伊勢の祈り

大いなる働きを信じて。共に幸せになりましょう。

自然のようにこだわらない心

2017年06月26日 08時42分55秒 | 日記
清らかな心は真の力となる


晴れ渡った青空、たちまち変わって雷が鳴り稲妻が走ることもあれば、

はげしい暴雨も、たちまちやんで、明日のかがやく晴れ空に変わることもある。

そのように、天地自然のはたらきには、なんのこだわりもない。

人の心も、かくありたいものである。(『菜根譚』)
こだわらない、大らかな心



世の中で苦しむ人、悩む人に共通するのは何かに執着する心のように感じます。



・あの人のこの言葉が気に食わない

・あの時このように言われた

・失ったものが惜しくてたまらない

・あの時、このようにしておけば良かった




気にする心、とらわれる心によって、その問題がピンで止められたようにグルグルと頭の中で巡ってしまいます。

面白くない心、悲しみ、怒り、憎しみはすべてこの執着心が引き起こします。



どんな喜怒哀楽も一時だけのもの。

ずっと続くことはありません。

あっさりと流す、からっとした気持ちで過ごし、自分の心が乱されないようにするのが大切と思います。

気持ちが汚されそうになった時には、自分自身が試されているときと思って、

大空のように広い心と広い視野をもって乗り切るようにしましょう。


清らかな心、無垢な心は、すさまじい威力を発揮するように人を見て感じます。


そのような心を持った人は、周りの人を自然と浄化にしていくようです。

周りの人が知らず知らずのうちに変わっていきます。


例えば
・周りの人の言葉が変わる

・周りの人の興味・関心・話題が変わる

・その集団・組織の空気が変わる


それが、天地自然のはたらきのようにこだわらない心がもたらすはたらきのように感じます。


たった一人だけでもそのような人がいましたらその集団・組織は幸運だと思います。


一人が変われば、全体にまでその不可思議な徳・はたらきは時間をかけながら影響を及ぼしていくのですから。


お読みくださり有り難うございます。

良いことも悪いことも両方あって人生!

2017年06月22日 11時26分07秒 | 日記
良いことばかりの人生はない


順調に人生を歩む人、明るく生き生きと毎日を過ごす人。

一方で、会社で理不尽な上司のもとで一日の中で何度も心が折れながらも歯を食いしばり過ごす人。

家族間の問題で悩み、表情までも暗くなってしまっている人。自分の将来について悲観して生きた心地のしない人。



この世の中を生きていると悩み、心配は尽きません。



下を向きなんでこんな人生なんだと自分に言いたくなる、こんなはずではなかったと嘆きを発したくなることもあることでしょう。

そんな状況の中で過ごしていますのは、あなた一人ではありません。世の中の人すべてがそのような経過をたどり、過ごしています。



後から思えば、何であんなことで迷っていたのだろう。

なぜそこまで悩む必要があったのだろうと、

ビックリするくらい軽く振り返ることができるのが人の悩み、心配だと思います。

過ぎてしまえば何でもなかった!必ずと言っていいほどこんなものが多いです。



( 個人談 )

学生時代、試験勉強が十分にできずテストの日になってしまった。焦る気持ちが大きくなり悲壮感が心を覆った。

しかし、テストを終えればスッカリそんなことを忘れ、友達とカラオケで盛り上がっていた自分がいた。




一時のことで万事を思うべからず


長い人生の時間で、悩み心配などをするのはちょっとの束の間です。

そのちょっとだけの時間に全てを悲観して生きることはもったいないことです。

負の感情は重く、人をダメな方に引きずるように感じます。


以前、会社を経営されている方が神社にお茶のみにいらっしゃって次のようなことをおっしゃっていました。

会社の資金繰りが大変なことになってしまって会社が倒産するのではないかという窮地の状態にあったことが

あったようです。その際、寝室の壁と天井に「雨が終わらないときはない」などと貼り紙をして

寝る前、朝起きたときに必ずみるようにしていたそうです。

・悪いのは一時

・必ず局面は変わる


そのように強い心をもって堅く信じて過ごしていったとのことでした。

ちなみに、その会社は今、創業以来過去最高益の結果を出し好調となっています。


どん底の人生であっても流れ、局面が変わる。そのことをお会いした方を通して教えられました。

注意しなければならいのは、逆もまたしかりだと思います。


厳しい状況、つらい状態にある方こそ、神道の清明心、清き明るき心でお過ごしください。

必ず流れ、局面は変わっていきます!

世の中で変わらないものはないのですから。

お読みくださり有り難うございます。

真の学びは真の輝きがある!

2017年06月21日 09時12分42秒 | 日記
真の学びは人を輝かす


「それ学問は心のけがれを清め

身のおこないをよくするを本実とす」と近江聖人と謳われた中江藤樹はこう残しています。

なお、中江藤樹は江戸時代1608年に生まれ、41歳の若さで亡くなりますが、

亡くなるまでの14年間、近江の地で多くの人々を育てました。



清らかな心


今の時代、学問は学校の科目を勉強することの意味でつかわれています。

各教科のテストでいかにいい点数をとるか?そこに重きが置かれています。

テストでいい点数をとるのは結構なことだと思います。成績よいいことによって将来の選択肢の幅も広がります。

知らないことを知ることによって、新たな関心が生まれ、視野が広がっていくことでしょう。

しかし、本来の意味での学問とは違います。

昔の学問は”人としての道”、”人が人たる教え”を学ぶことでした。

そのような学問を通して、豊かな心と人格を陶冶(とうや)していったと言われています。

また、それだけでなく他の者の幸せと・地域・社会・国を発展繁栄させていくこととも結び付けていたと思われます。

一人ひとりが成長することによって、さざ波が集まって、やがて大きなうねりとなっていくように、

より良い変化が人から・地域・社会・国家へと波及していく。。。



清らかな心がすべて


清き明るき心を神道では、清明心(せいめいしん)と呼びます。

清らかで明るい心。

この心で生きることが天地の神々、森羅万象の流れにある大いなる働きの道が喜ばれ、望まれる心境なのでしょう。

汚い心、悪い心、心配、不安、怒りなどの心を、穢れ(けが)た心といいます。

穢れた心によって、・自分自身・社会・国家に禍(わざわい)となって影響を及ぼすととらえられています。

そのため、清い明るい心で生きるのが神道では何より大切な心がけとされています。


>わが心清め清めてよく見れば 神も我が心なりけり
-橘弘政・心の百首-


心こそは神に通ずるところ。神さまと心はつながっている。

天地を生み、生きとし生けるものすべてを生んでくださった神さまと一人ひとりがつながっています。

神さまと共に生きている、神さまに生かされているという視点をもって明るく生きましょう。

お読みくださり有り難うございました。

心がけ次第で未来は変わります!

2017年06月20日 09時42分58秒 | 日記
いつの時代も悩み、心配は同じ


長い歴史の中で、読み継がれ、語り継がれる言葉は静かな重みと深い味わい、そして、真の輝きがあります。

その代表的な言葉の一つに中国古典の四書五経があげられます。四書五経は一つの本ではなく儒学の学問を一まとめにした呼び方です。

一般的に四書は、・『大学』・『中庸』・『孟子』・『論語』、五経は、・『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』のことを指します。

四書五経のどの本を読んでみても、その鋭い視点と広い世界観にハッとさせられ厳粛な気持ちになります。

国、時代は違えど、人として生きるうえで大切にしたい心や考えが文章からとうとうと流れ静かに心に入ってくるように感じます。

今日は、四書五経の『中庸』の言葉について神道の視点から言葉を加えたいと思います。



一歩先に楽になりましょう


余談になりますが、『中庸』の言葉の意味について宇野精一氏はこのように述べています。

「中庸とは、一般的に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、最も適切妥当なことである。

だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われている。

けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、という意味もって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、

中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸をえることができると言っている。」

並みの世界に生きる私たちにとって一縷(いちる)の望みを含む言葉に心強い後押しを受ける思いがします。



故きを温ねて新しきを知る


・至徳(しとく)でなければ至道(しどう)ならず。

意訳
天が授けた人の至誠の美徳を失うことなく、磨き続ける。そうでなければ、天の望む道を歩むことはできない。

人は誰しも神さまから授けて頂いた、御霊(みたま)を宿しています。

このことを神道では、人は神さまから分かれた存在の、分御霊(わけみたま)と呼んでいます。

赤子、幼子のような純粋な心、曇り、汚れのない心を人は本来もっています。

しかし、だんだんと欲によって、さまざまな環境によって、神性な存在たる人は徳を失い、道を失っていきやすものです。

世俗の中で生きることは大切な人生の修行だと思いますが、それに流され、染まる生き方は、神さまは望まれないでしょう。

生まれながらの本性を大切に、大事に保って努力していくことが、徳を磨き、高めることにつながると思っています。


投げ出さず、逃げ出さず、自分の良心に従い、世間と調和し、その時代の当たり前とうまく付き合っていく。

それが、中庸のココロをもって神さまと共に歩む、天の道に沿う生き方だと思います。

その生き方を天はご覧くださっているのでしょう。


お読みくださり有り難うございました。


目からうろこ!神社という言葉は建物のことでない?

2017年06月19日 07時07分47秒 | 日記
神々と霊性が鎮まる聖地


タイトルをご覧になった方は、さぞ驚かれたことでしょう。

幼いころ親に手を引かれて行った神社、お祭りの時に友達と露天商の前に並んだ記憶の中にある神社、

今日改めて”神社”の言葉を通して、”神社”の意味を考えるきっかけとなれば幸いです。



自然と神々


神社は、もともと里山遠く離れた奥深い水源の森山や渓谷などの

自然の中に潜む隠れた霊性、カミ(神霊)が里山近くに鎮まるように迎えられた里宮となっています。

そのため、神社が鎮守の森と言われるように、あくまでも森に籠る神域を理想としています。



日本語をたどる


『延喜式』では伊勢の大神宮など十一社を「宮」(ミヤ)と読む以外は、

すべて”神社”の言葉が使われていて、”カムツヤシロ”と読まれています。

これは神ノヤシロ、つまり、神を祭るヤシロの意味です。


『万葉集』では、ヤシロについてこのように歌があります。


・ちはやぶる神の社(やしろ)しなかりせば 春日の野辺に粟蒔かましを

・春日野に粟まけりせば何時しかに 続ぎてゆかましを社(やしろ)とむとも


”社”のことを”ヤシロ”と読んでいます。


さらに、


・木綿(ゆう)かけて斎(いつ)くこの神社(もり)越えぬべく 思はゆるかも恋の繁きに

・山おろしの風な吹きそとうち越えて 名に負へる社(もり)に風祭せな



”神社”と”社”のことをモリと読んでいます。


なお、ヤシロは”屋代”のことで、屋舎が建つべき場所を意味しました。場所であり建物自体を意味していません。


神社と社の”モリ”は、もともと神の鎮まる森、こんもりとした神域を指しています。


つまり、自然に宿る隠れた霊性、神霊が鎮まるこん”もり”とした神域、

そこで神祭りを行う場所を”神社”と呼ぶのが、本当の意味となっています。



※地震や津波などで神社の建物が無くなってしまっても

自然に潜む隠れた霊性、神霊が鎮まるもり、神祭りを行う場所、

つまり、”神社”が残っていますので神事は行えます。

災害の被害を受けた神社の建物が無くなった地域でも、神祭りは行われるんだということをご理解いただければと思います。

お読みくださり有り難うございました。