人に対する指摘や分析にも客観性が必要だという話しも良くしています。
全ては自分の価値観と想像力、自分の世界観を如何に広げるかという事。
自分の価値観や世界観の中だけで他者を分析して、
その上での指摘は間違います。
指摘どころか批判や酷評…はするもんじゃないですね。
ましてや断言するのはどうかと (^^;)
まあ間違っても良いとは思いますが、
その時に自分の客観性も磨く機会でもあるという事です。
私も自分の分析もするけど他者の分析もします。
分析を言葉にする事もあるし、
相手にとれば正直であり過ぎる時もたまにあります。
それは事実だけを言おうと思っています。
必ずその奥にある自分や他者の世界観は知った上で尊重し大切にしようと思っている。
大切にというのは、魂が成長するための課題でもあるからだと理解しているからです。
自分の意見としては述べても
自分の価値観の奥や世界観を知る事と、
他者の世界観の奥を知る事は必要だと思っています。
人って自分も含め、
ただ言っているだけではない、
ただやっている訳でもない。
そういう人もいますが、
そういう人は自分と向き合う事が必要な時。
全てに意味がある、
全てに心がある。
なので、ひとくくりに言うのも言われるのも好きではない。
私が人の奥も知りたくなるのはそのためでもあります。
なんでその人はそう言いたかったのか、そうしたかったのかを知りたい。
人とは違うと思っていたい私です。
表面的には同じでも中の思いや考えは違うからです。
例題と言えますでしょうか、例えば…。
よく大阪人だからと言われたりします (^^;)
車の運転時、信号待ちの時に正面の信号を見るのではなく反対の信号を見ます。
それは特に先頭の時。
右折信号の先頭の時でもそうです。
信号待ちの前の車との間隔も詰めます。
せっかちやなとか短気でせわしないとか大阪人の総称のように言われますが、
それは何も急いでいる訳でもなく、
後ろの車に迷惑かけて怒られるのが嫌なだけでもあるし、
信号待ちの時も一台でも多く右折できるためにとか、
こうしてあげよう、ああしてあげようと気が働くのです。
周りの状況や周りの人の状況に気が働くのは性分でもあります。
母親も気を遣い過ぎで病む人ですが
多分それも幼い時からの育った環境でもあるのでしょう。
自分より周りをみてるし、気が付いてしまうし、気が働いてしまう。
それが表面に出た時には誤解を生む事もあるかもしれませんが、
自分の奥の世界観を知ると、その意味も理解できるので
自分の事も尊重してあげようと自分を大切に思えるのです。
昔の私なら誰か(親)に褒められたいという気持ちが奥にあったかもしれませんが。
人のためとか、人に迷惑かかるというのは綺麗な言い方ですが、
自分のためでもある。
怒られたりするのが怖かったり、
自分のせいだと思われたくないのもある。
それに身勝手な人を見ているとその周りも気になるのです。
身勝手な人が怒られるのも嫌だし、迷惑かけているのも気になる。
気になると何でもほっとけない。
身勝手な話で言うと、
何気ない事によってしわ寄せがいろんなところに行くことが気になるのです。
これも不安、心配性の現れでもあったんでしょう。
それが癖になっていっただけです。
独身時代の仕事場でも常に仕事しながら片付けもしていました。
めちゃ忙しい合間にも自分のトイレ我慢してでも常に片付けです。
美容室ではパーマでもカラーでも一仕事毎にすること満載なもんで (^^;)
今では考えられないぐらいの働きです。
その分、目も口も気もめまぐるしく動いていました (^.^)
それも気づかれないように、気ぜわしく思われないようにです。
そんな時には自分の気持ちも世界観も知ってあげようとか思う間もなく一生懸命お客さんを熟す事しか考えてなかった。
毎日15時間以上動いてたからなぁ~
ただただやった感!を味わうためだったのかもしれませんね (^.^)
その後結婚すると家族のため動きまくってた。
身勝手と人のためとは表裏一体で一つ間違えればという事にもなりますけど。
そんな体験も私には必要なのでしょう。
今思うとそんな時の自分も凄く愛おしく思うし、
自分の世界観も褒めてあげたいと思う。
ゆっくり自分の世界観を考えてあげれるようになって良かったなと。
単なる身勝手な人間にはならないようにと心がける(^^;)
人の事も分析はするけど尊重もする…です (^.^)
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