緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

人生の相殺

2024-02-29 | 魂・潜在意識
  「自分の人生を自分自身が生きる」という事、
これって誰しもがそう思うし、誰しもがそうしていると思っているでしょう。
今が幸せだという事が自分の幸せだという事も「自分が思う幸せ」の価値観はどうなのか、決めつけではないのか……?
そう思い込んでいるという事は思わないのか、
チェックしないのか、チェックの方法を知らないのか気づいていないのか。
人生もたまに俯瞰して確認しておくという。

「幸せ」という価値観も人によって違うし、違っていい。
今を100%そう思える事なんでしょうね。
価値観は名詞や代名詞で例えられるものでもない、
「幸せ」もこれが幸せだと言葉に表わすものでもなく、
心から気持ちが湧いて出る事。
それもing。
心臓、心、が生きているという事はing。
価値観は見つけて気づいてのingで、
人生は終わるまでing。

病気だとしても痛みを抱えていようとも誰かが傍にいて、誰かの手を借りて、それで人の温かみや思いやりや優しさや辛さを理解しただけでも幸せでもあるのだから。
人が傍にいてくれている事を気づいただけでも感謝であるのだから。
高齢者がデイサービスや老人施設や病院で気づくことが必要だから最後に与えてもらっている。

そう思うと、幸せの価値観が「気づき」や「感謝」の気づきであることでもある。
高齢者が長生きが幸せかと思ってたりする現代、一生懸命目の前の物質次元を生き抜いてきて、勉強や仕事、家庭、お金、物、手に入れて来たものは多いと思う。
手に入れることが成功と言われた時代でもあった。
その割に「心」はと言うと忍耐や我慢や遠慮や恥やという事で蓋をしてきたことも多い時代でした。

そうしてきて高齢者になると勢いも無くなり、気が抜けて、邪魔くさくなってきて、意気消沈となって、今まで一緒に生きて来た物や人に心が依存するという。
他力本願だったり、依存心。
自分が生きてきたことに自信が無くなり、誰かに任せておけばいい、何かに任せておけばいいとなる。
だからと言って施設で相殺しているかと言って惨めでも情けないわけでもない。
そうやって相殺しながら、それも与えているという。
任せるのでなく最後まで自分の人生に責任を持たないといけないのかなと思う。
人に任せて人に評価されて自分の人生が何だったか分からないと思うのは当然で、
何が生まれて来たんでしょう、何が生きているんでしょう。
何が何のためにどう生きたんでしょう。
それを評価するのは誰でしょう、何でしょう。

それが出来ないまま生きて来たのももう既に過去です。
生きてきたことが全てだったんです。
そう100%信じる事です。
それを信じれないと天に帰ることが出来ません。
善も悪もその奥に気づきも感謝もあります。
そのために最後に何かに気づくために相殺する事になるのでしょう。

天からお迎えに来てもらいたいわとうちの母も言いますが、
天からお迎えは来てくれません。
その代わりに寿命だけは決められていますので期限までの相殺しかない。
一気に気づきに気づくには心の底からの感謝と魂の感謝。
だって魂が生きているのだから (^.^)
魂も命も天からの借りものでもある、だから相殺。
奇麗になってお返しです。

最後までどう生きたいか、最後にどう死にたいか、
痛みを抱えて生きたいか、病気のまま生きたいか、
家で死にたいか、病院で死にたいか、
片付いている家で死にたいか、ゴミ溜めの家で死にたいか
それぐらいを考えて過ごすのも良いと思います。
自分で相殺していたい。
整えるもその一つ。
体を整えるのも家を片付けて整えるのも同じかなと思うので、物の意識も体の意識もスッキリさせて整えていたいのであります !(^^)!



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 腸活! | トップ | 自分の評価は数値か感覚か。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿