヶ里みたいに発掘し建物を再現することは難しそうだ。
凄いなぁ。惜しいなあ。あっちよりこっちの方にもっと力を入れて貰いたいなぁ。離れるのが惜しく、周囲をいつまでもうろうろしていた。
まだ発掘されていない吉野ヶ里のような集落は各地にあったはずだよ、と強く思った。
『邪馬台国』近畿説をとると、『投馬国』から南ではなく東へ進まなくてはならない。南と東の誤記はあるかもしれないが、北部九州から近畿までの行程にもいくつもの国があったろうと思われるが、それが記されていないのはあまりにも不自然だと思う。『対馬国』から『投馬国』までは隣接する国が記されているのに。
著者は熊本とは縁もゆかりもないらしい。本書によると、熊本を訪れたのは高校の修学旅行の一度だけのようだ。勿論、執筆当時までのことしか書いてない。
後世改ざん説は『邪馬台国』を熊本へ誘導するために考えられた説ではないようだ。そこに親しみを感じる。
読み終わって、2年以上も前にウォーキングで訪れた地での想いが、新たな九州説と繋がって蘇ってきた。

(方保田東原遺跡)

(山鹿市出土管理文化財センター)

(センター内展示)

(センター内展示)

(センター内展示)

(センター内展示)

(センターから。右奥の小さく写っている家よりも先まで範囲だったと思う。)

(方保田東原遺跡)