「反緊縮」「政府がお金をつくって財政出動」の理論的根拠とされるMMT(現代貨幣論)について、興味深い論考があってので紹介&メモである。ハーバー・ビジネス・オンライン(フジサンケイグループらしいのだが、なぜか政府・政権や保守的な考え方に批判的なサイト)における、結城剛志氏による参議院選挙前の連載記事から…リンクとコピペ
現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回>
MMTは貨幣論です。これを財政・金融政策を論ずる政策論の次元で評価しても空振りに終わります。既存のMMT批判は、政策論の根幹にある貨幣論に届いていません。(中略)
MMTの貨幣論は、中野氏が「国定信用貨幣論」と呼ぶように、国定貨幣論と信用貨幣論の合成です。これらは一般に相いれるものだとは考えられず、2つの異なる貨幣論があると考えられてきました。(中略)
MMTによれば、貨幣は本質的に債務であり、国が創るものです。そして、債務が貨幣の本質なので理論的には現金のない信用経済を考えます。信用経済とは、貸借によって成り立つ経済です。(中略)
問題は、国と国民の間の国定貨幣循環(タテの循環)と国民間の信用貨幣循環(ヨコの循環)が、理論的にはパラレルな関係になっていることです。レイは、国が国民に課税し、国民が国に納税するという権力関係を、私人間の信用関係と同じレベルの債権債務関係に類するものだとみなし、タテとヨコの本来交わらない「デュアル・サーキット」(二重の貨幣循環)を債務というひとつの契機でつなぎました。ここがMMTの要石です。拡張的な財政政策は貨幣論から自然に出てくるものであり、いくら政策を批判してもMMTの土台をなす貨幣論はまったく揺らがないのです。 しかし、税を課し、税を支払わなければ罰するという権力関係と、商品の売り買いから生じる信用関係とは本質的に異なるものです。くわえて、国定貨幣が国家権力に基づいて創出されるとの想定が適切ではありません。かりに、国が純粋に力で商品を買っているのだとしたら、それは購買ではなく、徴発です。国が商品を買うためには、市場がもたらす価値を国に引き上げるほかありません。つまり、課税を通じて、市場で生み出された価値を集めて使うかたちになります。(中略)
税債務としての貨幣が、信用貨幣のように私人間で広範に流通する根拠が示されていません。MMTは、国と国民の間の権力関係から生まれる徴税と納税の関係と、私人間の商品売買関係から生まれる債権債務関係という、まったく含意の異なる社会関係を同じものとみなしている点で決定的に誤っているのです。(中略)
現代のお金はお札(銀行券)と預金です。ミクロ・マクロ経済学に代表される現代の主流派経済学は、現代のお金を適切に説明することに成功していません。この問題に正面から切り込んでいる点でMMTの研究姿勢は真摯であり、評価できます。(中略)
MMTは、現代の通貨が兌換のない信用貨幣であることを適切に説明しています。そもそもの問題は、現代の主流派経済学が、不換銀行券と預金通貨からなる現代のお金を整合的に説明できていない、という点にあります。この問題を解決することなく、MMTがいいとか悪いとかいってみてもほとんど意味がありません。(以下略)
現代貨幣論(MMT)はどうして間違ってしまったのか?<ゼロから始める経済学・第8回>
前回は国定貨幣論と信用貨幣論の関係をみました。今回はMMTにおける商品貨幣論の取扱いについて説明します。MMTが信用貨幣論の着想を受容しながら、国定貨幣論との無理な結婚を迫らざるをえなかったのは、商品貨幣論とのつらい別れがあったためです。過去の商品貨幣論がしっかりしていればこうはならなかったでしょう。 多少なりとも貨幣的な経済学に触れたことのある方であれば、信用貨幣論が国定貨幣論と仲がいいなどという考えは通常とりえず、むしろ商品貨幣論と親和的であることに気づきます。商品貨幣論をベースに信用貨幣論を発展させられていれば、こんなことにはならなかったのです。それができなかったのは、もちろんMMT自身の限界ではありますが、商品貨幣論側にも問題なしとはいえなかったでしょう。(中略)
本稿で問題にしたいのは、MMTでは、商品貨幣論と金属主義的な貨幣観との混同がはなはだしいということです。お札と「金(=gold)」との交換が約束された金本位制のもとでは、お金の価値は「金」によって支えられていると考えることができました。しかしそう考えると、「金」との交換ができない現代のお金の価値を説明できなくなります。MMTは、「金」と商品の区別がつかないために、「金」による説明原理を失った途端に、商品貨幣論そのものを否定し、国という外部の要因で説明するしかなくなってしまうのです。(中略)
金属が貨幣の本質だと考える見方はたしかにおかしく、現実を説明できません。ところがMMTでは、金属主義としての商品貨幣論は採りえないと考えるがゆえに、国家の力によって貨幣に価値を与えるとする国定説に助けを求めてしまうのです。金属主義批判には一理あるものの、解決法は下策をいってしまいました。
実際、内藤氏の批判の矛先は新古典派の経済学者を念頭に向けられており、またその問題点を、物々交換モデル、お金を交換の道具と考える説(交換手段説)、物価がお金の量で決まると考える説(貨幣数量説)においている点で、マルクスの商品貨幣論とは無縁です。内藤氏は慎重に断っています。 「ここで批判の対象としている商品貨幣説は、メンガーに代表される新古典派的、オーストリアン的な理論である。マルクスおよびマルクス経済学に関しては、ここでの批判が単純に適用しうるかどうかは、それ自体大きな問題であると思われるため、ここでは扱わない。」(『内生的貨幣供給理論の再構築』)(中略)
これは経済学の初歩の初歩ですが、そもそも新古典派に商品という概念は存在しません。新古典派が考える市場で取り扱われる「物」は財です。したがって、新古典派の商品貨幣論といわれているものは、厳密には財貨幣論というべきものです。財交換または物々交換に基づく理論だからです。(中略)
さて、商品の概念はマルクスによってはじめて与えられたものです。これは「物」(財)でもありませんし、金属でもありません。市場で売られているすべての「物」が商品です。つまり、みかんも著作権も等しく商品であり、かたちがあるとかないとか、金属か非金属とかいうことは関係がありません。商品には、売り物としての価値がある、これが貨幣の基礎なのです。
マルクスは、古典派の物々交換論を捨て、商品がお金で売買される資本主義論として経済学を再構築することで、古典派・新古典派、そしてMMTが解決できなかった商品貨幣論と信用貨幣論との関係を説明したといえます。 商品貨幣論に結びつけられた信用貨幣論の知見は極めて常識的なものです。すなわち、貨幣の価値は、銀行システムを媒介にして、市場で売買されている商品の価値にリンクされます。財政は、税を通じて市場で生み出された価値を集めて使うだけです。魔法を使う余地はどこにもありません。MMTが、物価という恣意的な留保を付けて、無制限ともいえる財政支出を容認してしまうのは、貨幣を論じるときに市場との関係をいったん切って、国の力という外部的な要因を持ち込んでしまうためです。財政を市場から遊離させる理論的な操作をしているようにもみえます。(以下略)
長々と引用してきた…私も含めた「左の人たち」も貨幣論についてはほとんど考えたことがないだろうから、ちょっと難しいかも知れないが…貨幣論はどうやら「商品貨幣論」「信用貨幣論」「国定貨幣論」の3つがあるらしい(それ以外にもあるカモしれない)。現代は「商品貨幣論」が成り立たないので、貨幣を説明するには「信用貨幣論」か「国定貨幣論」であろう。で、「国定貨幣論」の「貨幣の価値は国家が(徴税を通して)恣意的に決定できる」ことはやっぱり問題だね…商品の価値と結びつかないで、国家が決めれるものでもないでしょう。「信用貨幣論」も、その価値は売買される(ハズの)商品の価値に裏打ちされているモノ…そーゆーことはマルクスがちゃんと言っている!のだそうな!?へへへ。
ということで、MMTをちゃんと批判しようと思ったら、やっぱりマルクス・資本論に戻らないとイケナイというお話らしい。
蛇足だが、初めの紹介記事の後半はアベノミクス批判にもつながり、次の紹介記事の後半はMMTを紹介した中野剛志氏への批判でもあるのだが、そのツッコミが逆にMMTが展開する社会を見据えたかっこうになるので興味深い。