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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~その27~ 幻の薩“筑”長同盟(前編)

 
藩士を辞して国の臣。
地行生まれの孤高の志士。


平野神社ほか

みなさん、こんばんは。
ワシが今週のミステリーハンター・サカモトリョーマぜよ。
ドラマでは最終回の肝心なところで“字幕テロ”が起きてしもうて、まっことごめんちや。
ところで、前回はGさんが、ワシがおいしいところをもっていったとか言うちょったけんど、別にワシが好んでおいしいところをもっていった訳じゃないけに。
ある程度お膳立てができあがったところで役者が舞台から消えてしもうたから、ワシと中岡慎太郎が後を引き継いで仕上げをした。
それを、後世の人たちがワシばっかり取り上げるもんで、まるでワシ一人の功績のように思われちゅうだけじゃ。
え、何の話か分からん?
薩長同盟じゃよ。
とにかく、まずは幕末の福岡藩主・黒田長溥公の話から始めるぜよ。

長溥公は薩摩藩の第8代藩主・重豪(しげひで)公が66歳のときに生まれた九男で、薩摩藩第11代藩主の斉彬(なりあきら)公、斉彬公の異母兄弟の久光公の大叔父にあたるお方じゃ。
斉彬公の大叔父とはいえ長溥公の方が2歳下で仲が良く、お由羅騒動(斉彬派と久光派の家督相続をめぐるお家騒動)では北条右門さんら斉彬派の薩摩藩士4人を匿い、幕閣に働きかけて斉彬公の家督相続に協力したらしい。

実父・重豪公や養父の福岡藩第10代藩主・黒田斉清(なりきよ)公の影響を受けた長溥公は洋学好きで、中洲に鉄の製錬所を造ったり、シーボルトとの親交もあったそうじゃ。
島津同様、いわゆる開国佐幕派で、ペリー来航を事前に予告されて幕府に開国と海軍創設を建白したり、「公武合体」を推進したりしちょる。
中洲の雑居ビルの前に立つ『福岡藩製錬所跡』の碑。ほとんど居酒屋のノボリに埋もれている。

そんな殿様のいる福岡藩での尊王攘夷の先駆けとなったのが、地行生まれの足軽の次男坊・平野国臣さんじゃった。
ワシは平野さんには会うたことはないけんど、平野さんは24歳のころに海の正倉院といわれる宗像大社沖津宮の修繕のため大島に赴任し、そこで北条さんと出会い、感化されたそうじゃ。

1858(安政5)年、日米修好通商条約の締結や将軍継承問題などで大老・井伊直弼の専制が始まると、島津斉彬公はこれを正すために兵を率いて上洛しようとしたが、出発直前に亡くなってしもうた。
平野さんが北条さんを通じて西郷さんら薩摩藩士をはじめとする志士たちと交流し、尊王攘夷の活動を始めるのはこの頃からじゃ。

いわゆる安政の大獄のまっただ中、西郷さんや北条さんらは公家衆や薩摩との関わりが深かった清水寺の月照和尚を守って京を脱出し、福岡へやって来た。
月照和尚は福岡では太宰府の薩摩藩の定宿・松屋に潜伏しちょったらしい。
ちなみに、この時かどうかは分からんが、西郷さんは、福岡の舞鶴にあった福萬醤油の醤油蔵に隠れちょったという話もある。
とにかく、斉彬公亡き後の薩摩は保守的になっちょったから、西郷さんは月照和尚の薩摩入りを根回しするため、先に旅立った。
残された北条さんは、追っ手が既に近くまで迫っとって、この逆境で薩摩まで和尚を送り届けられる剛胆な奴は平野さんしかおらんちゅうて、すべてを平野さんに託したのじゃった。
和尚と平野さんは何とか薩摩にたどり着くけんど、やはり薩摩藩は和尚の受け入れを拒否。
悲嘆した月照和尚と西郷さんは、錦江湾で船から身を投げたんじゃ。
同じ船にいた平野さんらは慌てて二人を引き上げて、頑丈な西郷さんは息を吹き返したけんど、和尚は帰らぬ人となってしもうたぜよ。
太宰府の仲見世、駅から入ってすぐのところにある『松屋』。現在は土産店になっていて、建物の脇には梅ヶ枝餅を出す喫茶『維新の庵』を併設。
松屋の庭に立てられた月照上人の歌碑。月照が逗留のお礼に松屋の主人に贈ったものだそうで、
 言の葉の花をあるじに旅ねする
  この松かげを千代もわすれじ

とある。

親富孝通りから少し入ったところにポツンとたっている『西郷南洲翁隠家乃碑』。たぶん、福萬醤油の蔵があったところだと思う。

その後、平野さんは井伊直弼暗殺計画にも関わり、黒田長溥公に井伊暗殺後の薩摩との連携や攘夷実行などを建白。
福岡藩では平野さんが事前に桜田門外の変のことを知っちょったのに驚いて、平野さんを捕まえるべく、捜索を始めちゅう。
勤王の志士としての名は高まる一方の平野さんじゃったが、他の志士たちが脱藩浪士も含めて藩をベースにまとまっていたのに対し、“国の臣”を自称する平野さんは一匹オオカミ。
拠り所がなく、西に東にと各地をさまよっとったようじゃ。

1862(文久2)年、斉彬公の跡を継いだ重久公と実権を握る国父(重久公の父)久光公が公武合体推進のため兵を率いて京へ向こうちゅう。
京都にいた志士たちはこれを倒幕のためと勘違いして大喜びしてしもうちょったが、そこに黒田長溥公が参勤交代の時期を早めて出発したとの知らせが入る。
長溥公が久光公の邪魔をしてはたまらんちゅうことで、平野さんは明石の大蔵谷で長溥公の行列をとらえ、久光公からの伝言だと偽って、京都・大坂は過激分子が多くて桜田門外の変の二の舞になる恐れありと脅す。
長溥公はあわてて福岡に引き返し、よう知らせてくれたと平野さんを連れて行くが、下関から福岡藩の船に乗ったところで平野さんは捕らえられてしもうた。
久光公の方は、浮かれちょった薩摩の急進派を一掃し(寺田屋事件)、朝廷のバックアップを得て江戸に向こうちゅう。
ワシが最初に土佐藩を脱藩して間もなくのことじゃった。

チャラチャチャ~
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このころ、後に「勤王の母」などとして知られる野村望東尼さんは、旅行で京都におった。
望東尼は「ぼうとうに」と読まれることが多いが、ワシは「もとに」と読んじょるがの。
望東尼さんは野村モトいうて、歌人の大隈言道(ことみち)に夫婦で師事し、まだド田舎だった平尾の向陵(むかいのおか)に小さな庵を建てて風流な暮らしをしとったんじゃが、54歳のときにダンナさんに先立たれ、出家して望東尼となった。
その2年後の1961(文久1)年、師匠の大隈言道が大坂に移り住んどったこともあって、望東尼さんは京に上とったんじゃ。
帰国後、京都の情勢を訪ねられたり、世話になった京都藩邸からは福岡の状況を訪ねられたりしていた望東尼さんは、期せずして世情の情報通になっていったようじゃ。
たまたま野村家の新しい本宅の隣に喜多岡勇平という藩吏がいて、京との情報のやりとりに便宜を図ったもらえるようになった。
平野さんが福岡藩の参勤を阻止するという事件の直後に京から帰ってきた望東尼さんは、平野さんの志に感じるものがあったんじゃろう。
獄中の平野さんに歌を贈っちょる。
お隣の喜多岡勇平がたまたま平野さんの親友で、こちらでも便宜を図ってくれちょった。
獄中で筆も墨もない平野さんは紙(おそらくトイレットペーパーじゃろ)を捩って文字にして飯粒で台紙に貼付ける「こより文字」で歌を返し、二人のやりとりが始まったんじゃと。
(先日、福岡市博物館の『幕末を生きた福岡の人々』で国臣の「こより文字」の実物を見たけど、紙を細い紐のように捩ってあって、それは見事な“文字”になっていた。国臣が持っていた坂本龍馬と同型のピストルも展示してあった)
平野さんは翌年、朝廷からの恩赦で釈放になり、望東尼さんは平野さんの縁談も世話してやりよったらしい。
平野さんが今度は福岡藩士として京都に上ることになって縁談は立ち消えになってしもうたが、出立前夜、二人は望東尼さんの山荘で語り明かしちゅう。
平尾望東尼像と平尾山荘(奥はいちお資料館)。望東尼は月照も匿ったという記事をよく見かけるが、月照が福岡に来たのは1858年。この頃は夫が存命で、お尋ね者を匿ったとは考えにくいんだけど…。

このころ京の尊王攘夷派は、薩摩が寺田屋事件で一掃されたこともあって、長州の天下になっちょった。
時の孝明天皇は攘夷ちゅうてもただの夷人嫌いで、攘夷のために戦争をしようという気はなく、ましてや倒幕の意思などさらさらなく、むしろ政(まつりごと)は幕府に任せておきたいという佐幕派じゃった。
しかし、攘夷派の画策によって攘夷決行の日が決められ、幕府はこれをうやむやにしようとしたが、長州はこの時にこそとばかりに下関で外国船を砲撃。
さらに、孝明天皇の意に反して大和行幸(攘夷決行のためのデモンストレーション)を決めて攘夷決行を幕府に強要しようとし、過激派浪士集団の天誅組がこれに先駆けて大和の代官所を襲撃。
攘夷派の公家と藩士の討議の場となっていた学習院に出仕した平野さんは、三条実美(さねとみ)卿から天誅組の暴走を止めるよう命じられたが、平野さんが大和に着く前の8月18日に薩摩藩が会津と結託して孝明天皇を抱き込み、京都から長州勢力を駆逐した。
いわゆる八月十八日の政変ちゅうやつで、一夜にして政局はひっくり返り、三条実美卿ら攘夷派の七卿は失脚して長州勢ととも京を追われてしもうたんじゃ。

平野さんは再起を図って、七卿の一人、澤宣嘉(さわのぶよし)卿を担いで兵庫の生野で天誅組と挙兵を画策(生野の変)。
しかし、天誅組はすでに壊滅状態で、平野さんは挙兵の延期を主張したが、強硬派に押されて決行してしまい、あっという間に制圧され捕らえられてしもうた。
翌年7月、長州の攘夷派が挽回を期して挙兵した禁門(蛤御門)の変のどさくさに紛れて、京の獄中にいた平野さんは新撰組によって処刑されてしもうたんじゃ。
これら一連の事件で、長州と薩摩の溝は、決定的なものになってしもうた。

平野国臣の生家跡に建てられた平野神社。境内には
 我胸の燃ゆる思ひにくらふれは
  煙ハうすし桜島山

の歌碑(TOPの写真)や「平野先生遺愛松」などがある。
西公園の参道途中にある平野国臣像。国臣はのぼせもんというか、烏帽子に直垂(ひれたれ)、大きく反った太刀という復古調の出で立ちで、横笛を吹きながら町を闊歩していたらしい。和歌や雅楽をたしなむ芸術家でもあったそうだ。
平野神社の少し西にある鳥飼八幡宮には『平野國臣先生資料室』が設けられている。「地行の人ならまだ分かりますけど、もう福岡でも平野国臣と言って分かる人は少なくなりましたもんね~」と社務所の人が言っていた。

ちっくと話が長うなってしまって、薩長同盟の話まではいかんかったちや。
続きはまたこの次にやるぜよ。


松屋
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太宰府市宰府2-6-12
営業時間:9:00~18:00
定休日:不定
http://mail.dazaifu.org/shop/matsuya/index.htm

西郷南洲翁隠家之碑
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福岡市中央区舞鶴1-1-27(居酒屋『兼平鮮魚店』前)

平尾山荘跡
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福岡市中央区平尾5-2-28
山荘内部の公開および資料室:9:00~17:00


平野神社
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福岡市中央区今川1-7-4

平野国臣像
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福岡市中央区西公園10

鳥飼八幡宮
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福岡市中央区今川2-1-17
http://hachimansama.jp/

関連スポット
福岡市博物館(おまけ4)


つづく

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