2018年9月13日(木)
朝、八戸駅の青い森鉄道のホームへ行くと、IRG岩手銀河鉄道の車両が待っている。今日は青い森鉄道の「八戸駅(青森県)」からIRG岩手銀河鉄道の「一戸駅(岩手県)」へと向かう。今は別々な県になっているが、「八戸」、「一戸」という地名からすると同じ地域であった時代があるのではなかろうか。

(青い森鉄道「八戸駅」でIRGいわて銀河鉄道の車両)
列車は間もなく出発。ゆっくり座れた。旅人にとってはゆっくり座れるのはありがたいが、鉄道会社にとってはありがたいことではない。
青森県の目時(めとき)駅(青森県三戸郡三戸町)が青い森鉄道とIRG岩手銀河鉄道の境になっている。目時駅からIRG岩手銀河鉄道の路線を走る。一戸駅は直ぐに着いた。

(IRGいわて銀河鉄道の路線図)

(IRGいわて銀河鉄道「一戸駅」)

(一戸駅ホームから階段を下りると「御所野縄文公園」)
一戸駅から「御所野縄文公園」(岩手県二戸郡一戸町)へタクシーで向かう。タクシーを降りる時、運転手さんが領収書を渡しながら「これを見せれば助成金が出ます。帰りも出ます。」と教えてくれた。

(一戸駅タクシー乗り場案内)
「きききのつりはし」を渡って、「御所野縄文博物館」へ入り、受付へ。入館料は300円。それよりもタクシー助成金の方が多かった。

(御所野縄文公園案内板)

(御所野縄文公園入口)

(「きききのつりはし」を渡る)

(御所野縄文博物館入口)
御所野遺跡は[草創期][早期][前期]【中期】[後期][晩期]と区分される縄文時代の中期後半の大規模なムラの跡で、76,000㎡のほぼ全面に800棟以上の竪穴建物跡が見つかっている。
1996年、西側の調査区で焼けた竪穴建物の調査が行われた。大型竪穴建物跡には、壁に沿って立ち並んだ割板、多量の炭化材や焼土、あるいは土が残っており、その埋まり方から土屋根であったことが明らかになっている。
博物館の展示室に入ると、すぐに「焼けた住居の発見」コーナーになっていて、発掘された床面が足元のガラス面の下に復原されている。足を踏み入れていいかどうか迷ったが、ガラスの上に載っても大丈夫、安心して見れる。
土屋根の竪穴建物を復元し、消失実験も行われている。実験の結果、土屋根は密閉性が高く、内部が酸欠状態となり、燃えにくいことから、意図的に火をつけて燃やした可能性があると考えられている。

(焼失竪穴建物発見のコーナー)

(焼失竪穴建物発見の説明パネル)

(ガラスの下に焼失竪穴建物発見の復原されている)
縄文時代に使われていた道具を復原して竪穴建物の復原作業も行われている。その復原の手順、使われた道具などが展示してある。このような展示は初めて見るような気がする。
復原に要した木は、14.44㎡(約9畳)の住居で40本近くが必要であった。組み立てて行くのに縄は1,400mの縄が使用された。材木としてはクリの木が中心であるが、縄として使えそうな木はシナの木が考えられている。それらの木が大量に必要である。1棟の竪穴建物を建てると周囲の風景も変わっていたかもしれない。木を伐り出した後には、植林も行われたであろう。

(堅穴住居の作り方の説明パネル)

(堅穴住居の作る材料の説明パネル)

(「くわ」や「すき」などの道具)

(樹皮をはぐ道具など)

(復原された道具や縄)
「焼けた住居の発見」コーナーの次はプロジェクションマッピングで御所野むらの四季をスクリーンで上映し、縄文人の生活を紹介したり、出土した土器や石器が展示されている「御所野縄文ワールド」へ。

(御所野むらの四季の上映)
縄文時代中期の東北北部から北海道南部にかけては「円筒式土器」が作られていたのは、2日前の行った「三内丸山遺跡」で学んだ。その頃、東北の南部では大木(だいぎ)式土器が作られている。御所野遺跡は東北地方の北と南の土器文化の接点にあたる。

(北の「円筒土器」(左側)、南の大木式土器(南側))

(大木式土器)

(円筒土器)
順番通りには回らなかったようで、写真の整理が上手くいってなくてすみません。

(石斧の復原)

(配石遺構で発券された石)

(穴にひもを通して壊れた土器の修復をしたと考えられている。)

(何なんだろう?)

(いろいろな土製品)

(トックリ型土器)

(石棒)
スロープを上って2階への途中に展望所がある。

(博物館内展望所から公園)
2階の展示室には、同じ一戸町の縄文時代晩期の蒔前(まくまえ)遺跡、山井遺跡などの出土品が展示してある。
蒔前遺跡の鼻曲り土面(重要文化財)はパリへ出張中でレプリカが展示されていた。このような土面は縄文時代後期後半から晩期前半にかけて東北北部の太平洋側に分布している。

(鼻曲り土面-蒔前遺跡)

(鉢型土器-蒔前遺跡)

(皿型土器-蒔前遺跡)

(土偶-山井遺跡)

(浅鉢-山井遺跡)

(土偶「縄文ぼいん」-椛の木遺跡)
階段を下りて、御所野遺跡公園内を散策に博物館から外へ。公園内は無料で誰でも散策できる。丁度、栗の季節で、熱心に栗拾いしている人たちもいる。

(御所野遺跡公園で実ったクリ)

(クリと掘立柱建物)
石を一定の形で並べた配石遺構がむらの中央にある。配石遺構の周辺では人を葬った墓穴が見つかっており、むら全体の墓地と考えられている。掘立柱建物は配石遺構に対応するように建てられていることから墓に関連する施設と考えられている。

(配石遺構と掘立柱建物)

(掘立柱建物)

(配石遺構、盛り土遺構、掘立柱建物)

(配石遺構、盛り土遺構、掘立柱建物)

(掘立柱建物)
竪穴建物は東むら、中央むら、西むらが復元されている。西むらで発見された焼失した竪穴建物は、調査で土屋根であったことが判明しているが、復原された竪穴建物を眺めていると土屋根が周囲の景観とはもっとも合っているように見える。

(竪穴建物-東むら)

(竪穴建物-中央むら)

(竪穴建物-中央むら)

(竪穴建物-西むら)
竪穴建物のなかでは炭火が焚かれていたが、蒸し暑い。

(竪穴建物内)

(竪穴建物内)

(公園で)

(公園で)

(公園で)

(公園で)
公園内には、案内板とかがほとんど無かった。写真と説明があっているか自信は無い。博物館に戻ってトイレに入ったら。張り紙が・・・。御所野遺跡を訪れる際は活用されることをお勧めする。

(平日は予約をしましょう)
公園内を見学していたら、障害者就労継続支援B型事業所で働く皆さんが、竪穴建物などの清掃をされていた。縄文時代は、人びとが協力し合って働き始めた時代だと思う。竪穴建物に住み定住生活をするにも、人びとの協力で竪穴建物を建てることから始まる。人それぞれの力にあった「仕事の分かち合い」で建っていただろう。
中央省庁の障害者雇用で雇用数の水増しがあった問題の調査結果の発表があったのは、この旅行の少し前で、呆れてしまった。1万数千年の間に、いつの間にか「障害者」という言葉を作りだし、雇用の差別化が進んできた。雇用率はその差別を無くして行くスタートでしかない。入口でつまずいているとは。
御所野遺跡公園の取組みが、全国の縄文施設に拡がればと思う。それから一歩進んで、障害者と障害者とされていない人びとが共に働く場へと進んで行ってもらいたい。
博物館でタクシーを呼んでもらい、タクシー代の補助券をいただいた。一戸駅でタクシーを降りる時に補助券の金額を差し引いて料金を払う。嬉しいシステムだ。
IRG岩手銀河鉄道で一戸駅から二戸駅へ戻る。青い森鉄道、IRG岩手銀河鉄道は「Suica」などの交通系電子マネーは使えない。

(青い森鉄道、IRG岩手銀河鉄道ともに「きっぷ」を買った)
JR二戸駅からJR東北新幹線で25分、盛岡駅へ。盛岡城址は駅から近かったけどタクシーに乗った。運転手さんは桜が綺麗だと熱心に自慢話をされた。熊本城の桜も綺麗ですよ、とは言いずらかった。桜山神社で烏帽子岩(兜岩)を見物。もりおか歴史文化館の歴史展示室には黒田官兵衛の兜が展示してある。東北で官兵衛さんに会うとは。

(盛岡城址の石垣と桜の木)

(桜山神社の兜岩)

(もりおか歴史文化館で黒田官兵衛の兜に会う)
盛岡駅へ戻り、今度はJR東北本線で1時間25分程かけて平泉駅へ着いた。
今日の宿泊は平泉温泉。「福香ビール」と「純米酒関山」で夕食。私より年配と思われる方々も働いておられる。元気をもらえる。関山は口に含んだとたん「辛口!」とつぶやいてしまった。
3日間の東北縄文の旅を終わり、明日は平安から鎌倉にかけての平泉をまわる。温泉で温まりルートを頭に描きながら就寝。
[参考本]
高田和徳著『縄文のイエとムラの風景・御所野遺跡(シリーズ「縄文を学ぶ」)』新泉社、2005年
『御所野縄文博物館 常設展示図録』一戸町教育委員会/御所野縄文博物館発行 2015年
朝、八戸駅の青い森鉄道のホームへ行くと、IRG岩手銀河鉄道の車両が待っている。今日は青い森鉄道の「八戸駅(青森県)」からIRG岩手銀河鉄道の「一戸駅(岩手県)」へと向かう。今は別々な県になっているが、「八戸」、「一戸」という地名からすると同じ地域であった時代があるのではなかろうか。

(青い森鉄道「八戸駅」でIRGいわて銀河鉄道の車両)
列車は間もなく出発。ゆっくり座れた。旅人にとってはゆっくり座れるのはありがたいが、鉄道会社にとってはありがたいことではない。
青森県の目時(めとき)駅(青森県三戸郡三戸町)が青い森鉄道とIRG岩手銀河鉄道の境になっている。目時駅からIRG岩手銀河鉄道の路線を走る。一戸駅は直ぐに着いた。

(IRGいわて銀河鉄道の路線図)

(IRGいわて銀河鉄道「一戸駅」)

(一戸駅ホームから階段を下りると「御所野縄文公園」)
一戸駅から「御所野縄文公園」(岩手県二戸郡一戸町)へタクシーで向かう。タクシーを降りる時、運転手さんが領収書を渡しながら「これを見せれば助成金が出ます。帰りも出ます。」と教えてくれた。

(一戸駅タクシー乗り場案内)
「きききのつりはし」を渡って、「御所野縄文博物館」へ入り、受付へ。入館料は300円。それよりもタクシー助成金の方が多かった。

(御所野縄文公園案内板)

(御所野縄文公園入口)

(「きききのつりはし」を渡る)

(御所野縄文博物館入口)
御所野遺跡は[草創期][早期][前期]【中期】[後期][晩期]と区分される縄文時代の中期後半の大規模なムラの跡で、76,000㎡のほぼ全面に800棟以上の竪穴建物跡が見つかっている。
1996年、西側の調査区で焼けた竪穴建物の調査が行われた。大型竪穴建物跡には、壁に沿って立ち並んだ割板、多量の炭化材や焼土、あるいは土が残っており、その埋まり方から土屋根であったことが明らかになっている。
博物館の展示室に入ると、すぐに「焼けた住居の発見」コーナーになっていて、発掘された床面が足元のガラス面の下に復原されている。足を踏み入れていいかどうか迷ったが、ガラスの上に載っても大丈夫、安心して見れる。
土屋根の竪穴建物を復元し、消失実験も行われている。実験の結果、土屋根は密閉性が高く、内部が酸欠状態となり、燃えにくいことから、意図的に火をつけて燃やした可能性があると考えられている。

(焼失竪穴建物発見のコーナー)

(焼失竪穴建物発見の説明パネル)

(ガラスの下に焼失竪穴建物発見の復原されている)
縄文時代に使われていた道具を復原して竪穴建物の復原作業も行われている。その復原の手順、使われた道具などが展示してある。このような展示は初めて見るような気がする。
復原に要した木は、14.44㎡(約9畳)の住居で40本近くが必要であった。組み立てて行くのに縄は1,400mの縄が使用された。材木としてはクリの木が中心であるが、縄として使えそうな木はシナの木が考えられている。それらの木が大量に必要である。1棟の竪穴建物を建てると周囲の風景も変わっていたかもしれない。木を伐り出した後には、植林も行われたであろう。

(堅穴住居の作り方の説明パネル)

(堅穴住居の作る材料の説明パネル)

(「くわ」や「すき」などの道具)

(樹皮をはぐ道具など)

(復原された道具や縄)
「焼けた住居の発見」コーナーの次はプロジェクションマッピングで御所野むらの四季をスクリーンで上映し、縄文人の生活を紹介したり、出土した土器や石器が展示されている「御所野縄文ワールド」へ。

(御所野むらの四季の上映)
縄文時代中期の東北北部から北海道南部にかけては「円筒式土器」が作られていたのは、2日前の行った「三内丸山遺跡」で学んだ。その頃、東北の南部では大木(だいぎ)式土器が作られている。御所野遺跡は東北地方の北と南の土器文化の接点にあたる。

(北の「円筒土器」(左側)、南の大木式土器(南側))

(大木式土器)

(円筒土器)
順番通りには回らなかったようで、写真の整理が上手くいってなくてすみません。

(石斧の復原)

(配石遺構で発券された石)

(穴にひもを通して壊れた土器の修復をしたと考えられている。)

(何なんだろう?)

(いろいろな土製品)

(トックリ型土器)

(石棒)
スロープを上って2階への途中に展望所がある。

(博物館内展望所から公園)
2階の展示室には、同じ一戸町の縄文時代晩期の蒔前(まくまえ)遺跡、山井遺跡などの出土品が展示してある。
蒔前遺跡の鼻曲り土面(重要文化財)はパリへ出張中でレプリカが展示されていた。このような土面は縄文時代後期後半から晩期前半にかけて東北北部の太平洋側に分布している。

(鼻曲り土面-蒔前遺跡)

(鉢型土器-蒔前遺跡)

(皿型土器-蒔前遺跡)

(土偶-山井遺跡)

(浅鉢-山井遺跡)

(土偶「縄文ぼいん」-椛の木遺跡)
階段を下りて、御所野遺跡公園内を散策に博物館から外へ。公園内は無料で誰でも散策できる。丁度、栗の季節で、熱心に栗拾いしている人たちもいる。

(御所野遺跡公園で実ったクリ)

(クリと掘立柱建物)
石を一定の形で並べた配石遺構がむらの中央にある。配石遺構の周辺では人を葬った墓穴が見つかっており、むら全体の墓地と考えられている。掘立柱建物は配石遺構に対応するように建てられていることから墓に関連する施設と考えられている。

(配石遺構と掘立柱建物)

(掘立柱建物)

(配石遺構、盛り土遺構、掘立柱建物)

(配石遺構、盛り土遺構、掘立柱建物)

(掘立柱建物)
竪穴建物は東むら、中央むら、西むらが復元されている。西むらで発見された焼失した竪穴建物は、調査で土屋根であったことが判明しているが、復原された竪穴建物を眺めていると土屋根が周囲の景観とはもっとも合っているように見える。

(竪穴建物-東むら)

(竪穴建物-中央むら)

(竪穴建物-中央むら)

(竪穴建物-西むら)
竪穴建物のなかでは炭火が焚かれていたが、蒸し暑い。

(竪穴建物内)

(竪穴建物内)

(公園で)

(公園で)

(公園で)

(公園で)
公園内には、案内板とかがほとんど無かった。写真と説明があっているか自信は無い。博物館に戻ってトイレに入ったら。張り紙が・・・。御所野遺跡を訪れる際は活用されることをお勧めする。

(平日は予約をしましょう)
公園内を見学していたら、障害者就労継続支援B型事業所で働く皆さんが、竪穴建物などの清掃をされていた。縄文時代は、人びとが協力し合って働き始めた時代だと思う。竪穴建物に住み定住生活をするにも、人びとの協力で竪穴建物を建てることから始まる。人それぞれの力にあった「仕事の分かち合い」で建っていただろう。
中央省庁の障害者雇用で雇用数の水増しがあった問題の調査結果の発表があったのは、この旅行の少し前で、呆れてしまった。1万数千年の間に、いつの間にか「障害者」という言葉を作りだし、雇用の差別化が進んできた。雇用率はその差別を無くして行くスタートでしかない。入口でつまずいているとは。
御所野遺跡公園の取組みが、全国の縄文施設に拡がればと思う。それから一歩進んで、障害者と障害者とされていない人びとが共に働く場へと進んで行ってもらいたい。
博物館でタクシーを呼んでもらい、タクシー代の補助券をいただいた。一戸駅でタクシーを降りる時に補助券の金額を差し引いて料金を払う。嬉しいシステムだ。
IRG岩手銀河鉄道で一戸駅から二戸駅へ戻る。青い森鉄道、IRG岩手銀河鉄道は「Suica」などの交通系電子マネーは使えない。

(青い森鉄道、IRG岩手銀河鉄道ともに「きっぷ」を買った)
JR二戸駅からJR東北新幹線で25分、盛岡駅へ。盛岡城址は駅から近かったけどタクシーに乗った。運転手さんは桜が綺麗だと熱心に自慢話をされた。熊本城の桜も綺麗ですよ、とは言いずらかった。桜山神社で烏帽子岩(兜岩)を見物。もりおか歴史文化館の歴史展示室には黒田官兵衛の兜が展示してある。東北で官兵衛さんに会うとは。

(盛岡城址の石垣と桜の木)

(桜山神社の兜岩)

(もりおか歴史文化館で黒田官兵衛の兜に会う)
盛岡駅へ戻り、今度はJR東北本線で1時間25分程かけて平泉駅へ着いた。
今日の宿泊は平泉温泉。「福香ビール」と「純米酒関山」で夕食。私より年配と思われる方々も働いておられる。元気をもらえる。関山は口に含んだとたん「辛口!」とつぶやいてしまった。
3日間の東北縄文の旅を終わり、明日は平安から鎌倉にかけての平泉をまわる。温泉で温まりルートを頭に描きながら就寝。
[参考本]
高田和徳著『縄文のイエとムラの風景・御所野遺跡(シリーズ「縄文を学ぶ」)』新泉社、2005年
『御所野縄文博物館 常設展示図録』一戸町教育委員会/御所野縄文博物館発行 2015年
最近、大分県豊後高田市水崎の「天翔の里」㈱佛信堂が、とてつもなく汚い犯罪者集団をつくりあげてしまった。その名も「自然の力」と言います。信者を殴ったり半殺しにしたりしてお金を巻き上げています。そしてたくさんの人が亡くなっています。創始者は、南照二と小川裕世との事。聖者を名乗って近づいて来ます。気をつけて下さい。
神倉神社 神田佳代子