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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~おまけ24~ 如水を信頼した大名の城

 
久留米城 織豊期城郭としては1587年ごろ築城?

1600(慶長5)年7月、石田三成挙兵の報せを聞いた黒田如水は、中津城天守の金蔵を開き、支度金を用意して農民兵や浪人をかき集めた。
中には金目当てで2度、3度と並ぶ者もいたらしいが、如水は集まったという評判の方が大事と笑っていたとか。
ケチ(倹約家ともいう)な如水だけど、金の使いどころは知っていたんだろう。
たちまち9千の兵を集めると、1万と公称する軍勢で、関ヶ原の本戦が始まる前の9月13日に大友義統の軍勢と石垣原で激突。
これを破ると、西軍として関ヶ原に参戦した主不在の国東半島の城を落としにかかる。
その最中の9月19日に、関ヶ原の決戦が9月15日のたった1日で東軍の勝利に終わったという報せを受ける。
国東半島を制圧した如水は小倉・香春岳など豊前の毛利領を落とすと筑後に転進。
鍋島が攻撃中の久留米城に行き、開城させる。
熊本北半分の小西行長領を落とした加藤清正と連携して柳川の立花宗茂も降伏させ、11月に黒田・加藤・鍋島・立花の計4万の軍勢で島津討伐に向かったところで、島津と和議を結んだ家康の停戦命令によって、北部九州を席巻した如水の“九州の関ヶ原”は終わりを告げた…。


そういう訳で久留米城。
一般には江戸時代に久留米を治めた有馬氏の居城として知られていて、
城跡には『有馬記念館』なるものが建てられているくらいだけど、
城郭の基礎を築いたのは小早川秀包(ひでかね)。
小早川隆景の弟(毛利元就の九男)だが隆景の養子となり、隆景が秀吉の縁者の秀秋を嫡男として貰い受けたことから分家となって、九州平定で筑前・筑後を与えられた隆景から筑後3郡を与えられた。
キリシタン大名で如水とも親交があったらしく、洗礼名も如水と同じシメオンというらしい。
大坂方として関ヶ原に参戦するにあたって、
「もし大坂方が敗れた場合は周囲の東軍諸将が襲ってくるだろうから、妻子を殺して城を枕に討死せよ。ただし、攻め手に黒田がいれば、如水なら悪いようにはしないだろうから降伏せよ」と城代家老に告げたとか。
実際、秀秋の寝返りによって西軍が敗れると、西軍を見限って国許・佐賀に帰っていた鍋島勝茂が、徳川勢に鞍替えしてポイントを稼ごうと大軍で攻めてきた。
城方がなんとか踏ん張ってるところに黒田軍が現れ、如水が降伏を勧告したため、城を開いたという。
如水は秀包の妻子を長門に退去した秀包のもとに送り届けた。
裏切り者の秀秋と一緒くたにされるのを嫌った(たぶん)秀包は、小早川姓を捨てて実家である毛利姓に戻したのだとか。

城跡は本丸跡だけが残されていて(と言っても石垣ばかりで建築物はなし)、二の丸、三の丸は潰されて久留米の大企業・ブリヂストンの敷地になっていている。
久留米城は秀包の改易で廃城になり、江戸時代に大改修されたそうなので、秀包の頃の城がどんなものだったのか分からないけど、本丸の基礎(と内堀)が秀包のものの流用で、二の丸以下城下にかけては有馬氏が整備したんじゃないかと勝手に想像しています。



本丸南西側の石垣と堀跡。石垣の上に見えるのが有馬記念館。TOPの写真は大手右側の石垣と掘跡。
東側の石垣。こちらにも本丸に上がる階段があり、その下は駐車場。
本丸跡には明治になって有馬氏を祀る篠山神社が建てられている。
本丸御殿跡にある篠山神社は拝殿と本殿が離れている。

(上)本丸跡にある小さな石の祠は小早川秀包を祀る小早川神社

(左)説明書きに「(秀包公は妻とともに)熱心なキリシタンでしたので、この神社の扉にはアンドレアス十字が刻まれています」とあるので見てみたけど、パウチされた紙垂(しで)の向こうにうっすらと大きなバツ印(X)が見えるだけで、十字架なんかありゃしない…と思ったら、どうもアンドレアス十字とはそういうものらしい。

奥にある妙に緑緑しい木(写真自体も緑がかぶってるけど…)。
月見櫓の近くにはなぜか聖徳太子…。


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