昨日の話で、天に届く良い言葉って良いよねという事でした
そして、そこへ意識を向けてまっしぐらに進む
その言葉もその道も100%信じてという事でした
その時に意識付けるために唱えたりして、頭を空っぽにして無意識になるという事でした
そうしながら私もその空っぽにするのに中々「怖いという感情」が邪魔すると言っていました
「恐怖」だけでなく、「心配」「不安」「恥」等、いっぱいでした
その捨てた後の道は信じようと思いましたが
何度も気落ちしそうになりながら進みました
その一杯の邪魔する感情を見つけないといけませんでした
見つけて手放すと解放が出来た体験も同時に進んで行ったので
その続く道もどんどん100%信じるというところに近づきました
もう既に天には自分の意識が届いていると分かってはいながら、自分の求めるその言葉の本質や概念を知らないと、ホントにそれで良いのか?なんて思ったりしていました
私にとっての楽しむって何?とか、歓びって何とか、ホントの感謝って何っていう疑問も出てきたりしたからです
その唱えている心も100%に満たないと信じる心も100%に到達しないのかなと思いながら
到達点に矢は刺さっています、それを手繰って行きます
そして…
その感情を見つけ無意識になる為に「客観性」を磨きました
自分に対してを先ず磨き、そして人に対してです
その客観的というのが何か?
辞書で調べれば…「主観または主体を離れて独立に存在するさま」「特定の立場に囚われず、物事を観たり考えたりするさま」とあります
主観的と相対する言葉として表されてる事も多いですが
本質的に考えると…
そこには全て愛だという事です
愛で観れるか、無で観れるかです
愛とは全てを受け入れられるかという事ですよね…深いですが
真実です
如何にすべての概念を愛の解釈へ導け、受け入れるという事です
それでも…既に矢が刺さってる道は高次の道です、悪の道にはならないです
連れてってくれるのは神様だし、魂だし
ましてや我が魂はその高次の道へいざなっているし、戻りたいのですから
もう繋がっているから大丈夫ですよね
そう思いながら進みました (^.^)
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