いつの時代も悩み、心配は同じ
長い歴史の中で、読み継がれ、語り継がれる言葉は静かな重みと深い味わい、そして、真の輝きがあります。
その代表的な言葉の一つに中国古典の四書五経があげられます。四書五経は一つの本ではなく儒学の学問を一まとめにした呼び方です。
一般的に四書は、・『大学』・『中庸』・『孟子』・『論語』、五経は、・『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』のことを指します。
四書五経のどの本を読んでみても、その鋭い視点と広い世界観にハッとさせられ厳粛な気持ちになります。
国、時代は違えど、人として生きるうえで大切にしたい心や考えが文章からとうとうと流れ静かに心に入ってくるように感じます。
今日は、四書五経の『中庸』の言葉について神道の視点から言葉を加えたいと思います。
一歩先に楽になりましょう
余談になりますが、『中庸』の言葉の意味について宇野精一氏はこのように述べています。
「中庸とは、一般的に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、最も適切妥当なことである。
だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われている。
けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、
中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸をえることができると言っている。」
並みの世界に生きる私たちにとって一縷(いちる)の望みを含む言葉に心強い後押しを受ける思いがします。
故きを温ねて新しきを知る
・至徳(しとく)でなければ至道(しどう)ならず。
意訳
天が授けた人の至誠の美徳を失うことなく、磨き続ける。そうでなければ、天の望む道を歩むことはできない。
人は誰しも神さまから授けて頂いた、御霊(みたま)を宿しています。
このことを神道では、人は神さまから分かれた存在の、分御霊(わけみたま)と呼んでいます。
赤子、幼子のような純粋な心、曇り、汚れのない心を人は本来もっています。
しかし、だんだんと欲によって、さまざまな環境によって、神性な存在たる人は徳を失い、道を失っていきやすものです。
世俗の中で生きることは大切な人生の修行だと思いますが、それに流され、染まる生き方は、神さまは望まれないでしょう。
生まれながらの本性を大切に、大事に保って努力していくことが、徳を磨き、高めることにつながると思っています。
投げ出さず、逃げ出さず、自分の良心に従い、世間と調和し、その時代の当たり前とうまく付き合っていく。
それが、中庸のココロをもって神さまと共に歩む、天の道に沿う生き方だと思います。
その生き方を天はご覧くださっているのでしょう。
お読みくださり有り難うございました。
長い歴史の中で、読み継がれ、語り継がれる言葉は静かな重みと深い味わい、そして、真の輝きがあります。
その代表的な言葉の一つに中国古典の四書五経があげられます。四書五経は一つの本ではなく儒学の学問を一まとめにした呼び方です。
一般的に四書は、・『大学』・『中庸』・『孟子』・『論語』、五経は、・『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』のことを指します。
四書五経のどの本を読んでみても、その鋭い視点と広い世界観にハッとさせられ厳粛な気持ちになります。
国、時代は違えど、人として生きるうえで大切にしたい心や考えが文章からとうとうと流れ静かに心に入ってくるように感じます。
今日は、四書五経の『中庸』の言葉について神道の視点から言葉を加えたいと思います。
一歩先に楽になりましょう
余談になりますが、『中庸』の言葉の意味について宇野精一氏はこのように述べています。
「中庸とは、一般的に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、最も適切妥当なことである。
だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われている。
けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、
中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸をえることができると言っている。」
並みの世界に生きる私たちにとって一縷(いちる)の望みを含む言葉に心強い後押しを受ける思いがします。
故きを温ねて新しきを知る
・至徳(しとく)でなければ至道(しどう)ならず。
意訳
天が授けた人の至誠の美徳を失うことなく、磨き続ける。そうでなければ、天の望む道を歩むことはできない。
人は誰しも神さまから授けて頂いた、御霊(みたま)を宿しています。
このことを神道では、人は神さまから分かれた存在の、分御霊(わけみたま)と呼んでいます。
赤子、幼子のような純粋な心、曇り、汚れのない心を人は本来もっています。
しかし、だんだんと欲によって、さまざまな環境によって、神性な存在たる人は徳を失い、道を失っていきやすものです。
世俗の中で生きることは大切な人生の修行だと思いますが、それに流され、染まる生き方は、神さまは望まれないでしょう。
生まれながらの本性を大切に、大事に保って努力していくことが、徳を磨き、高めることにつながると思っています。
投げ出さず、逃げ出さず、自分の良心に従い、世間と調和し、その時代の当たり前とうまく付き合っていく。
それが、中庸のココロをもって神さまと共に歩む、天の道に沿う生き方だと思います。
その生き方を天はご覧くださっているのでしょう。
お読みくださり有り難うございました。