いつも話す事ですが、私は母親ワールドが強く育てられました
それは嫌だったわけでも不幸だったわけでもないんですが
自分の事を知ろうとしていなかっただけです
それと母親の世界は狭かっただけです
その中で、「普通が良い」と、何でも普通が良いんだと、変わった事をすると変な子や我がままを言うと、押さえつけられ
肉体に関しても、勉強に関してもです
懇談会に行っても先生から言われる事が恥ずかしい事じゃなかったらそれで良し
「あんたは怒られる問題児じゃないし、普通や!それで良いんや!」
そんな風に育てられていたんです
多分母親が自分に言い聞かせていたんでしょうね
それは嫌だったわけでも不幸だったわけでもないんですが
自分の事を知ろうとしていなかっただけです
それと母親の世界は狭かっただけです
その中で、「普通が良い」と、何でも普通が良いんだと、変わった事をすると変な子や我がままを言うと、押さえつけられ
肉体に関しても、勉強に関してもです
懇談会に行っても先生から言われる事が恥ずかしい事じゃなかったらそれで良し
「あんたは怒られる問題児じゃないし、普通や!それで良いんや!」
そんな風に育てられていたんです
多分母親が自分に言い聞かせていたんでしょうね
何でもが自分のキャパを超えるのが不安で心配な人だったんでしょう
それを怒りで制してたという
大人になって40歳になって自分分析するようになって認識したんですが
大人になって40歳になって自分分析するようになって認識したんですが
私も子供産んで初めはそんな感じでした、だから分かる
その「普通」という事を今になって考えると
私がよく考えていた事で、自分の指針としていた事の中に
「中庸」という言葉があるんです
「バランス」という事も自分の生まれて来た課題の中に在ると思っていて
それって「普通」という事と同じ事なのかなって思いました
昔はその普通って意味という意味が分かっていなかったんですね、というより「普通」という概念の捉え方が狭かったし偏ってたんですね
そう言い聞かされて思い込まされて、じゃないと「普通」という言葉が私の脳にも残りません
残っていないと、自分の課題だと気づきもしません
その「普通」という事を今になって考えると
私がよく考えていた事で、自分の指針としていた事の中に
「中庸」という言葉があるんです
「バランス」という事も自分の生まれて来た課題の中に在ると思っていて
それって「普通」という事と同じ事なのかなって思いました
昔はその普通って意味という意味が分かっていなかったんですね、というより「普通」という概念の捉え方が狭かったし偏ってたんですね
そう言い聞かされて思い込まされて、じゃないと「普通」という言葉が私の脳にも残りません
残っていないと、自分の課題だと気づきもしません
課題には、その対象素材も必要となりますから、どこかに疑問で残るもんです
だからそうやって育てられたのも訳わからん時には「普通ってなんやねん」なんて僻んだり思ったりして親が自分に関心ないだけかなと思ったりしたけどある意味正解だったんです
「普通」ていうのは自分で創って行くもんなんですよ
この世に生まれて自分探しをしていく上で、対象がいないと自分が分かりません、認識しません
人がいるから違いが分かり、自分というものが分かる
人と比べて、相手ばかり見ている時は自分に気づかないけど、自分軸になると客観的に自分に気づける
そうしながら自分軸で自分の意思を持ちだすと、自分の中の考えのバランスも取れ、
人とか、社会のバランスも取れる
そうなった時に自分の中の「普通」が「中庸」となるんですよね
そう思います
そして「自分にとっての普通」を見つけて行くという事ですね
子供の頃には母親に擦り込まれた事であっても必然で全ては自分の為だと今ではどんな事も思えるんです
それを母に話して感謝だと伝えたところで分かる人か分からない人かは別で
一度伝えた時には恨みだと言われましたから (^_^;)
人は自分の人生を納得する使命がそれぞれに与えられていますから
そのままを尊重しています (^_^)
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