昨日は心の免疫という話をしていました
自分自身との信頼関係を強くしていく事だと (^.^)
体験一つひとつをやり終えるからその信頼も増えていき、その関係の芯が強く太くなる
その芯となるものが「心」でもあり、「自分の芯」で「信念」となって行くものです
子育て体験なんかはまさしくそうです
私の病気に対する信念も子育てにも関わる事によって増えていき、育てる上での不安や心配もどんどん減って行ったという
その時々の心の体験にも繋げていかないと心の免疫ともならないという事でした
人間どんな体験でもですよね
恋愛体験に関しても、傷ついて傷ついてやっと自分の気持ちに気づき自分を傷つける事をやめる事もできるし、
どれだけ異性に騙されても依存しても貢いでも心が納得しないと止めれない
病気も悪事もそうですよね
体験には心がつきものです、心と共に在るんです
そして体験する事によって、心にも気づき、心との信頼関係が強く太くなります
それが芯となり信念となり、真となり、人生哲学になって行きます
宗教もそうです、精神世界もスピリチュアルもそうです
自分の体験をもって心の気づきがあるんです
そして自分の「体験=肉体」と「魂」と「心」の信頼関係がドンドン太く強くなるんです
そして心の免疫ができ、何があっても自分自身で乗り越える力となる
そうしてる間に自分の中の不安や心配や怖れも払拭していき、少なくなり
その空いたところに光が射しこみ光で埋まって行き、その心にも余裕が出来てくるんだと思います
どんな体験がやって来たとしてもです
私は子育て体験が結構自分の心の気づきが大きかったので、その体験話と繋げますが、
その体験の中で子育てに対する免疫も出来ていき、だからこその余裕も出て行ったんだと思っています
現代のストレス社会も人間関係もきっとこの余裕の無さかなと感じてる私ですが…
物質社会、物質次元、見える世界にばかり心が持って行かれ、望み、求め、そんな体験ばかりしていると何故か心をどこかに置きざりにしてきたのかなと思います
求めた体験、望んだ体験に心が納得してこなかった、満足してこなかった
望んだ結果と成果の矛盾で心とのバランスが取れてこなかった
体験の結果が思うようにならなかったという事で自分自身との信頼関係を築いてこなかった
心の免疫をつけてこなかった、
結果、心に余裕がない、心に光がない、心に愛がない…となった
たとえ、求める事や体験が肉体レベルであっても心の視点を変えれば結果も変わります
そして心と共に体験すれば…その体験を成功だとか失敗だとかと決めなくて済む
ただの心の体験として心がスッキリするんでしょう
そうなると心が一喜一憂するという事で自分を責める事も無くなるし、自分をおとしめる事も、結果で落ち込む事も無くなるんでしょうね
心を大きくすれば余裕も出来る、心の器を大きくすれば良いんじゃないか余裕もできるんじゃないか…という訳でもない
自分との信頼関係
それは魂との信頼関係
宗教や精神世界やスピリチュアルもだよと先ほど言いましたが
未だ誰かに頼ってる、人を信じてる、教祖様、先生様を信じているという人も、その教典を以てして、自分で歩き、自分との信頼関係を強くしていかないと魂の本当の満足は得られないんだと思います (^.^)
私も昔、「もしこの人(最初に学んだ霊能師)が死んだり居なくなったらどうなるんだろう」と思った事がきっかけで自律と卒業という事に真剣に向き合うようになりました
まあその時にも自分の我を磨き取り除き、魂を磨き光り輝かせる事にしか興味がありませんでしたが、
その後です、自覚し、潜在意識の覚醒が起きたのは (^.^)
それが信頼関係の糸が(光が)繋がるって事だったんだろうなと思います
何が起こっても心に余裕を持ちながら対処(体験)が出来るようになりました (^.^)
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