多摩爺の「四季おりおり(その22)」
夏の雨 夕立
昨夜、18時をちょっと過ぎたころだった。
女房が風呂から上がるのを待って、晩メシを食い始めたそのとき、
「ドッカァァ・・・ン」という音ともに、リビングの窓越しに閃光が走ったと思ったら、
「バリバリバリ」と、けたたましい音を立てて・・・ 大粒の雨が降り出した。
「夕立だ。」という女房に・・・ 「そんな風流な状況じゃないから、ゲリラ豪雨でしょ。」という私
「それって、どう違うの?」と問う女房に・・・ 「良く分かんないけど。」と応えた私は、
「だって、最近ニュースのお天気コーナーじゃ、ゲリラ豪雨っていうけど、
夕立って言わないじゃん。」と付け加えた。
「ということは、もう夕立って言葉はなくなってしまったの。」と、今夜はやけに絡んでくる。
「良く分かんないけど、夕立は湿度が高くて蒸し暑い、
油照りの午後に、突然雲が湧いてきて大粒の雨を降らすけど、
今日は一日中曇りで、既に雲はあったし、風も適度に吹いてて、
家に居ても、そんなに汗かいてないので、夕立の定義とは、ちょっと違うような・・・ 」と、
夕立の定義なんて、知りもしないのに知ったかぶりで説明する。
「そうなんだ・・・ 。」ということで、続く追求はなんとか免れたが、
晩メシを食い終わったころになって再び、
「ところでさ、アブラゼミなら知ってるけど、油照りってなによ?」と、再び絡んできた。
「この季節特有の天候であり、体感であり、季語だよ。」と言うと、
「ふぅぅ・・・ん。」とあまり納得してないような返事のあと、
「でも、風があって涼しかったよね。」と言って席を立った。
「あっ、そうだ。」と言って、慌てた私を見ながら・・・ したり顔で笑った女房
どうやら、知ったかぶりを・・・ 試されたようだ。
夕立も油照りも、説明は間違ってないのに、いかにも状況がそうだったと錯覚してしまった。
風から攻めてくるとは、なかなか巧みだと思うが・・・ それにしても、アブラゼミはないだろ!
心の中には「このヤロー」という、情けない思いが膨らんできて
ちょっと、苛ついてしまった。
因みに油照りとは、風がなくて、汗ばむような蒸し暑い日和のことであり、夏の季語になっていて、
炎天下のカラッとした暑さとは、天候も体感も違っている。
よって、やっぱり夕立じゃなくて、ゲリラ豪雨なんだけど・・・ 試されたことが面白くないのだ。
夏至を過ぎたばかりだが、突然降り出した豪雨によって、
18時過ぎだというのに、北多摩の空は既に暮れかかっている。
年々気候が変化して、佳き時代の好き言葉が死語になりつつありますね。
「夕立」に「油照り」・・・・日本人の繊細な感性を映した言葉が、今まさに消えようとしているのでしょうか。
仰るとおり、この国に昔からあった風情のある言葉が、残念ながら最近すっかり死語になっています。
昭和は遠くなりにけりでしょうか?
なんとかして、後生に伝え残したいですね。