宗教観をもつ事が人生にとって必要だなという話をしていました。
それは自分の心と対峙するためだから。
それは人生にとって物事の成長とか成功にとっての基本となる心を置き去りにしない為でもあるのかなと思っています。
人生観や死生観を考えるにもその根本にもなるのが自身の心だと。
そんな風に考えていると、
何か一つの宗教組織に所属してしまうと、それだけしかなくなったり他が見えなくなったり、それ以外を観なくなったり。
その奥を追求する事を怠ったり、我を見失ったり、
その宗教の真理や経典よりも見える対象の教祖や高僧しか信頼できなくなり、
心が依存体質になるからです (^.^)
今まで周りの友達や知り合いで、宗教に所属している人はほとんどがそうでした。
真理を追究している人には出逢った事がありません。
ただ祈ってるとか、ただその教祖が素晴らしいとか。
最近報道で話題になっている兵庫県知事のことですが、
その人の事を評論するつもりはありませんが。
この人には政治能力や統率能力や支配能力など、そういった能力は少なからずあったんだと思います。
それに意志も考えも志もあったでしょう。
ただ本当の心が置き去りになっていたのかも知れない、
本当の心が未熟だったのかも知れません。
能力は心によってプラスにもマイナスにも働くからです。
今いろんなプロの世界でも人間性と能力の両方を持つ人の方が高みを目指し挑んでいるように。
ハッカーにもホワイトハッカーブラックハッカーがいる様にです。
そんな境目も我見失うとどちらに働いているか分からなくなるのです。
だからこそ心で、俯瞰力だと思ってます。
私は、霊界幽界の世界を知った時、霊能師に出会いました。
それから霊能師がいることを知ったんですが、
その後色んな霊能師に出会いました。
霊能力の事で、祈禱力、除霊力、浄化力、透視力、そんな事を不思議だったけど知る事になったんです。
不思議だけど本当なのかと驚く事もあったし、見えない世界を知る事で良かったこともあったし、救われたこともあったけど、
直ぐ全てを信じるという事はありませんでしたが、
とりあえずそんな能力が人間にはあるんだという事を信じることにして、
探求を深め広げていきました。
そんな中、色んな霊能師に出会いながらも絶対に入り込まない私でした。
多分そんな性格だったし、守護されていたんだと思います。
みんなが先生!とかって呼んだりしているのも違和感しかなかったし (^^;)
その霊能師をいつでも観察洞察して正体というか性質というか人間性を見ないと信じることが出来なかったんです。
ちょっとでも疑わしい性格があるとなんで?と疑問が湧いてきていたんです。
今でも完璧を求めたい性格でもあるので、
そこが私の欠点みたいなところもあったんだろうけど、反対に守られていたとも思います。
その内の何人かは能力はあれど、その能力をお金儲けだけに走ってしまい病気になったり、能力を失ったり。
性格が表面的に出てきて信じられなくなったり。
今世間一般の仏教界でも客観的に観れば同じだと思います。
僧侶でも能力と人格は別です。
それを見分ける自身の能力を磨かないと、いい出会いとなりません。
それに、仏教でも時代に乗って変化と進化が起こっています。
もっとも最初は神として見えないものを崇めていたと思いますが、どんどん人間の欲が出てくると変化していきました。
一般民を統率するために心の指針としたり、
密教なんかは能力です、祈祷とか呪術。
そして僧侶自体が我先にと我欲でその能力を身に着けようとしたり。
その目的が変わってきたりしています。
それを観てきた私は、絶対に能力よりも心と性格、人格だと。
いや!能力も人類にとっては必要なもの、
その能力は潜在意識からの発信でもあるので大切です。
両方同時に磨く必要があると考え出したんです。
なので、先ずは自身を磨く、客観的になる、自分を俯瞰するという目標も持つようになった。
自分自身も心を磨かないと成れの果ての地獄に落ちていくんだと信じ込んでいたりして (^^;)
まあそれは後に自分の心次第だという事になったけど (^^;)
それでも俯瞰力だけは磨く。
そして、客観的になるという事で他人軸か自分軸を見分けるという事。
寄り添う事は良いけど、同情は危ないとか。
一応目標なので鍛錬が始まったという感じでした。
宗教の選択というよりもその広さ深さを知り、
その後は真理を探究するようになったという事です !(^^)!