テーマは「朝倉宮の謎に迫る」。
もちろん、あの朝倉橘広庭宮のお話だ。
で、本題に入る前に興味深い話を一つ。
斉明天皇は飛鳥から瀬戸内海を通って娜大津(なのおおつ=那の津)に上陸後、朝倉橘広庭宮に入る前に高宮駅の近所にしばらくいたらしい。
こう書くとまるで潜伏していたオウム信者みたいだけど、日本書紀によると磐瀬行宮(いわせのかりみや)というところに1カ月半ほと滞在していたそうな。
行宮(かりみや)とは移動中の仮の御所みたいなもんだろう。
高宮駅の東にある磐瀬公園はこのあたりの旧地名を残しているそうで、高宮八幡宮の由来にも、天智天皇(当時中大兄皇子)が磐瀬行宮に滞在中に神功皇后縁の地として神様を祀ったのが始まり、とあるらしい。
そういう訳で朝倉橘広庭宮。
前に「橘廣庭宮之蹟」の石碑がド~ンと立っている朝倉市須川の橘広庭宮公園の話や大宰府政庁説のことはお話したけど、須川の遺跡はすでに奈良時代の長安寺の廃寺跡であることが判明しているのでボツ(石碑どうするんだろ?)。
大宰府説や、ほかの小郡市上岩田(大分自動車道筑後小郡ICの近所)説、朝倉市山田(大分道山田SAの近所)説も小田さんはあっさり却下していた。
んじゃ、どこにあったのかというと、小田さんの説では朝倉市の志波地区だろうとのこと。
このあたりは大分道建設の際の発掘調査で杷木宮原遺跡、志波桑ノ本遺跡、志波岡本遺跡という3つの大規模建物群の遺跡が見つかっていて、小田さんも若い頃にその発掘に関わったのだとか。
しかし、この3つの遺跡も宮本体ではなく関連施設のものと考えられるそうで、各遺跡の建物跡の向きや周囲の神社、山の地理的関係を考えると、朝倉橘広庭宮の場所は落中(=洛中?)の地名がある志波小学校のあたりではないかということだった。
もちろん推測の域で、発掘調査も何も行なわれてないのでコレで決まり!って訳じゃないんだけど、このあたりは原鶴温泉のすぐ近く。
温泉大好きの斉明天皇がこの地を選ぶ可能性は十分ありうるんじゃないでしょうか。
追記
原鶴温泉が開かれたのは江戸時代のことらしい。
追記
この説を裏付けそうなツアーに行ってきた。
朝倉市志波地区あたり
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