多摩爺の「時のつれづれ(睦月の32)」
山陰本線のカンカン部隊(故郷の昭和遺産)
先週末の、お昼ちょっと前だった。
ブログを更新しようかなと思って、編集画面にログインしたら、
トップページの一番下にあるニューストピックスに、ちょっと気になる記事があり、
後で読もうと思って・・・ アクセスして、URLをコピペしておいた。
「行商列車に揺られて70年」との表題で記されたページには、
成田線、常磐線を乗り継いで、上野や銀座の料亭や、企業の社員寮などに野菜を売りに歩く、
最後の「カラス部隊」と呼ばれた、93歳のお婆ちゃんのことが綴られていた。
詳細は割愛するが・・・ 4時半に起きて、自分の体よりも重たい籠を背負い、
6時ちょっと前の列車に乗って、都内への行商を続けて70年、
毎朝繰り返してきたが、新型コロナウイルスの感染拡大で、やむなく休止して3年が経つと、
足腰が弱ってしまい・・・ ついに籠を下ろすことになったという記事だった。
そうそう、行商つながりになるが・・・ 私の故郷(山口県下関市)にも、
早朝の漁港で仕入れた魚を、大きなにカンカン(魚を入れたアルミの箱)に詰め込み、
電車の中で、魚の仕分けをしながら数量を調整して、
ご贔屓にしてもらってる町場の繁華街や、団地などに魚を行商して歩く、
通称「カンカン部隊」と呼ばれた・・・ とっても元気なオバチャンたちがいた。
その仕事は、いまもあるのか分らないが、山口県下関市の北浦地区(旧・豊浦郡豊北町)には、
響灘(日本海)沿いに走る山陰本線に、小さな漁港が幾つも点在していて、
漁師の妻や母たちを中心に、水揚げされた魚を仲買を経ずに、
通学する高校生たちと同じ電車に乗って、約1時間かけて町まで行商に出かける、
オバチャンたちだけの・・・ 生業(なりわい)があった。
本州の西端・下関と九州を結ぶ鉄道は、下関駅から東に向けて進むと、
次の幡生(はたぶ)駅で、周防灘(瀬戸内海)沿いを走る・・・ 山陽本線と、
響灘(日本海)沿いを走る・・・ 山陰本線の二つに分かれていて、
山陰本線の漁港がある駅から、高校生たちに気を遣いながら、
1人、また1人と、オバチャンたちが乗ってくると、あっという間に席が埋まりお喋りが始まる。
因みに、現在山陽新幹線の駅になっている・・・ 新下関駅は、
山陽本線で幡生駅から一つ東にあり、私が子どもころは長門一宮駅と呼んでいた。
オバチャンたちは、幡生駅から一つ先の下関駅に向かうので、
高校生と一緒にいる時間は・・・ 幡生駅までになるが、
当時の幡生駅は、改札の横に売店が1つあるだけの小さな駅だったものの、
この駅を利用して通学する高校生のお喋りが・・・ 毎日聞こえる賑やかな駅だった。
ちょっと横道に逸れてしまうが、当時の市内の高校は、
幡生駅で降りて約20分、小高い丘(戦場ヶ原公園)を上った周辺に4校が集中していて、
山陰本線から山陽本線に乗り換えて、一つ先の長門一宮駅近くに1校、二つ先の長府駅近くに2校、
山陽本線から山陰本線に乗り換えて、二つ先の安岡駅近くに1校あった。
大きな企業や、工場などがあるわけでもない・・・ 小さな幡生駅だったが、
大げさに例えるとすれば、周辺地域から電車に乗って通う高校生たちで賑わってた駅であり、
東京なら、新宿や、池袋、渋谷、品川、上野のような駅だと言ったら、
ちょっと盛り過ぎだが・・・ イメージ的にはそんなものだった。
ターミナル駅というのは、いささかおこがましいが、幡生駅の周辺の4校とは、
林外務大臣や、直木賞作家の船戸与一さんの母校で、県下屈指の進学校、県立下関西高校
俳優の山下真司さんの母校で、甲子園で優勝の実績がある高校野球の名門、市立下関商業高校
芸人のロンドンブーツさんの母校、県立下関中央工業高校(いまは下関工業と統合)
芸能レポーターの菊田紋子さんの母校、女子校の県立下関南高校である。
また、戦場ヶ原公園辺りの地域は・・・ 文教地区であるとともに、
かつては、市内を縦横に走るチンチン電車の駅とバス停が、隣り合わせにあった交通の要衝で、
陸上競技場、体育館、野球場、テニスコートなどのスポーツ施設も集中していて、
私より上の世代は、いまの町名より、かつての駅名「東駅」の方が分かり易い地区でもあった。
話を戻そう。
当時の山陰本線は、早朝から「カンカン部隊が、今日も電車の中で、軍手をした手で魚を掴み、
ワイワイガヤガヤ言いながら、魚の仕分けしていた。」なんて姿が思い浮かぶ、
それはそれは楽しい・・・ 「カンカン部隊」の通勤電車でもあった。
電車の中で、お金のやり取りがあったかどうかまでは分らないが、
おそらく・・・ 大きなカンカンの中に詰めた、魚の種類に偏りがないように、
また、お得意さんからの注文に応えるために、魚を種類毎に数量調整をしていたのかもしれない。
そう捉えれば「カンカン部隊」のオバチャンたちは、小売りの行商だけじゃなく、
電車で移動する最中に、仲買の仕事までやっていたのだから、
なんともはや、強くて逞し過ぎる・・・ スーパーウーマンだった。
茨城で野菜の行商をされていた「カラス部隊」と呼ばれたオバチャンたちも凄いが、
私の故郷の「カンカン部隊」は、野菜よりも鮮度が気になる魚だから、なにをかいわんやだろう。
カンカンの中には、魚だけじゃなく、氷も入っていたと思われるし、
その氷が溶けるまでに、カンカンの中にある魚を売らなきゃならなかったんだから、
時間と勝負の肉体労働を・・・ 毎日、当たり前のようにこなしていたと思えば、
これはもう尊敬に値するぐらい、凄すぎる働き者だったといっても・・・ 過言ではないだろう。
そんなオバチャンたちも、時の移ろいとともに、引退されて久しいと思うが、
半世紀の時を経てなお、思いでの一コマに、強い光彩を放っている「カンカン部隊」を思い起こせば、
あなた方は、忘れ得ぬ昭和遺産であって、
茨城の「カラス部隊」のオバチャンたちとともに・・・ 敬意を表すべき方々なんだと思う。
オバチャンたちがご存命なら、おそらく卒寿を超えたあたりではなかろうか?
いつまでもお元気で、ご長寿でと・・・ 祈念したい。
「カンカン部隊」の賑やかな話し声で、朝から活気があった昭和の山陰本線、
本線とはいうものの単線で、複線の山陽本線と比べれば、利用している客は少ないが、
おそらく、いまも尚・・・ 高校生たちの通学の足になってるはずだ。
「カンカン部隊」のオバチャンたちが、仕事に向かうため乗っていた通勤電車、
そんな情景があった昭和を・・・ 私は忘れない。
(参考)
山陽本線は、兵庫県の「神戸駅」と福岡県の「門司駅」をつなぐ鉄道で、
山陰本線は、京都府の「京都駅」と山口県の「幡生駅」をつなぐ鉄道なので、
「幡生駅」で交わってから「下関駅」までの1区間は山陽本線になるが、
海底トンネルでつながる「下関駅」から先の「門司駅」までの区間は山陽本線でありながら、
JR西日本の管轄ではなく、JR九州の管轄だから・・・ これはちょっとネタになる。
江戸川で生まれ育った母から聞かされた話。野菜は都心に近付くほど高く売れる。家族全員で作った野菜をリアカーに積み込み売りに行くのは長男の仕事。
都心に向かうにはいくつもの橋を乗り越えなければならず橋の手前で野菜満載で重いリアカーを押す人夫を雇いながら銀座へ着く頃には野菜が飛ぶように売れて(江戸川の2倍の価格で売れるそう)持ち金全部銀座のキャバレーで使い果たす(笑)その男こそが江戸川を地盤とするスーパー「ヤマイチ」の創業者だそうです。
私の故郷は、東京ほどの大きな市場ではありませんが、それでも行商が商売になっていたんだと思います。
仰るとおり、電車を降りてからはリヤカーに乗せて引いていました。
きっと、駅近に置いていたか、借りていたのでしょう。
軽トラの普及で、あっという間に見なくなりましたが、昭和の懐かしい思いでです。
行商のおばちゃん。
私が社会人になった当時、千葉から都心に向かう早朝の東西線でも見掛けたことを思い出しました。
今はもう見ることはありません。
懐かしい光景を思い出させて頂きありがとうございます。
歴史の表舞台には出てきはしませんが、苦労しながら食を支え続けてきた、かけがえのない方々でした。
感謝しか有りませんね。
お野菜など路地物が近所の八百屋さんより良いモノだったり変わったモノだったり。
普通に「こんにちはー!」と家を訪ねて来られていましたね
今の東京ではそんなことはありえないし、道端で売っていたりすると
胡散臭い目で見られるだけになってしまいましたね
盗品か?とか、訳のわからないもの買ったり話しちゃいけないとか
もう性悪説でそういう教育をしてますからね
こんなことからも時代の変化を感じると寂しいものがあります
今ではスーパーの店員さんが品出しをしてレジ打ちをして買ってくるだけですもの
会話も人付き合いもなくて、都会の生活は暮らしやすいのは確かですが
孤独死しそうな未来が見えて怖いです
便利な生活にどっぷり浸かっていて、もうあの時代には戻れないと思いますが、
今になって思えば、昭和って人情がある社会だったと思います。
たぶん孫たちが私と同じ歳になったら、きっと同じことを言ってるのでしょうが、
いまから60~70年経ったら、なにがどうかわってしまうのか?
私にはそれを確認することはできませんが、見てみたいような気もしています。